みぞれ混じりの雨が降り続いている。日中はたしか普通の雨であったはずだが、陽が暮れはじめた頃には雨粒は白み、屋根や窓ガラス、それから水路の水をばしゃばしゃと鳴らしていた。寒さの増した今ではいっそう音は大きくなり、夜のうちにますます雪じみてくるのではなかろうかと思われた。通りでは早めの店じまいをするマンマ達が慌ただしく動き回り、戸を閉めたり看板を急ぎ下ろす音があちらこちらで響いている。
「…早く雪になればいいのに」
クリアとはほど遠い窓ガラス越しにぼんやり見える外界を眺めていたフーゴがぼやきを含めて呟くと、唇に触れていたブチャラティの親指のはらがぐい、と抑え込むように力を込めた。「動かすんじゃない」間近で窘めるように言われ、少しむっとしながらも再び黙りこむ。黒いつややかな瞳がじっとこちらを見ている。オイルを塗る指先がゆっくりを動いているのが分かる。
彼のやることなすことに不満を呈したいわけでは勿論ないが、今は少々息苦しい。口を噤んでしまうと、みぞれ雨が落ちる音や水の流れる音、屋内で誰かが動く音が俄に耳につくというのに、どういうわけだか人の声というのが聞こえないのも息苦しい訳のひとつなのかもしれない。そう思いつらねたところで、これはぼく自身のことではないな、とようやく気がついた。年上のくせにやけに子供っぽいあいつの顔が浮かぶ。唇が薄い膜におおわれてゆく感覚に身を委ねながら、フーゴはのろのろと瞼を下ろす。氾濫する水音に飲み込まれるようなかんじがする。
「あいつは、こういう音が嫌いだそうですよ」
「……ナランチャのことか?」
「ええ。この前ぐずったマンモーニみたいに膝を抱えてそう言ってました」
出来るだけ唇を動かさないようにしてひと息に喋った己の声が、いかにも不機嫌ですというふうに耳に入ってきて顔をしかめる。すぐ目の前に居るブチャラティの相好が、いくらか変わったような気がした。気を悪くさせただろうか。そんなつもりじゃなかったのに。フーゴは言い訳じみた言葉を飲み込んで口の端をむずりと動かすと、極力ブチャラティの姿が視界に入らないように目を逸らした。
「――っ」
不意に唇にぴりっとした痛みが走り、肩が揺れた。ブチャラティの指が、ちょうど切れていたところに触れたのだ。すまん、と驚いたように手を止めた彼に大袈裟だと笑みを浮かべて見せ、自分でも触れてみようと手を持ち上げる。しかしその手は唇に届く前に掴まれてしまった。顎も手も掴まれた格好になる。ぼんやりしてから、ふたりの体勢を客観的に頭の中で認識して見て、とたんに一瞬なにかを叫びたくなったのだが、それが言語化する前に喉が苦しくなり、意味なく口をぱくぱくとさせるだけに終わった。
「せっかく塗ったのにとれちまうだろう、」穏やかな声色でまたしても窘めるように言われ、それもそうかと頷いてしまいつつも居た堪れないような気分になって、掴まれた手に必要以上の力を込めて彼の手をほどいた。


いくばくかの沈黙が流れた。
フーゴは今自分がどんなに馬鹿らしいことを考えているのかをいやに冷静に眺めてから、眉間にぎゅっと皺を寄せた。壁に背をあずけて唇にオイルを塗ってもらっているなんて、ただの子供じみた光景だろう。ブチャラティにしてみれば自分はまだほんのガキであるかもしれないが、こんな保護者みたいなことまでしてくれなくてもいいし、してほしくないとフーゴは常々思っている。自分はこの人の役に立つためだけに此処に居る。仕事に関する事柄ならばいざ知らず、唇が切れているからってわざわざキャビネットからオイルを取ってきて、ブチャラティ手ずから塗ってくれようとするのを受け容れる必要なんて、これっぽっちもなかったはずだ。この人は時々呆れるくらい優しくなるから、その柔らかい部分を守ってやるのが部下である自分の役目であるのに。あろうことかこんなことまでしてもらって、しかも勝手に怒って勝手に照れている。ブチャラティはそんなつもりじゃあないのに。そんなつもりじゃあ。
(何をやってんだ、ぼくは)
今すぐブチャラティが此処から出ていってくれたなら、すぐさま頭を抱えてしゃがみ込んでいるだろう。触れられているところから、じわじわと顔中に熱が広がっていく心地がしている。怒りで我を忘れてしまう時のあの白い熱ではなくて、思考が行き場をなくして滞留していくような、もどかしい火照りを伴っている。


フーゴの自宅は、ブチャラティが事務所にしている建物から通りを二本隔てたかまびずしい住宅街にある。学生の多い通りで、安価な店が立ち並んでいる。
ナランチャが組織入りを果たして正式にブチャラティの部下になってから、フーゴはブチャラティの指示で自宅である小さなアパートの一室に彼を住まわせていた(手引きしたことがばれたので、お前が面倒を見ろという無言の圧力を感じないこともなかった)。自宅と言ってもブチャラティが手配してくれた部屋で、生活に必要な最低限のものの他には書物がただうず高く積まれているだけだったのが、ナランチャが来てからあっという間に賑やかで雑然とした部屋に様変わりしてしまっている。こうやって突っ立っている廊下の端には彼がどこからか拾ってきたラジカセが幅を利かせていたし、碌に読みもしないくせに流行りのファッション雑誌なんかを手に入れてきてはそれを放っておくから、リビングはやけにちかちかしている。
何度言ってもキレても聞かないからあんたが言ってやってくださいよ。様子見も兼ねて以前より頻繁にアパートを訪れるようになったブチャラティにフーゴはたびたびそう頼んでいたが、ブチャラティはその都度笑うだけで雷を落としてくれる様子はなかった。そんなブチャラティに、ナランチャは驚くべき速さで懐いているようだった。
(甘いんだ、ナランチャにも…ぼくにも)
魔が差したのだろうと思う。たまたまナランチャが不在のときにブチャラティが来たから、偶にはあいつみたいに甘えてみてもいいかという油断が生じて、さし伸ばされるブチャラティの指を待ってしまったのだろう。それがいけなかった。ナランチャみたいに上手く甘えられるわけでもないのだから、余計なことばかり考えて勝手に追い詰められていく感覚に襲わることくらい、予想しておかなければいけなかったのだ。勘違いなんてするほど初心ではないけれど、とにかく頭が勝手に回ってしまう。意識してしまう。
「フーゴ、」
「え?」
気がつくと、目線が重なっていた。ブチャラティが少しだけ屈んだのだろう。ということを認識した時には、吸い込まれそうな双眸が間近に迫っていた。静かで底の深い目の下まぶたがいくらか盛り上がって、細められた黒い瞳の奥まで見透かせるような気がした。その目から表情は読めなかった。どうやら普段通りらしいとだけ思った。何もかも、彼の全てがすぐそこにある。唇に触れたものを温かいとも柔らかいとも感じなかったが、代わりに妙な安堵感があった。だけれどせっかくあなたが塗ってくれたのに、オイルがもっていかれるじゃないか。まず考えたのはそういうことで、フーゴは目を丸くして一度まばたきをしたきり、とうとう目を瞑るのを忘れていた。
「ふは、けほっごほっ……」
「おいおい、キスで噎せる奴がいるか」
静かだが冗談交じりの口調にあんたがいけないんでしょ、と八つ当たりでしかない憤慨をしてから、フーゴははたと気がついて口を結んだ。そういえばキスをしたな、とひと足ふた足遅れて自覚する。なにもこれが初めてではないが、こうも前触れなくされるとは思わなかった。だって彼はそんなつもりじゃなかったはずだ。無意識に眼前の肩に押すように触れれば、ブチャラティはおかしむように幾許かほほ笑みを加え、憮然として呼吸を整えているフーゴの髪をゆっくりと撫でた。
「お前、どんな顔してるか分かってるか」
「わ、分かってますよッ」
「そうか、それならいい」
笑いを押し込めたような声色を受け取った耳が脈打つほど熱くなったのを感じ、片手で顔の半面を投げやりに隠した。ブチャラティの指がまたオイルを掬っているのが、視界の隅に見えた。じっとその指を待ちながら、できるだけ何も考えずに済むように努める。ちょっと目線を上げればすぐそこにあるはずの黒曜石みたいな両眼を、決して見てはいけない。目を合わせれば自分が考えていることなんて、この人には全部伝わってしまうのだ。きっと。
耳を澄ますとみぞれ雨の音は失せて、窓外を見やれば白いものがちらちらと降り始めていた。