近ごろめっきりナギサを訪れなくなっていたバクが実に数カ月ぶりにネンドールのテレポートでデンジの自宅に降り立ったのは、デンジがちょうどコインランドリーから戻ってきたときのことだった。ドアの前であっデンジ兄!と声をあげた少年の人懐っこい笑顔と白い歯がまぶしい。デンジは一瞬だけ複雑そうな目をしたが、直ぐにそれまでの気だるげな姿勢と顔を幾分か改めて脇に抱えた洗濯カゴを抱え直すと、よう、と軽く片手を持ち上げて見せた。少し見ないあいだに背が伸びたんじゃないだろうか。こどもの成長は早いものだ。そんなしみじみとした感慨に、自然と表情も緩む。バクはそれこそ赤ん坊の頃から知っている、弟のような存在だった。
「あれ、デンジ兄んちって洗濯機なかったっけ?」
「いや……ちょっと壊れててな」
きょとんとした視線を受けて溜め息をついたデンジは、説明が面倒だというふうに軽く肩をすくめた。実のところ洗濯機が壊れたのは昨日だったし、そこにはバクの兄貴も居合わせていたのだが、この話はどうせそのうち兄弟間で笑い話になるだろうからいちいち自分が教えるのは億劫だった。今抱えている洗濯物の中にお前の兄ちゃんの服も入ってるぞ、ということがらも含めて。
「それよりどうしたんだ、俺に何か用か?」
「あ、うん! じつはデンジ兄に見せてほしいもんがあってさ。えっと、兄貴には頼めないからさ」
「……そうか、お前もそういう年頃だよな」
急にごにょごにょとどこか気恥ずかしそうになったバクに、デンジは悟ったように目を閉じて頷いた。やはりこどもの成長は早いものだ。うかうかしていたらいつの間にかいっちょまえの男になってしまっていた、なんてよくある話だ。デンジは思春期ならではの少年の気まずい心境を思い、わざわざそういったものを俺に見せてもらいに来るなんて可愛い奴だ…などと一人で微笑ましい気分になりながらバクの頭に手を置いたが、その手は間髪いれずにまだ成長途中の手に払い落とされた。
「な、なんか勘違いしてるだろ〜ッそういう年頃ってなんだよ!」
「エロ本を見たいんじゃないのか」
「ちがうって! オレはアルバムを見せてほしくて来たんだぜ!」
照れて真っ赤になったバクに腕をばしばし叩かれて洗濯カゴを落としそうになり、両手で持ち直す。なんだ違うのか、と肩透かしを食らった心地で、少年の後ろでひとまとめにした赤髪を見やる。髪質は大違いだが、こういうすぐ騒ぎ出すところは兄とよく似ている。デンジが少々たじたじとしてアルバム?と分かりやすい疑問符を浮かべれば、バクはようやくおとなしくなってネンドールをボールに戻した。



「オーバのガキの頃の写真?」
「そう! なんか兄貴さー、『俺はガキの頃はアフロじゃなかったから格好悪くて見せられねえ』とかいって、小さい頃のアルバム見せてくれないんだよ」
ソファーに胡座をかいて陣取ったバクの、さすがに特徴をうまく捉えている声真似に吹き出したデンジは、ミネラルウォーターをバクに投げてやりながらダイニングを横切りキャビネットへ向かった。フローリングに敷いてあるカーペットの一画では、エレキブルとエテボースが器用に洗濯物を畳んでいる。
「なあなあ、ホントに兄貴って昔はアフロじゃなかったの?」
「いや、立派なアフロだったぞ」
笑いの波がまた襲ってきたのを噛み殺し、ごそごそとキャビネットの棚を漁る。乱雑というほどではないが無造作に押し込められた本や雑誌の中からそれを引っ張り出すと、デンジは軽く埃を払った。それからちょっと口端を上げる。オーバに悪いという気は別に起こらなかったが、妙なむず痒さがあった。デンジのもとにあるオーバの写真といえば、つまりデンジも一緒に写っているものが殆どということだ。
「……おおかた、こういうのを見られたくなかったんだろう」
「え? ……あ〜! これっておねしょじゃん!」
デンジが開いて見せたページには、まだ幼稚園くらいのオーバとデンジがいわゆるおねしょ染みのついた布団の前で笑っている写真が収まっていた。照れ笑いをしてふざけたポーズをとっているオーバを、デンジが小突いている。オーバの頭はしっかりくりくりしたアフロだったし、デンジもその頃からツンツンした髪質をしていた。
「これは俺の家で泊まった時でな、オーバは母ちゃんには内緒にしてくれとか言っていたが、結局俺のおふくろがオーバの母さんに話してすぐばれた」
「あはは! なーんだこんなことかぁ!」
腹を抱えて笑っていたバクが、まだ可笑しそうに声を弾ませたままアルバムをめくりだした。目がきらきらと輝いている。やっぱり兄貴は昔からアフロだったんだなーと感心したようにひとりごちて、自分のポケモンにもそれを見せてやり始めた。何にもまして、そこが一番気になっていたらしい。
バトルとはまた違った顔つきで楽しげに写真を見つめているバクを眺めながら、あいつも兄貴のプライド的なものがあるのか、とデンジはまた別のところに感心と愉快さをおぼえていた。しかしこういったネタを隠そうとするあたりがまだガキだといえばそうだったし、つい昨日の出来事を思えばまるで昔のまま変わっていないようにも思う。デンジがオーバの服を乾かしてやっているあたりも、考えてみるとおねしょ事件と似たようなものだ。
「ん? ……ああ、ご苦労さんだったな」
ふとジャケットを引っ張られてそちらを見れば、エテボースが尻尾でくいくいと裾を掴んでいた。洗濯物を畳み終えたらしい。デンジは自慢気なふたりにおやつをあげてから、ひとしきり頭を撫でてボールに戻した。

「……あれっ?」
まったく可愛いやつらだ、と親バカ全開で気を緩めていたデンジであったが、そこへかかった声にはっとして顔をあげた。嫌な予感がする。
「デンジ兄、こいつ出たがってるみたいだぜー」
アルバムを見ていたバクが、いつの間にかそれを置いてひとつのボールをしげしげと眺めている。ボールはよく見れば分かる程度に小さく動いており、それは中のポケモンが外に出たがっている時によくみられる現象だった。デンジはさーっと頭が冷たくなるのを感じた。漫画やアニメでいうと、顔に青い縦線が入るあのかんじだ。
「待て!そいつを開けると――」
いつになく切迫した声をあげ、バクのほうへと駆け出す。このままだと昨日の二の舞だ。しかしわずか数歩の距離を詰めるよりも、バクが開閉スイッチを押すほうが速かった。デンジが頬をひきつらせた時には赤い光がバシュッとひらめき、中から何かがものすごいスピードで飛び出したと思うと、次の瞬間にはもう姿が見えなくなっていた。

『だから言ったんだ! そいつを俺の部屋でボールから出すと……うわ、おい早く戻せよ!』
『ぎゃーっ! 水鉄砲食らった!』
『逃げるな! よけい追ってくるだろうが!』
『デンジッお前もっとしつけとけよなぁ〜!』

ロトトトトト!

昨日と同じ鳴き声がデンジの家に響いている。あれはコウキから預かっているいたずら者のロトムが、お気に入りの洗濯機を見つけて喜んでいる声だ。昨日はあいつのおかげでデンジもオーバもずぶ濡れになり、キッチンを中心にそこらじゅうが水浸しになったのだ。
うわっ何だよアレ!と目をしばたかせているバクがオーバの姿と重なり、兄弟ってものを甘く見ていた、とデンジは洗濯物を抱えながらついでに頭も抱えたくなった。よりによって、まったく同じ手順でロトムを出してしまうとは。洗濯物もせっかく綺麗に畳んであったのが、これではすぐにぐちゃぐちゃになってしまうだろう。
「バク、早くロトムをボールに戻してくれ! 今度は掃除機あたりが狙われるぞ!」
「ええッ?!」
わけがわからないというふうに両腕をばたつかせながらそれでも鳴き声の元へ向かったバクの背を見送り、デンジは掃除機をはじめフォルムチェンジに使えそうな電化製品をロトムより先に確保するべく走り出した。水浸しはにほんばれでなんとかなったが、もう部屋を荒らされるのは勘弁願いたかったし、電化製品を壊されるのも御免だった。
ロトムの楽しそうな声を聞きながら、後でオーバに八つ当たりしてやろう、とデンジは心に決めていた。どうやらバクには怒れそうにないし、ロトムにはもっての他だ。