遠い昔に習わされただけの指の運びを、どうしてこんなになめらかに再現できるのだろうか。
鍵盤を弾きながらそれに合わせてゆるく体を靡かせ、黒くつややかな表面に映る自分の歪んだシルエットを眺めては、頤をあげて軽く目を瞑る。それらを繰り返すなかで、フーゴは終着点のない思案をひどく心地よく感じている。三連譜は祈るように。もう顔も名前もうまく思い出せないが、まだ実家に居た頃ピアノを教えてくれていた家庭教師がそう教えていたのを覚えている。祈るように、天に届くように。彼女にとっても自分にとってもただ教育のいち過程として教えていたに過ぎないこの曲を、なぜそんなに大切そうに語るのか、当時のフーゴには到底分からなかったけれども、今ならば少し理解できるような気がしている。

「レクイエムだね」
背後からかかった静かな声に、肩を跳ねさせる。慌てて立ち上がろうとしたフーゴに、続けて、と短く告げると彼はコツコツと靴音を響かせてフーゴの傍らに立った。今に始まったことではないが、また部屋に入ってきたことに気がつかなかった。未だに速度の落ちない脈をなだめつつピアノのボディを介して来訪者を見遣ると、どこか物珍しそうにじっと鍵盤を見つめている澄んだ瞳がふたつ並んでいる。その眼差しは無言の催促のように思われたので、一度深呼吸をしてからふたたび姿勢を正すと、フーゴは神妙に黒鍵を弾いた。
ファツィオーリのピアノが突如として本部に現れたとき、吃驚する幹部らに対してパッショーネの若きボスは至って清らかそうな顔つきで「弾いているところが見たいから」とのたまった。そこには高慢さも我儘も混じっておらず、ただ珍しそうに高価なピアノをしげしげと吟味する少年の面差しと、この世の理をするりと述べただけだというような底知れぬ崇高さが臨接していた。と、ひとりの幹部は心酔とわずかな嫉妬を伴ってフーゴに告げた。フーゴはちょうど新しいチームへの指示とみかじめ料徴収のために数日ローマへ行っていたのだが、本部へ戻った途端にまずピアノの話しをされるとはつゆほども思っていなかったので面食らった。幹部の男はピアノがただひとつ置いてあるだけの部屋にフーゴを残し、ボスにこんなに良くしていただけるとはあんたはなんて幸せ者なんだ、と臆面もなくボディランゲージも交えながら若きボスを称えて去って行った。それがフーゴのために用意されたものだと暗に告げられていたのに、現物を目の当たりにしてもどうにも実感が湧かなかった。ドアの閉まる音がやけに響いた。どうやらこの一室は、他にも増してしっかりと防音処理がなされているようだった。つい数十分ほど前のことである。
「……すみません、これを弾いたら報告に伺おうと」
「いいんだよ。君をここに通してくれと言っておいたのは僕だ」
「その……何故ですか」
「あれ、訳は聞かなかったのか」
静かに蓋を閉じたフーゴに疑問を込めて瞬きをして見せたジョルノは、弾いているところが見たかったんだ、とあの男と同じフレーズを口にした。その飾り気などひとつもない口調が、どうにも自分を居た堪れなくさせる。言葉だけならば可愛らしいとすら思える彼の好奇心は、しかしそれが自分に向けられているのだと思うと途端に得体の知れない輝きを放ち始め、目映さでもってフーゴをまったく使いものにならなくする。瞼を伏せる。気の利いた返答も謝辞ひとつも口から出てこずに、そうですかとだけ返して頭を垂れると、ジョルノは少し苦笑めいた息をついて腕を組んだ。
「墓地に寄らなかったそうだね」
「え」
「まったく、何のために君をローマに行かせたと思ってるんだか」
肩を竦めたジョルノの仕草にはおどけた雰囲気も含まれてはいたが、基本的には呆れているようだった。フーゴは逡巡と後ろめたさをおぼえながら視線をうろつかせ、それは命令がなかったから…と言葉尻を小さくさせて呟くと、身を縮ませるようにして沈黙した。我ながら間抜けな答えだと顔をしかめる。
かつての仲間がローマに眠っていることは、組織に戻ってからすぐに知らされていた。本当はネアポリスに連れて帰りたかったのだけれど、諸事が積み重なっていてそれが叶わなかったのだということも。だからローマ行きの指令を受けた時、フーゴは真っ先に彼の在りし日の姿を思い浮かべた。滞在中もほとんど四六時中といっていいくらい頭の片隅に彼が居たし、今だってそれは同じだ。ピアノに触れて一番にレクイエムを弾こうと指が動いたのだって、考えてみるまでもなくそれが理由であった。
「まだ気持ちの整理がつかない?」
「――いえ、」
かぶりを振ると、知らぬうちに握りしめていた拳をのろのろと開いた。汗が滲んでいる。どうして墓参りをしなかったのかと言われれば山ほど答えようはあったはずなのに、いざジョルノを前にすると喉を通り抜けてくれない。底なしの澄んだ眼は苛むごとくにじっとフーゴを見ているが、そのじつ疑問符など浮かべていないことはよく分かっていた。ジョルノにはとうに見抜かれている。いくらブチャラティ達の死を受け容れたつもりでいても、それを乗り越える覚悟を決めているとしても、墓標を前にしてはきっと自分は赤子のように無力になる。遠いどこかで星になってしまった彼らではなく、冷たい石の下で眠る彼らを目の当たりにしたら。そう考えるだけでみぞおちがしんしんと冷えていくのだ。皆にみっともない姿を晒したくはなかった。そしてそのちっぽけな意地は、ジョルノに対しても同じだった。
「フーゴ」
「わかってます、どんなに無礼なことをしているか……でも」
「午後一のローマ行きの列車を手配してくれ」
「……へ?」
震えがちだった声が、途端に気の抜けたそれに変わってしまった。目を瞬かせているフーゴにやはり苦笑めいた顔をして見せてからジョルノは、勿論ふたりぶんだからね、と言い加えるとさっさと踵を返して部屋を出ていった。ドアの閉まる音に被さって、ジョジョ、と未だ呼び慣れない呼称をためらいがちにのせたフーゴの声が防音壁に響いた。




小高い丘の上に在るその墓地は、さほど敷地面積があるわけではないけれども見晴らしが良く、ここちよい風が吹き抜ける場所であった。遺跡地区が遠くに見下ろせる。つい今朝まで居たのは市街地の雑然とした区域であったから、まるで違う街みたいだとフーゴは思った。柵のそばには白百合が植えられていて、肌になじむ風にやわらかく吹かれている。薄曇りの空にはヴェールの様な雲が見はるかす限り続いている。すぐそこには観光客でひしめきあう広場やフィウミチーノ空港を発着する便の腹に響くような騒音、それに色濃い陰影を湛えるコロッセオまでもがあるというのに、それらを忘れてしまえるような穏やかで静かな丘だった。

目の前には、まだ新しい乳白色の墓石がある。刻まれた名前と日付を食い入るように見つめているフーゴの隣で、ジョルノは先程から一言も発することなく風に髪を揺らしている。唐突に自分をローマまで連れてきた彼に何かを言わなければと思うのに、意識も視線も墓石に吸いつけられたきり外すことが出来ない。まばたきさえ忘れていた目がひりひりと痛み、耐えきれずにきつく目を閉じれば、かすかに焼けた網膜がまぶたの裏でちかちかと光の名残を躍らせた。涙が出るかと思ったけれど、目を開けても瞳は乾いたままだった。
「フーゴ、じっとしていて」
不意にすぐそばで囁いたジョルノが、後ろに回って何かをしはじめた。訝しみつつ言われたとおりにしていると、しょきりと小気味の良い音がする。なにしてるんです、若干慌て気味に首を回そうとしたフーゴに動かないでと再び念押しをして、彼はくいとフーゴの後髪を引っ張ったかと思うと、だいぶ伸びたねと穏やかに呟いた。どこに持っていたのか、小さな鋏でジョルノはフーゴの長い襟足を切っている。突然の行動にわけが分からないと眉を下げたまま、いいよと合図が来るまでじっと待つことにした。
「はい、できたよ」
「……これは」
「君のイメージ通りかは分からないけど」
作業を終えたらしいジョルノが差し出してきたものを見て、フーゴは喉の奥がつんと痛んだのを感じた。手を伸ばそうとして中途半端な高さに持ち上げた指先に、みずみずしい花弁が触れる。びくりとして引っ込める。色合いの異なる三つの花をあしらった小さな花束が、ジョルノによって差し出されている。花を買っていきましょうかと尋ねた時にノンと言ったのは、こういうことだったのだ。ヴィオーレ、ロッソ、ビアンコ、並ぶ色彩を順に目に映すにつれて息が苦しくなるような錯覚をおぼえ、強く首をぶんぶんと振る。ほのかな香りしかしないのに、吸い込んだ途端にむせかえるような芳しさが体中に回っていくようだった。これが自分の髪から生み出されたものだと思うと、信じられない気持ちでいっぱいだった。
これがブチャラティ、これがナランチャ、これがアバッキオ。受け取りながら花をひとつずつ瞳に映して色の印象で名前を述べてゆくと、ちゃんと当たっていたねとジョルノは嬉しそうに面差しを緩めた。彫刻のように整った顔が少しだけ幼くなる。そのほほ笑みに瞠目する。この人のこんな笑顔を見たのは、これが初めてだ。
「悲しみの質は違うけれど、君には君の深さがある。他人には覗き込めない淵が誰にでもある。それを僕は、もう少し考慮に入れるべきだったかもしれない」
墓標を見下ろすと、ジョルノは静かだが質量のある声でそう紡いだ。
「……あなたの、」
「ん?」
「いえ……僕はあなたのことを、何も知らないんだと思って」
「それは僕だって同じだよ、フーゴ」
かつて数日間だけ仲間として共に戦った新入り、今では遥か高みに君臨しているこの少年が、まるで友人みたいな穏やかさで目の前にいることが不思議でならない。一体あの頃はどうやって彼に接していたのだったか、今ではあまりはっきりと思い出せなかった。ぽっかりと開いていた半年間という空白が彼の立場をまるきり新しいものへと変容させてしまったのに、丁寧に記憶をなぞればジョルノは初めからひたすらにジョルノだった。それだけがはっきりとしている。けれどもひとりの人間としてのジョルノを、自分はまったくといっていいほど知らないのだ。分不相応だと理解してはいる。それでもフーゴは今、かつての仲間として自分と一緒に墓地に立っている、立ってくれているジョルノのことを、もっと知りたいと思ってしまった。
「すみません」
「僕も聞かせてほしい。君と…君達のことを」
「……すみません、っ」
白い墓標に花をたむけると、そのまましゃがみ込んで自分の膝に頭をうずめた。静かな声が胸の中に積もってゆく。そこから春の芽吹きのような痛痒さが広がってゆく。ひとりでに口をつく謝罪は誰に向けての言葉なのか、フーゴ自身にも分からない。決して許してもらおうなどとは思わない。ただ生きているのだと感じている。世界の誰よりも貴いこの少年と、命尽きるまで生きていくのだと感じている。