ほんのわずかな明かりさえ吸い込まれそうな、濃い闇が広がっている。
真夜中の海岸通りを走る車がほかにないのをいいことに、フーゴはおそらく史上最悪な視界であるにも関わらずハンドルを握り、感覚に頼りながらうねりの多い路を進み続けていた。行き先などは決まっていない。朝までにポルポの元へ戻れば何も不審がられることはないはずだったから、それまでは道の許す限りだらだらと走り続けていようと考えていた。助手席に座るアバッキオに意思確認をしたかどうか定かではなかったが、黙っているところを見ると同じ意見と見てよいのだろう。無駄なドライブなど決して好むはずのない彼でさえ、このまま報告に戻るのは避けたいと考えているのだ。なにせみっともないのだから。
「――っ、ああ畜生まただ」
苛立ちと遣る瀬無さを綯い交ぜにしてがしがしと髪を掻き乱したアバッキオが、車窓の縁に肘をついて目元を乱暴に擦っている。洟を吸い込む音がいやに響く。あんまり擦ると皮が剥けますよ。似たり寄ったりの涙声で言ってやりながらサイドミラーを癖で見遣ったけれども、ぼやけて何も見えやしなかった。そのまま隣に目を向けようとしてやめる。どうせ表情なんて分からないだろうし、瞼を閉じていたって敏感に視線を感じ取ったアバッキオに睨まれて、前見やがれ、とドスの利いた声で跳ね返されるに決まっている。
ひとつ瞬きをすれば、張力で眼球表面にとどまっていた水が決壊するように押し出され、なまぬるい感触を残しながら両頬を落ちていく。胸から喉にかけて詰まるような苦しさが襲う。生理現象として呼吸がひきつる。そして極めつけは脳裏にひとりでにフラッシュバックする、人生でおそらくは一番悲しかった時の記憶。それらに顔をしかめ、ますます悪くなった視界をどうにかするためにフーゴは自らのネクタイで涙を拭った。お気に入りの一本だったのに、こんな間抜けなことに使う羽目になるだなんて、一体誰が予想できただろうか。
「おい、右へ切れ」
「すみません」
波が去ったらしいアバッキオが少し強張った声で告げてきたので、すぐにハンドルを切る。ガードレールの白色が今のフーゴにとって頼みの綱であったが、いかんせん距離感は掴みにくい。ああまったくこんなことで事故でも起こしたらどうするんだ。ブチャラティに何て説明したらいいんだ。今置かれている状況の全てにいらいらしながら、それでも絶対に車を止めることはしたくない。静かな真夜中に男二人で泣き続けるなんて、想像するだけでぞっとする。


こんなに体から水分が抜けて大丈夫なのかと気掛かりになるほどには、フーゴもアバッキオも先刻より涙を流し続けている。敵のスタンド能力にやられたのだ。正確に言えば敵だった男の娘だが、今となってはどうだってよいことだ。パッショーネに何らかの恨みを持っていたらしいその男が別グループに接近を試みている、阻止せよ、手段は問わない。というのが今回の仕事だった。よくありがちな内容だったのに何故かブチャラティではなくフーゴに直接指令が来たからいぶかしんでいたのだが、なんのことはない、男にはまだ幼い娘が寄り添っていたのだった。しかも男が別グループに取り入ることが出来たのはその娘のスタンド能力によるらしい、という調査報告が当日になって電子メールで届いた。流石にポルポは部下の性格を熟知している。フーゴはこの仕事についてブチャラティに告げないまま、アバッキオと共に男とその娘のもとへ向かった。それが今日の夕方のことだった。
「ったくふざけてるぜ、こんな能力はよぉ」
聞いたこともない弱々しい声にはたとして、フーゴは胸がざわざわと騒ぐのを感じた。また波がやって来たらしい。少しの時間差で同じ攻撃を食らったのだから、アバッキオがどんな状態なのかは手に取るように分かっているつもりだ。娘のスタンド能力は想像以上に厄介だった。なにしろターゲットの男が観念して娘ともども自殺したというのに、まだ効力が続いているのだ。
「まったくですよ……ばかみたいだ」
フーゴの脳裏には、祖母が死んだ日の心情のなにもかもが生々しく蘇っている。記憶のテープを巻き戻すがごとく繰り返し繰り返し同じ光景を見せられては、無理やりに喜怒哀楽を体に注ぎ込まれているようなどうしようもなさが襲ってくる。悲しみを認知する部分だけがあの日へ押し戻されている。そのたびに涙と嗚咽が止まらない。胸が押し潰されてしまうような感慨が、現実におけるあらゆる思考を許さない。自分の過去の悲しみによって攻撃されているのにも等しい、それがあの娘の能力であった。男は娘のこの能力を使って別グループに接近したのだ。
娘が死んだことでふたりに与えられた効果は次第に弱まってはいるようだったが、こんな状態ではとても報告になど戻れない、というところで無言のうちに意見は一致していたため、レンタカーでこんなうら寂しい海岸通りをひたすらに走っている。ぼろぼろと涙を流しながらドライブする男どもなんて、金を出したって遭遇したくないような代物だ。それが今の自分たちだっていうのだから反吐が出そうだ。前向きに考えようとするならば、この仕事にブチャラティが関わらなくて本当に心からよかったと思える、ただそれだけがふたりの強制的な悲しみと自主的な苛立ちを和らげていた。
(…………)
助手席のアバッキオは、手の甲を額に押し付けて俯いたきりじっとしている。耳を澄ませば噛み殺した嗚咽が聞こえるかもしれなかったが、フーゴは逆に自らの洟をすすって音をたてることに専念した。初めこそ誰かの前でみっともなく泣くなんて羞恥の極みだと思っていたのに、慣れてしまえばもう投げ遣りの境地である。相手が年上かつ気兼ねする必要の少ない彼だからというのもあるだろう。彼のほうは年下の前で泣く羽目になって不憫だが、同情してやる気も起こらなかった。泣くというのはこんなにも疲れるのかと、十数年の人生でおそらく初めてフーゴは自覚していた。アバッキオもそう感じているのだろうか。それともこんなことはもう、彼は知っていたのだろうか。

「……ちゃんと泣いておけばよかった。今になってこんなに疲れるなら」
「……お前それ、マジで言ってんのか」
「マジだよ。アバッキオだってそうだろ」

掠れがちの問いかけに、アバッキオは少し嗚咽を飲んだような音をたてただけで、答えようとはしなかった。もとより返事を期待してなどいなかったから、すぐに意識を過ぎ去ってゆく景色へと戻す。視界はだんだんとはっきりしてきている。それに伴って空が白み始めているのが見えた。夜通し走っていたのかと思ったら急に眠気が押し寄せてきて、泣き疲れもあってこりゃあよく眠れるだろうな、と自虐的なことを考えた。ネアポリスの街並みが朝陽に照らしだされる頃には、すっかりあの娘のスタンド効果も消え去るだろう。
悲しみをただ悲しみとして両手でずっしりと抱えたまま、こんなに長い時を過ごすのは初めてだった。恐らくぼくらみたいな種類の人間はそういうありふれた情の動かし方すら知らないまま、もっと攻撃的あるいは退廃的な衝動に身を委ねてしまうからだろうとフーゴは思った。世の中のまっとうな、優しい人々ははもしかしたらこんな感慨ばかりでいつも生きているのだろうか、そう考えたら少し淋しくなった。


アバッキオが、小さく誰かの名前を呼んだような気がした。フーゴは聞こえなかったふりをして、おぼろげに浮かんだ祖母の優しい笑顔を自分の一番深いところに焼き付けた。彼女の唇は、今はもう誰も呼ばなくなったフーゴの呼び名を幾度もかたちづくっている。古き日のなごりである。ぼくはもうあの人を想って泣くことはないだろうと、フーゴには分かった。