バリトンが、風邪をひいてしまいました。


「うう〜……ねえ大丈夫ですか? 苦しい?」
「…………」
「バリトぉン……ねえってばぁ……」
「……大丈夫だから、静かにして」
ベッドに潜りこんでいたバリトンが、鼻から上だけを出してボクをジトっとした目で見上げてきました。青い目はいつもよりもぼんやりしていて、少し潤んでいます。さっき熱を計ったら三八度近くあったので、かなり辛いはずです。バリトンはボクやバスドラよりも体温が低いんです。
ベッドの傍に座り込んでから、ボクは何度かこんな調子で怒られています。しんどいのは分かっているんですが、つい気になるので話しかけてしまうんです。
「水、いりますか?」
「ん〜……今は、ごほッ……いい……」
バリトンはゆるく頭を振って、また布団の中に潜りこんでしまいました。
ここは時計塔の物置のような部屋で、一応ボクたち三人の寝室です。と言ってもベッドが三つあるだけで、他には何も置けないくらい狭いところです。セイレーン様は同じ広さの部屋をお一人で使っているので、バスドラはいつも文句を言っています。まあ、それは置いといて、
「ファルセット」
「んー?」
ごろん、と布団の中で寝返りを打ったバリトンは、ボクに背を向けて小さく名前を呼んできました。喉もやられているみたいで、掠れた声をしています。ボクは高―い音が好きですけど、でもバリトンの声は嫌いではないので、ちょっと切ないなと思います。
顔を近づけてみると、こちらを向かずにバリトンは喋りつづけました。
「……べつに、ずっとここに居なくてもいい」
「ええっ?」
「音符でも探しに行けば……」
 籠りがちで、拗ねたようなトーンです。
「で、でも……バリトン寂しいでしょ?」
「っ寂しくない! ……ごほっ、けほ」
「ほらぁ、喋ると咳出ますよ」
「……だから、嫌なんだよ」
「え?」
「お前と喋りたくない……」
があん!
もぞもぞと頭まで布団に潜ってしまったバリトンの、ちょっと覗いている水色の髪を見つめて、ボクはその場で固まってしまいました。まさかそんなに辛いなんて、思っていなかったんです。
「……わかりましたぁ」
ボクはちょっと悲しい気持ちになりながら、ゆっくり立ち上がりました。
いつも一緒に居るバリトンが、ボクをこんなに嫌がるのは滅多にないことです。バスドラとは喧嘩ばっかりしているけれど、ボクには結構優しいんです。だからショックでした。けれど、風邪だから仕方ないと思うことにしました。悲しいけど、しょうがないんです。
「ごめんなさァい……」
マントの裾についていた埃を払って、聞こえるか聞こえないかの声で呟いて、部屋を出ようと歩きはじめた時でした。
「……待て、」
「っ……?」
ぐい、とマントが後ろに引っ張られました。
たたらを踏んで振り返ってみると、バリトンの手が布団からにょきっと生えていて、ボクのマントを握っています。
「バ、バリトン?」
「……やっぱり、そこに居て」
「ええ〜っ、なんですかぁそれっ」
へなへなと力が抜けました。
あんなに悲しかったのに、もうその気持ちはどこかへ行ってしまい、替わりに訳が分からなくなって首を傾げました。
「……喋りたくないのは、本当さ」
マントを握ったまま、バリトンがまた目から上だけを覗かせました。眉毛が困ったように下がっています。ボクはそんなバリトンが可愛く見えました。でも可愛いと言うと怒るので、口には出しませんでした。
「私の声、おかしいだろ」
「え。う〜ん、それはカゼだからしょうがないですよ……」
「だから、喋りたくない」
「……なァんだ、そういうことかあ」
床に座り直すと、ボクはやっと安心してベッドの端に頬杖をつきました。間近で目を合わせると、拗ねたように目を逸らされてしまいました。でもバリトンがボクを嫌がっていたわけではないと分かったので、自然と顔がゆるんでしまって止められませんでした。
「……じゃあ、ボクが子守唄歌ってあげましょうか」
「……いい」
「ええ〜、遠慮しなくていいのに」
「…黙って、手でも握ってて」
ふい、と顔を向こう側に向けてしまったバリトンは、マントを握っていた手を離してボクの目の前に伸ばしてきました。白くて細い手は、いつもより弱々しく見えます。
ボクは、ちょっと悪いかなと思いながらも嬉しくなって、ぎゅっとバリトンの手を握ってあげました。


「――おい、おいファルセット、起きろ」
「う〜……ん?」
「ったく……お前まで寝てどうすんだ」
「あれッバスドラ!おかえりなさ〜い」
見上げると、音符集めに行っていたバスドラが腕を組んで立っていました。どうやらボクまで眠ってしまっていたみたいです。
「まったくよ、せっかくアンタを留守番にしてやったっていうのに」
とん、と頭に重みが加わりました。セイレーン様も戻って来ていたようです。
二人が部屋に入ってきたことに全然気づかなかったことに少し驚いて、それからハッとしてバリトンの様子を窺うと、まだ眠っていたので胸をなでおろしました。ボクらのせいで起こしてしまったら可哀想です。
「おら、そいつが起きたら飲ましてやれ」
「うわァ〜、これがこっちの風邪薬なんですねえ…初めて見ました」
「それ高いのね、びっくりしたわ…治ったらしっかり働いてもらわないとね」
セイレーン様は僕の頭上でふん、と鼻を鳴らしたかと思うと、あっという間に部屋から出ていってしまいました。その後ろ姿にありがとうございます、と小声でお礼を言うと、バスドラにどつかれました。
「買ったのはオレだ」
「あはは〜、バスドラもありがとうございまァす」
バスドラはセイレーン様と同じようにふん、と息をつくと、ちらっとバリトンを見やってから踵を返しました。世話の焼ける奴だ、という声が聞こえた気がします。なんだかんだ、喧嘩相手がいないと寂しいんですね。
「ねえねえ、バスドラ」
「あ?」
「バリトンって、可愛いですよねえ」
「は〜? お前まで熱でもあんじゃねえのか」
思いっきり顔をしかめると、しっしと手を振る仕草をして、バスドラは部屋を出ていきました。熱なんてないですよお、と言い返す暇はありませんでした。
 

そういえば、と思い出して自分の右手を見てみると、まだ手は繋がれたままでした。
またバリトンと一緒に歌いたいなあ、と思いながら、ボクは少しだけ握る手に力を込めて、ベッドに上半身を預けました。