レースのカーテンから、朝日が透けて降りそそいでいる。少し眩しいけれども陽の匂いがして心地よい。外ではもう誰かが音楽を奏でているらしく、澄んだ軽やかな音色がこちらにまで届いている。雲の中にでもいるみたいだ。
そんなことをぼんやりと思いながらごろんと寝返りを打ったところで、はて今は何時だろうか、と重たい頭が動き始めた。こんなに日が高いのならば、いつもならとっくに持ち場に着いていなければならない時間ではないだろうか。しかし今日は彼が起こしに来ていない。ふにゃけた性格ではあるが寝起きは良いらしく、毎日ほとんど決まった時間にやって来る、柔らかい声の、
「バリトン! 起きてくださ〜いっ♪」
「う〜ん……ファルセットうるさい」
思い浮かべようとしていたら、それよりも早く遠慮なくドアが開かれた。来たら来たで騒々しい。この声はときたま裏返るところが難点だ、と眉をくしゃっと歪めてから、バリトンはのそりとベッドの上で半身を起こした。まだ頭がぐらぐらしているような気がする。あまり他人に知られたくはないのだが、寝起きは良い方ではないのだ。「あはは、寝癖ついてる」「……これは元からさ」ファルセットが自分の髪を右側にぴょん、とカールさせる仕草をしたので、欠伸を噛み殺してぼそっと返事をした。


「いったい何のご用でしょうねえ〜」
空に架かる虹の鍵盤に運ばれながら、ファルセットは小首を傾げた。ふたりの揃いのマントが、穏やかに風になびく。足下を通り過ぎてゆく七色の鍵盤は、光を透かして淡く輝き、角度によって細かに色を変えている。
いつも虹色を眼下に見送るたび、もしも足をつけたらポロロン、とメロディを奏でられそうだなと思っているのだが、空を飛ぶように運んでくれるものだからそれを試してみたことはない。
宮殿の女王の間まで直通のこの架け橋は、ふたりを呼び出した張本人であるアフロディテによって渡されたものだった。城においでなさい、と伝言が届いたのはつい昨日のこと。そのため今日は仕事をバスドラに任せて、こうして宮殿に向かっているのだった。
三銃士としてならばともかく、ふたりだけで呼び出されるというのは初めてのことだった。
「まあ、まさか叱られはしないでしょ」
ううん、と胡乱気に唸って顎に手を当てると、バリトンはお手上げのポーズをとった。ファルセットはこくこくとやけに真面目な顔をして頷いている。身に覚えはないが、もし叱られるかもしれないなんて言ってしまったらファルセットは震えあがるのだろうか、と考えたら少し面白かった。
(やっぱり、ファルセットはこうでないと)
バリトンは静かに笑んだ。
ノイズとの戦いが終わり、メイジャーランドがようやく落ち着きを取り戻してからしばらく経った。今では操られていた間の出来事も、“ファルセット様”のことも、冗談交じりに話すことができる。とはいえあまり思い出したい記憶でもないから、笑い話にできそうなところしか話題に上ることはないのだが。
今思い返しても、メフィスト様やファルセットはまるで別人のようだった。尤も、自分もバスドラも彼らのことは言えない。元に戻って本当によかった、と何かにつけてしみじみする。


「……ん?」
少しばかり追想していると、上空から鳴き声のような音が降ってきた。
「ふにゃあああああ〜っ!」
「ふぎゃっ!」
べしゃ、というあまりよろしくない音がしたと思ったときには、ファルセットが潰れたカエルのようなポーズで倒れこんでいた。ぎょっとしてまじまじと見れば、どうやら頭に何かが直撃したらしい。もぞもぞと動いているその白くて丸いシルエットには、ものすごく見覚えがあった。
「は……ハミィじゃないか!」
「ニャニャッ、久しぶりだニャ〜!」
肉球が見えるように前足を持ち上げて、ハミィは元気よく笑った。
彼女が落ちてきた方角を見上げると、消えかかった虹色が見える。加音町からメイジャーランドへやって来て、そしてファルセットとバリトンを見つけてダイヴしてきたというハミィに、バリトンはやれやれと苦笑いをした。
「も〜痛いですよお」
「ごめんニャ!」
身を起こしたファルセットが、頭上を見上げて情けない声を漏らす。お決まりの台詞とともに尻尾を揺らすハミィに反省の色は見えないが、相変わらず憎めない子猫である。
「ところで、どうしてここに?」
「そうニャ、ハミィはアフロディテ様に呼ばれたんだニャ!」
「ハミィもですか?」
「ニャ! きっとふたりと同じ用事だと思うニャア」
「えっ、私達がどうして呼ばれたか知ってるの」
「なんニャ、ふたりは心当たりないのかニャ? ふっふっふ〜、それにゃら!着いたときのお楽しみにしておくニャップニャプ〜!」
きょとんとしてつぶらな目を瞬かせたハミィは、少し考えるような仕草をしてからぴょん、とひと跳ねして意味深に笑った。
ええっなんですかそれ、と頓狂な声を上げたファルセットは、さっぱり分からないというふうに不思議そうな面差しをつくっている。同様に首を傾げたものの、しかしまあ、この様子ならば心配するようなことはないのだろうとバリトンは密かに息をついた。ハミィのどこか嬉しそうな表情を見下ろしていると、これまで気を揉んでいたのが嘘みたいに思えてくる。
鍵盤の上で浮かんだままあぐらをかいたファルセットと、その頭の上でのんびりと丸くなって落ち着いてしまったハミィは、結局そのまま宮殿まで運ばれていった。



           *



「皆、よく来ましたね」
玉座にゆったりと腰かけたアフロディテが、集まった面々を順に見やって美しくほほ笑んだ。バリトンとファルセットは片膝をつき、恭しく頭を垂れる。こうして間近で拝謁するのは、メイジャーランドに戻って来た時以来のことだった。
「今日お前達を呼んだのは、これを返すためなのです」
アフロディテが立ち、進み出て、何かをことりと床に置いた。面を上げると、ハミィの前にひとつ、バリトンとファルセットの前にひとつ、小ぶりの鉢植えが置かれている。
「あっ……!」
「これは……」
ふたりの前に置かれた鉢では、オレンジ色と白色、またそれらが混じりあった色合いのラナンキュラスが、いくつかの花を咲かせていた。薄い紙を幾重にも折り重ねたような花弁を持つ、丸みを帯びた愛らしい春の花だ。
バリトンはファルセットと顔を見合わせて、押し寄せてきた記憶に瞠目した。どうしてこんな大事なことを、今まで忘れていたのだろうか。
「まさか、まだ残っていたなんて……」
「アフロディテ様が育てていてくれたんだニャ!」
「そ……そうだったのですか!」
見上げると、にっこりと慈愛に満ちたかんばせが三人に向いている。「私では枯れないように保つだけで精一杯だったのよ、」と片目を瞑ったアフロディテは、ドレスの裾を正して玉座に座り直した。その佇まいにじんと胸が熱くなったような気がして再び顎を引きながら、隣のファルセットを窺い見る。やはり目をうるうるとさせていたので、安堵して息をついた。


「実は最近まで、ハミィも忘れてたんだニャ!」
「なァんだ、そうだったんですか」
帰りもまた虹の橋を渡らせてもらえることになった三人は、それぞれの花と一緒に緩やかな下り道を進んでいる。行きよりもずっと晴れやかな表情だ。
「セイレーンが思い出してニャ〜、でもセイレーンは学校だからハミィが受け取りに来たんだニャ!」
器用に頭に鉢植えを乗せて、ハミィは虹色鍵盤に運ばれながら楽しそうにそう話した。ハミィの鉢には、赤とピンクのチューリップが植えられている。真っ直ぐな彼女たちに似合っているな、とバリトンは思った。
このふたつの鉢植えに咲く花は、普通の花とは違う、ちょっと特別な花なのだ。
メイジャーランドでは、音楽がとても重要な役割を果たしている。この国で音楽が絶える日はなく、住人や妖精たちによって、常に新しいメロディとハーモニーが生み出されている。そんなメイジャーーランドでしか咲かせることのできない花があるのだ。
このラナンキュラスとチューリップもそのたぐいで、咲かせ方や育て方が普通の花とは少し違う。これらは水や肥料では育たずに、音楽によって育てつ不思議な花なのだ。
「けど、それって人間界に持っていっても大丈夫なんですか?」
「ん〜、アフロディテ様がいいって言ってるんだし、大丈夫ニャ!お花もセイレーンとハミィがいないと育たないしニャア」
「まあ、それもそうだね」
言われてみれば、とふたりして頷く。
セイレーンは黒川エレンとして加音町で暮らしているから、この花を育てるためにはハミィがあちらへ持ち帰るしかない。つまりあのチューリップは、ハミィとセイレーンの歌声によって芽吹いた花なのだった。
メイジャーランドでは、こういうことは珍しくない。幸せのメロディが世界中を幸せにするように、調和したハーモニーが奏でられるとそれに育まれて、種や球根から芽が出ることがあるのだ。こういった芽は水や肥料だけでは枯れてしまう。また本人達の音楽でなければ、どんなに美しい調べを聴かせても長くは保つことはできない。
「なんか、懐かしいですねえ」
ファルセットが、抱えた鉢植えを眺めてしみじみと呟いた。この花が咲いたのは、たしか数年前だったはずだ。
昔からバリトンとファルセットは一緒に歌うことが多かった。バスドラと三人で歌うのはもはや日常だったのだけれども、ふたりで歌うとまた別の音調になって、それが妙に楽しかったのだ。音域が近いこともあったかもしれないし、ファルセットがバリトンに合わせるのが上手かったということも多分関係していた。どちらかというと、ソロよりもハーモニー向きの声なのだ、ファルセットは。
「この花にはずいぶん振り回されたよ…一緒に住まないといけないんじゃないかとかファルセットが言い出すし、うっかりファルセットが音を外したらちょっと萎れるし、それから」「わああ〜もういいでしょっそんなのっ!」
「にゃはは〜、ハミィもセイレーンによく怒られたニャ!」
「そういえば、ハミィはしばらくひとりで練習していたんでしょう? よく枯れなかったね」
「うんニャ……でもやっぱり元気がなかったから、ハミィは早めにアフロディテ様に預けたんだニャ」
「そうだったんですかあ……」
ハミィとセイレーンにも色々と紆余曲折があったことは、メイジャーランドに戻って来てから聞いた。今だからこそ笑って話せるけれども、少し間違えればもう二度と一緒に歌うことすら出来なかったであろうふたりだ。またふたりでチューリップを育てられることは、さぞ嬉しいに違いない。
「バリトンとファルセットも、大事に育てないとダメニャよ〜? 忘れてたなんて知ったらお花が悲しむニャ!」
「わわっ、聞こえちゃいますよぉ〜」
「もう遅いでしょ……」
慌てて鉢をハミィから遠ざけようとするファルセットに、呆れ顔でバリトンは笑った。ラナンキュラスはどうやら少し落ち込んだようだったものの、ごめんねごめんね、とファルセットがしきりに謝ると心なしかしゃっきりと元気を取り戻したらしい。
懐かしい、という感覚が己にも沁み渡ってくるのを感じた。花に喋りかけるファルセットというのは、上手く言えないが、バリトンにとって日常そのものだった。



城壁を抜けたところでハミィと別れ、ふたりはのんびりと並んで歩いていた。加音町とは違って四季というものがほとんど無いメイジャーランドではあっても、春の小道は気持ちが良い。どちらからともなく鼻歌を歌っていると、いつの間にかハモっていて可笑しくなった。心が弾んでくる。
「バーリトンっ!」
「なに……っわ!?」
頬に何か温かいものが押し当てられた、と思ったら、すぐ近くで桃色の髪が踊った。柔らかい笑顔が咲いている。抱えた鉢植えとひとつになって、まるごと花のような色合いだと思った。
キスをされたのだと遅れて気がついて顔を赤くさせたバリトンは、笑いながら先を行くファルセットを一寸ぽかんと見つめ、それからはっとして慌てて追いかけた。
水色の髪がさらさらとなびく。
「転んでも知らないぞ!」
年上に対する言葉がこれでいいのだろうかと思わないこともないけれども、今さらなのでどうでもいい。恥ずかしさなのか嬉しさなのか、何なのかよく分からない気持ちが次々と湧き上がってくる。こんな気持ちも懐かしい、と思ったらますます顔が熱くなったので、かぶりをふってバリトンは速度を上げた。
浮かれているファルセットはともかく、このまま戻ったらきっと自分まで、大いにバスドラに冷やかされることだろう。