1 「デンジさん、彼女できましたー?」 携帯電話を弄っていたところへ降ってきた突拍子のない問いかけに、デンジは一寸動きを止めた。どこから出ているのか不思議に感じるほど、その声は高く弾んでよく響いた。乏しい表情で顔を上げれば、向かいに座っていたスズナがテーブルへ身を乗り出して、大きな瞳でじいっとこちらを見つめている。一房だけぴょんと垂らされている黒髪は、今にも触覚さながらに動き出しそうだ。 数十分前にフルバトルを繰り広げてへとへとになっていたというのに、もう気力はすっかり回復しているらしい。ポケモンセンターに行っていると思っていたのだが、いつ戻ってきたのか気づかなかったな、という内心はおくびにも出さず、ゆっくり椅子に凭れてデンジは息をついた。 「……なんだよいきなり」 「だって、にやにやしてメールしてるから」 「は?」 「彼女かな〜って思って」 飲みきってしまったメロンソーダのグラスに残った細かな氷をかき回しながら、スズナが屈託なく笑った。 興味津津を絵に描いたような顔つきに呆れ、しかし何故だか言葉がすぐに出てこずに、ぐるりと勝負所を見渡すふりをしてキラキラした少女の眼差しから視線を外す。奥行きのあるシックな内装は目に優しい。日によってはガヤガヤと騒がしくなる此処だが、今は自分達ふたりしか居なかった。店主は何かの用事で奥へ引っ込んでしまっている。備え付けのテレビからは、いわゆるビギナー向けのポケモン講座が流れている。 無意識に携帯電話を撫でていた。打ちかけのメールをちらと見てから、表示されている宛先に知らず知らず眉根を寄せて、デンジは編集画面のままポケットに突っ込んだ。苛立ちまではいかないが、なにか癪だと思って頭を掻く。むしろこれは、そう、少し焦っているのかもしれない。 (にやにやしてた? 俺が?) そうしている間にも、正面から無邪気な視線が突き刺さってくるのが分かる。あまり黙っていると肯定と取られかねないため、違う、とデンジはぶっきらぼうに答えた。 ええー怪しい!とすぐに跳ね返ってきた声に、さらに眉を寄せてたじたじとする。こういうときの女の子は面倒だ。「しつこいぞ」「じゃあ誰なんですか?」「…誰でもいいだろ」「ほら怪しーい!」またスズナが鈴のような声を出し、身を乗り出してくる。びしっと指を差され、それを行儀が悪いぞ、と手を振ってあしらってやる。ぴょんぴょんと動くスズナの前髪は、もはや触覚のようにしか見えない。 しつこく絡んでくるものの、これは楽しんでいる顔だというのは分かる。どうせ調度良い暇潰しのネタぐらいにしか思っていないのだろう。早く飽きてくれないだろうか、そうスズナをかわしながらデンジが考えていると、 「こんにちは〜」 「あ、スモモちゃん!」 カランカラン、とドアベルが鳴った。 いつもの動きやすそうな服装で入ってきたスモモは、デンジとスズナという組み合わせを少し珍しそうに交互に眺めてからすぐにテーブルへ駆け寄って来た。スズナがひとつ隣にずれて、スモモはデンジの真向かいに座る。また騒がしくなった、と思ったけれども、どうやらスズナの興味はすっかり友人へと逸れたようで密かに安堵した。 少女ふたりが喋り出したところで、デンジは再びポケットから携帯電話を取り出して画面を見つめた。編集中になってはいるが、もうあとは送信ボタンを押せばいいだけになっている。『ああわかった』だけのシンプル極まりないメールだ。末尾にピカチュウの絵文字を付けてはいるが、それはあっちがフワンテの絵文字をつけてきたから、対抗して付けたのだ。フワライドで行く、という意味なのだろうが、炎タイプ炎タイプ言っているアイツがたまにフワンテやミミロルのような妙に可愛いポケモンを好んでいるのを見ると、可笑しくて噴き出してしまう。今日も会ったらつっこんでやろうと思っていた。 (……なんだ、そうか) はたとして、デンジは我知らず抱いていた焦りが引いていくのを感じた。入れ替わりに気恥ずかしくなり、意識して顔をしかめる。すると今度は自分に対するバカバカしさが湧いてきて、それを散らしたくて堪らなくなって、勢いのままに送信ボタンを押していた。 じっとしているとますますバカらしくなりそうだったので、何でもない風を装って立ち上がる。するとスズナとスモモが同時に、同じ角度で見上げてくる。透き通った眼差しは、どことなくプラスルとマイナンに似ていた。 「じゃあ、俺は帰るから」 「あ、お疲れ様です!」 「やっぱデートですか?」 「だから違うって」 「そうですよ、オーバさんが来るんですよね!」 「! ……スモモ、どうして知ってるんだ?」 思わずぎょっとして振り返ると、スズナにも増して無邪気な瞳のスモモがにこにこと顔を綻ばせていた。 「さっきコウキさんの別荘に行ったんですけど、オーバさんとばったり会ったんです!バトルもしたんですよ」 「あいつ……別荘ではやめろって言ったんだが」 「一緒に勝負所どうですかって誘ったんですけど、リーグに寄ってからデンジさんのところ行くからーって」 「ええ〜いいなあスモモちゃん、あたしもオーバさんとバトルしたかったよー!」 「すごいんですよぉ、特にゴウカザルが〜」 両手をグーにして悔しがるスズナにえへへ、と満足そうに笑って見せ、それからバスモモはバトルの様子を語り始めた。その様子を横目に見やり、デンジは妙に疲れた気分になって適当に相槌を打つ。気づけば爪先は元来たほうへ向きなおっていた。帰ろうとしていた筈なのだが、なんとなく気が引けてしまった。まさかこのタイミングでオーバの話題になるとは思わなかった。 何故だか知らないが、オーバはこのふたりから妙に好かれている。スズナなんて大分毒されているのではないかと、時たま心配になるくらいだ。 脳裏に赤アフロを浮かべ、ふたりの話を半分以上聞き流しながら、デンジは今しがた感じたバカバカしさについて考える。言わずもがな、メールの相手はオーバだった。『今夜は六時ごろ行けるぜ』というだけのシンプルな内容。ニヤニヤしていたというのは、今考えてみればフワンテの絵文字が面白かっただけだったのだろう。と思う。そうスズナに言えば笑いのネタになったのに、どうしてすぐに思い至らず、返事が出来なかったのだろうか。どうして相手はオーバだと言えなかったのだろうか。 「――だからオーバさんとバトルしてると、デンジさんを思い出すんですよね」 「わかるわかる!」 「……悪い、今のもう一回」 つっ立ったまま難しい顔をしていたところへ耳に入った会話に、思わず割って入ってしまった。なんだあデンジさんまだ居たの、とスズナがきょとんとして失敬なことを言ったが、今は聞かなかったことにする。 「ええっとですね、オーバさんとデンジさんって似てるなって思うんです。バトルスタイルとか」 「ポケモンもお揃いだしね!」 「はい、シールもお揃いですよね」 「……お揃いはやめてくれ」 片手で頭を抱える。促しておいてすまないと思いながら、空いた手をひらひらと動かして会話を止めた。お揃いという言葉はあまりに可愛すぎる。およそ自分達には似つかわしくない、とむず痒さに顔をしかめた。 「……ナギサで一緒に育てば、嫌でもそうなるさ」 言いながら、何故かこれは言い訳じみているなと思った。 自分達のバトルや手持ちが似通ったのは、別に意図してのことではない。無意識だったのだ。いつの間にかそうなっていて、周りから言われてやっと自覚したものだった。 エレキブルとブーバーンはふたりで交換して進化させたのだが、それもたまたまタイプが合っていただけのことで、決してオーバと揃いにしようという意図ではなかった。そんな理由だったら、俺のエレキブルに失礼じゃないか。 そこまでを勝手に追想して、また言い訳くさいと目元が引きつる。何かおかしいな、と思いながらふいと横を向けば、いつの間にか戻ってきていた店主と目が合ってしまった。微笑ましそうな顔をされ、また視線を逸らす。 「あー、それじゃあな」 「はあい、また」 「オーバさんによろしくです!」 少し白々しく声のトーンを変えてみると、にこにことふたりは手を振った。今の会話にもやもやしていたのは自分だけだったんだな、と改めて思い知る。妙な居た堪れなさを感じながら、今度こそデンジは足早に勝負所を後にした。ドアベルを鳴らして外に出ると、曇り空が広がっていた。 2 オーバがミーティングルームに入ると、スクリーンいっぱいに映し出されたエレキブルが体毛を逆立て、かみなりパンチを繰り出すべく走り出した、ちょうどその瞬間であった。バチバチと二本の尻尾から電流を放出させているところを見ると、体内にはかなり蓄電されているらしい。体毛までもが淡く輝いている。 目映い電光を纏ったその攻撃に対し、迎え打つのはラムパルドだ。赤く鋭い眼を光らせて前姿勢をとり、一歩も引くことはなく、むしろフィールドを幾度も蹴って反撃体勢に入っている。攻撃特化の二体ならでは、迫力のあるバトル展開に、スタジアムは大いに沸きたっていた。 どおおん、視覚と聴覚に激しい衝撃が走り、画面がしばらく土煙で見えなくなる。こちらまで地響きが届きそうな迫力と、実況が掻き消えるくらいの大歓声だ。 「やっぱり凄いですね〜! デンジさんは!」 「おー、これって春のエキシビジョン?」 画面に見入っていたオーバは、リョウの興奮気味な声にはっとして視線を外し、半開きだったドアを閉めて足を進めた。隣の椅子に腰を下ろしながら訊けば、「そうですそうです、リーグ専用ノンクレジットノーカット版ですよ!」と嬉しそうにリョウは頷いた。 春のエキシビジョンマッチといえば、ジムリーダー四組がスタジアムでフルバトルを繰り広げる、シンオウでの一大イベントである。組み合わせはランダムに決まり、直前まで誰と誰が当たるかは分からない。もちろん本人達にもだ。今年はデンジとヒョウタが当たり、人気の高いふたりということで特に注目されるバトルとなった。 「おッ、ラムパルド意外と硬いぜ」 「でもマヒしましたよ! これ興奮したなあ〜」 「そういやそうだったな! 俺あんま覚えてねえけど」 「オーバさんは凄いバトルほど覚えてないんですよねえ」 「しょうがねえって、燃えるんだからよ!」 オーバは悪びれることもなくからからと笑うと、椅子に深く沈みこんで足を組んだ。このエキシビジョンマッチはオーバもリョウも審査員として観戦していたから、ふたりとも一応バトルの決着は知っている。しかし細かな流れまでは流石に覚えていられないし、特にオーバはバトルが熱ければ熱いほど集中しすぎて記憶が飛んでしまうので、ほとんど初見に近い興奮を感じていた。 土煙が消えると、画面のあちら側ではラムパルドが体の痺れに表情を歪めつつ、マヒを振り切るように身震いをし、体勢を整えている様子が映った。臨場感に溢れている。続いてそれぞれパートナーに指示を出すヒョウタとデンジが大写しにされたのち、スタジアム全体が映し出された。 「ははッ、デンジ結構焦ってたんだな」 スクリーンを指差して笑ったオーバの言葉に、リョウはきょとんとして画面と隣を交互に見やった。 「え……今の顔って焦ってるんですか?」 「前はヒョウタのこと完全に舐めてたからさ、あいつ」 「僕には笑ってるようにしか見えないです」 え、と今度はオーバが瞬きをした。顔を向ければ、小難しい顔をしたリョウが顎に手を当ててじいっと画面に見入っている。つられて向き直ってみると、ラムパルドの攻撃をかわしつつ次の技を繰り出すべく、デンジがしきりにエレキブルへ何かを叫んでいるさまが映っていた。 「ほら、あれはデンジが燃えてる時の顔だろ!」 「……デンジさんも、ピンチだと燃えるタイプなんですか」 「お前は違うのかよ?」 「はあ〜」 そりゃあこうやって観ている分には燃えますけど、と苦笑いをして、リョウは椅子の背に凭れた。 スクリーンでは、ラムパルドががんせきふうじを仕掛けたところだった。しかしマヒのせいもあって思ったように命中せず、ヒョウタのもどかしげな面差しが映る。すると手に汗握る展開に、また声援は大きさを増す。 「やっぱオーバさんは分かってるな、デンジさんのこと」 「あ? なんだよそれ」 「僕もけっこう研究してるんですけど、デンジさんってあんまり顔に出ないからわっかんないですよー」 ちょっと唇を尖らせて、頭の後ろで手を組んだリョウは拗ねた子供のようで面白い。そういえば前にそんなこと言ってたな、とオーバは記憶を探った。デンジがリーグに挑戦するとかしないとか、そんな噂が流れていた頃、リョウはよくこんなふうにデンジのバトル記録を見ていた。四天王の一番手というのはプレッシャーもあるのだろう、しかもリョウにはファンが多いのだ。退屈凌ぎに挑戦してきた最強ジムリーダーに負かされたとあってはたまらないと、それなりに真剣だったらしい。 (……デンジって、分かりにくいか?) 画面の向こう側で拳を握り、エレキブルと一心同体になっているかのごとく真摯な眼をしているデンジを眺めながら、オーバは口には出さずひとりごちた。 見えない何かを薙ぎ払うように腕を動かし、高揚した顔でエレキブルに指示を出す。あれはほのおのパンチ、と言っているはず…やっぱりそうだった。エレキブルがぎゅうっと体を縮めてエネルギーを凝縮させる動きを見せ、それから片腕に力を集めて炎を纏う。 画面の奥に立つデンジと、一瞬目があったような気がした。静かだがギラギラとしている。あれはどう見たって燃えている目なのに、リョウには分からないというのがオーバには逆に不思議だった。 「うわあ、怖いな〜あの技」 「だろだろッ、俺が鍛えたんだぜアレ!」 「やっぱり! ゴウカザルと同じ構えですよね」 「ん? あー、言われてみればそうかもなァ」 ちらとリョウに目を向けてから、バトルへ意識を戻す。 動きの鈍くなっているラムパルドの急所に入ったらしいほのおのパンチは、オーバから見ても見事なものだった。 ああだから俺あんまり覚えてなかったのか、と思い至る。これが決め手となってエレキブルは勝ったのだ。半減技かつタイプ不一致技であるにも関わらず大ダメージを与えた攻撃、それに湧き立つスタジアム、興奮を滲ませて笑うデンジ。これらに浮かされて、あの時オーバの熱は最高潮になっていたのだった。 審判のフラッグが翻る。 会場モニターにデンジが映った。 「……はー、勝った勝った」 「あはは、オーバさん自分がバトルしたみたい」 波のように遠ざかっていく歓声の代わりに、リョウの声が今までよりもはっきりと聞こえた。それが妙に耳に残り、オーバは何かひっかかるものを感じて片眉を上げる。何故引っかかったのか、と考えつつ首を回すと、プロジェクターを止めるために立ちあがったリョウの背中が見えた。 「……なあ、俺ってデンジのこと分かりすぎか?」 続いて立ち上がり、オーバはふと呟いた。 「え、何ですか今さら」 「だってよ、お前に言われるまで全然そんなふうに思ってなかったんだよなあ」 「うーん、僕はむしろ羨ましいかな…それだけ分かってる友達っていないし、鍛え合えるってステキですし」 「お前はアイドルだからなァ」 「アイドルだって友達くらい欲しいでしょ!」 「はいはい、俺がいるじゃねえか!」 「はいはい、僕は幸せ者でーす」 リョウがプロジェクターの電源を落とすと同時に、オーバは部屋の明かりを点けた。一瞬目がちかちかとして、すぐに慣れる。白いスクリーンを少し眺める。なんとなく、燃え尽きた時の感覚と似ているなと思った。 「じゃあ、僕これから雑誌のインタビューがあるので」 「マジかよ、ポケファン?」 「はい! 今日はメガヤンマと一緒なんですよ〜」 どうやら多忙らしい。自らさらりとアイドル発言するだけのことはある。それでいて鼻につかないのがこいつの凄いところだな、と感心しながら、オーバはリョウがにこにことモンスターボールを撫でる様子を眺めた。 「んじゃあ俺も一緒に出るわ、今日はデンジんち行くし」 「えっそうなんですか! ……あの、僕がデンジさんの研究してることはヒミツですからね?」 「ははは、分かってるって!」 ぎくりとして釘を差してきた緑の目に笑ってから、ばしばしと肩を叩いてやる。アイドルというよりはやはり、オーバにとってリョウは可愛い後輩なのだった。別に教えたところであいつはどうも思わなさそうだけどな、と付け加えようとして、しかし何となく口にしないまま、リーグのエントランスに着いてしまった。 リョウと別れ、外に出ようとしたところでポケットの携帯電話が震える。デンジからのメールだった。 液晶を見下ろして軽く笑い、そして笑ったままオーバは器用に片眉を下げ、何かを思案するように喉の奥でんー、と唸った。簡潔極まりないメールの端っこで、ピカチュウの絵文字がほっぺたを光らせて笑っている。 3 夜から雨になるとは聞いていたが、こんなに早くから降りだすとは思わなかった。 デンジはナギサの海岸を抜けたところで買ったビニール傘を広げ、傘越しに重苦しい空を見上げて溜息をついた。日没もまだだというのに空は暗く、厚い灰色の雲からはぽつぽつと水滴が落ちてくる。沖のほうでは雷らしき音も鳴っているから、すぐに本降りになるはずだ。 (あいつ、傘持ってなさそうだな) ポケッチを見ると、そろそろ約束の時間になろうとしていた。雨脚はどんどん強くなり、傘を持っていない人達が近くの建物に逃げ込もうとあちこちで走っている。彼らを横目に見送るうちに、デンジも自然と速足になっていた。 「……は?」 オーバがびしょ濡れになっていたら面倒だと思いながら、ソーラーパネルを敷き詰めた高架橋を昇り終えた時だった。視界に否が応でも飛び込んでくる赤色があった。 見覚えのありすぎるそれに一瞬目を疑い、デンジは足を止めてまじまじと見つめた。ざああああ、雨音が頭の中を塗り潰す。赤いアフロ、黄色のポロシャツ、黒いバンド。 「おっデンジ、遅かったじゃねえか!」 「オーバッ、何やってるんだ」 欄干に凭れてどこか遠くを見ていた横顔が、こちらを向いてぱっと笑った。その途端に弾かれたように足が動く。びしょ濡れ、しかも海に飛び込んだかというほどの有様であるオーバの傍まで足早に近づき、しかしふと逡巡した。苛立ちめいたものが浮かび上がってきた気がしたのだ。 「……また燃え尽きてたのか?」「んーいや、はは、ちょっと考え事っつうか?」軽い口調で笑うオーバにさらに苛々としてきて、脇をすり抜けながらこれ見よがしに溜息をつく。目を向けなくとも、オーバが並んで歩いてくるのは分かった。ぱしゃぱしゃ、奴のサンダルが水音を立てている。 「どうせまたくだらん事だろ…ったく、早く入れよ」 「おお、やっさしー」「うるさい」「でも今日はいいや!」 「……はあ?」 予想と常識を大きく飛び越えていった返事に、思わず魔の抜けた声をあげた。顔を向ければにひひ、と歯を見せて笑みを浮かべたオーバがモンスターボールを取り出して、なにやら得意気な目をしている。嫌な予感がした。 「ギャロップ!」 「っば「にほんばれ!」 雨の中にギャロップを出すなんてバカ以外の何者でもない、というのにオーバは躊躇いなくボールを投げ、そして同時にビシッと指を差して叫んだ。嘶いたギャロップが炎を逆巻かせ、前脚を浮かせて宙を駆けるような動きをする。よく見知った光景だ。ただし、ここが雨天のナギサシティではなく、バトルフィールドであればの話だが。 空気が軽くなり、明るみを帯びた。傘を叩くノイズのような雨音が消え、見上げればちょうど高架橋の上、デンジとオーバが立つ一帯の上空だけがぽっかりと晴れている。 「じゃなッ! 先行ってるぜ!」 「ッおい!」 頤を下げた時にはもう、ギャロップに乗ったオーバが高架橋から飛び降りる、いやに赤い後ろ姿しか見えなかった。 「……なんだアイツ」 ぽつんと取り残されたかたちとなり、ビニール傘を畳みながら、呆れと苛立ちを混ぜ合わせた面立ちで呟く。もう一度見上げれば、じわじわと狭まってきている青空はさながら台風の目のようだ。遠くでは雨の帳が垂れている。 街中でにほんばれって何なんだよ、皆見てるじゃないか、というかどうして一人で先に行くんだよ。続けざまに湧いてきたそれらの文句をぶつける場所がないために、一度小さく舌打ちをして小走りに駆けだす。こうなったら、にほんばれが効いているうちに帰らなければ癪だ。 (しかし、今日に限って変な顔するなよな……) オーバを見つけた時の、無表情に近い横顔が脳裏にちらついた。似つかわしくないにも程がある。燃え尽きた時とは微妙に異なった、言うなれば少し物憂げな顔だった。 (傘をさしかけていたかもしれない、いつもなら) 勝負所から帰る道すがら、ずっと考えていた。自分とオーバは何というか、無意識のうちに近づき過ぎていたのかもしれないと。メールの相手を彼女かと訊かれて笑い飛ばせなかったのは、つまり俺の中にそういう、うまく言えないが、否定できない核心めいた何かがあった為ではないか。それなら少し、距離を空けなければいけないと考えていたのだ。オーバは間違いなく無意識だから、自分が意識すれば近づき過ぎることもなくなるだろうと。 だというのに、何だか知らないが、よりによってこのタイミングでオーバは変だった。俺んちの軒下に居ればいいのにあんなところでずぶ濡れになっているわ、傘には入らないわ、挙句の果てにギャロップで先に行くわ。 まるで俺を待っていてわざわざ避けたようだった、とデンジは思い至る。すると今までにも増して苛々した。半分はオーバに、もう半分は自分にに対してだ。これから俺がうまいこと自然なふうを装って、距離を作ってやろうと思っていたのに、アイツはあんなにあからさまに俺を避けたのだ!なんなんだ、俺が何をしたっていうんだ! 「ッくそ、バカらしい……」 頭のどこかで冷静な自分が、お前はおかしなことを言っているぞ、とむかつく笑顔で指差してくる。 (いつからだ……?) 果たして昔からこうだっただろうか。昔の俺だったら、オーバが雨の中でたそがれていようが、いきなりにほんばれをかましてギャロップで先に行ってしまおうが呆れるだけで、避けられたなんて思わなかったはずだ。今は意識過剰なのだろうけれども、それにしたって、いつから。 「ああ、あれか……」 考えながら走り続けていたら、ジムの裏手にある自宅に着いていた。オーバが軒下でギャロップを撫でながら、呑気な顔で手を振っている。髪も服もほとんど乾いてしまったらしい。ギャロップには特別に美味しいフーズをご馳走してやらねばなるまい、と思いつつ、デンジは息を整えるために敢えてゆっくりと歩を進めた。 思い出す光景がある。 ――デンジ! 戻って来たんだな! ――ああ…これで手応えがなければリーグへ行く。 ――ははッ! あの子なら大丈夫だと思うぜ! コウキがナギサへやって来た日もあんなふうに、オーバはジムの前でデンジのことを待っていた。そういえばやたらと嬉しそうに笑っていたと、今さらながらに思い起こす。 俺がしるべの灯台から追い返しても、ずっとオーバはあそこで待っていたのだ。それについて特にこれまで何とも思わなかったし、お節介な奴だとさえ思っていた。 昔からオーバはそういう奴だったのだ。勝手に俺を振り回し、いらぬ世話を焼き、面倒を見てやったとわざとらしく胸を張る。俺からしてみれば、バトルのたびに燃え尽きるあいつをその都度引きずって帰ってやっているのだから、よほど俺のほうが面倒を見てやっていると思うのだが。 (……駄目だな、考えれば考えるほど) オーバがあまりにも自分の日常になっている。 自分を待っていた時のオーバの顔を思い出し、変わったとしたらあの時だろう、とデンジは結論を出した。子供の頃と同じままの、心底嬉しそうな笑顔。デンジの中で、あの顔がもはや日常になってしまっているのだ。 「おっせえぞ!デンジ!」「ちょっと黙れよお前……」 鍵を開けてドアを開くと、自然とオーバと目が合った。まるきりいつも通りの、わけもなく自信ありげな顔だ。 「ったく、人の迷惑考えろ」 「停電ジムリーダーに言われたくねえっての!」 「それとこれとは別だろ」 「別じゃねえよ、な〜ギャロップ!」 ブルル、とギャロップが従順に鳴いた。 けらけらと何がそんなに楽しいのか笑いだしたオーバを尻目に、デンジはさっさと靴を脱いで台所へ入った。午前中に買っておいた食材を適当にダイニングテーブルへ広げ、それから濡れた上着を脱いで、タオルを二枚出す。 「ほら、一応拭いとけよ」「おっ、サンキュー」 後から入って来たオーバの頭に被せてやると、またオーバは笑った。今日はいつもよりよく笑う。黄昏ていた反動が来たのだろうか。「夕飯どうすんだ?」「焼きそばでいいか」「いいな! 火加減は俺に任せろ!」ガッツポーズをしたオーバは、早速キャベツを取り出して調理台へ向かった。 高架橋での横顔は、もうすっかり払拭されていた。 どうして雨の中でぼけっとしていたのか、後でそれとなく訊いてやろう、と、黄色い背中を眺めてデンジは思う。 オーバが今まで通り暑苦しく笑っているのが、俺には一番いいらしい。どうやらこの距離感から遠ざかれる気がしないのだ。俺にとってのオーバが、何であったとしても。たとえばカノジョやカレシに近いものだったとしても、だ。 腕捲りをしながら、とつとつとそんなことを考えていた。 * 「うわッ! 何だッ?」 「停電か。送電線に落ちたらしいな」 二人で適当に夕食をこしらえ、ダイニングで食べていた最中だった。バリバリバリ!とみぞおちに響く大音量が轟いたと思うと、鈍い電子音が呻いて辺りが真っ暗になった。雷雲がとうとうナギサの上まで来たらしい。デンジの言葉に立ち上がって窓の外を見やると、なるほど、山側の住宅の明かりはほとんどが消えてしまっていた。 「また停電かよ! デンジという人災にやられたばっかりだってのになァ」 「おい、それより気をつけろよ」 「ん?」 「今お前、茶碗か何か落としただろ」 割れた音がしたぞ、と言うデンジの声はどことなく気忙しそうだ。そういえばそんな音もしたかもしれない、確認しようときょろきょろ周りを見回したが、まだ暗闇に目が慣れなかった。とりあえずデンジの居る方向に「分かった」と返したのだが、 「あ痛ッ!」一歩動いたら、足の裏に痛みが走った。 「ッおい、大丈夫か」 「って〜何か刺さった……」 「…裸足だからそういうことになるんだ」 手探りで椅子に座り直す。デンジがごそごそと動いた、と思うと視界の端で何か赤い光が閃き、耳馴染みのある鳴き声が聞こえた。「レントラ―、フラッシュだ」 途端に台所が照らし出され、デンジとレントラ―が思ったより近くにいたことに驚いた。目を瞬かせてから、よお助かったぜ!とレントラ―のもふもふした頭を撫でてやる。とはいっても目からフラッシュの光が出ているので、目を合わせてやることは出来なかったが。 「オーバ、足見せろ」 「ん、ああ……大したことねえけどな」 ひょい、と片足を持ち上げて反対側の膝に乗せ、足の裏をデンジに見せる。落ちたコップの破片が刺さったらしい、少し血が出ているものの、破片も入り込んではいないようだし大丈夫だろう。そう見立てていたところへデンジがティッシュを寄越したので、押し当てて簡単に止血をした。 「ったく、気をつけろよ」 「わりィな、」 軽い調子で笑いながら、おやと思って瞬きをする。息を吐いたらしいデンジの声が、やたらとほっとした響きをはらんでいるように聞こえた。気のせいかもしれないが、なんとなくそうでなければいい、とオーバはぼんやり思う。 それから少しだけ、沈黙が落ちた。 フラッシュでそれなりの明度を取り戻したとはいっても、洞窟の中で懐中電灯を点けているようなものだから、部屋の中には濃い陰影がそこかしこにある。 なんとなく懐かしいな、とオーバは頬を持ち上げた。ガキの頃はよく、近くの森や磯なんかをこんなふうにフラッシュで照らしながら、デンジと探検したものだった。 「「……なあ、」」 「「あ」」 「……なんだよ」 「お前から言えば?」 同時に喋り出してしまい、出鼻をくじかれた気分になりながら苦笑がちに目を合わせる。フラッシュの光に照らされたデンジの顔は、常よりも表情豊かに見える。いつもならこういう場合、デンジが引いてオーバから喋り始めるのだが、今は譲りたいと思った。話しかけたはいいものの、実は何が言いたかったのかうまく纏まっていないのだ。 「……ちょっと消すぞ」 「は?」 疑問符を浮かべるか浮かべないかのうちに、レントラーが赤い光と共にボールへ戻された。「わっ何だよ急に、」また真っ暗闇に戻った台所で目を瞑り、闇に慣れさせながら尋ねる。これじゃあデンジの顔もうまく見えやしない。 「お前、今日どうしてあそこに居たんだよ」 「え」 「高架橋のところでさ」 こちらの問いは無視して話しかけてきたデンジの言葉は、予想できていたにも関わらず、何故かドキッとした。目を開く。ぼんやりとではあるが、物の輪郭くらいは分かる程度に闇に慣れてきたようだ。デンジが座っているあたりを見つめれば、おい、と焦れたように低く声が届く。 「ああ……えーっとな、だから考え事してたんだよ」 「わざわざ雨に濡れてか」 「いいだろ、べつに」 「よくない」 「え」 「……俺はよくないんだ」 そこまでぼそりと言って、デンジは黙った。 外の雨音や、遠くの雷鳴、車が走る音なんかがやけに耳に入ってくる。暫く待っても、デンジが動く気配はない。見えない表情をもどかしく思いながら、オーバは身を乗り出して「おいデンジ、」と呼んでみだ。自分の声ではないような、ひとりでに潜められた声が出てきた。 「……いや、やっぱりいい」 「はあッ?」 「まあお前にも、言いたくない事くらいあるよな」 ぶっきらぼうな声色のくせに、内容はひどく殊勝なものだった。お前本当にデンジか!と思わず尋ねたくなるくらいには驚いて、オーバは闇の中で目を凝らした。するとデンジが顔を逸らしたような気配がして、今度は何やらむかむかとしてきて眉をひそめる。なんなんだ、その態度は。 「ッべつにな!言いたくないわけじゃねぇよ!」 「ふーん、じゃあ言えよ」 「……お前のこと、考えてた」 気づいたら口をついていた。 「……ふーん、」 「〜ッもっと何か言えよ!」 理不尽なことを口にしているのは、分かってる。 顔に熱が集まって来たのを感じた。熱くなるのは好きだが、こういうのは違う。こういうのはダメだ。 デンジが至って落ち着いた声のままであることに居た堪れなくなり、オーバは座ったまま椅子をガタンと鳴らした。迂闊に立ち上がると、またガラスを踏みそうだからだ。 「じゃあ言うけど、」口を尖らせたような声がした。 「ッ……おう」 「とりあえず俺は今嬉しい」 「…………は?」 「俺も今日は何か知らんが、お前のことを考えていた」 あーあ、と籠っていた力を逃がすように、デンジが背凭れに仰け反った。それくらいは見えるようになっていた。 「デンジ、俺のことって」 「…いや、ちょっとキモいこと言うけど…俺ら色々、近すぎじゃないかと思ったんだけどさ」 「…………、」 「でもまあいいか、ということになった」 「…なった、って何だよ」 「俺の脳内会議で」 「…………、…………」 「……………………」 「……ぶはッ」 たまらず噴き出した。 「ハハハッ! ひひッ……うははは! なんだよそれっ!」 「…おい、笑いすぎだろう」 「だ、だってよ……それっ、そういうのってお前、ふつう脳内会議で解決することじゃねーだろって!」 ひいひいと文字通り腹を抱えて笑うオーバが見えているのかいないのか、憤慨したいのに噴き出してしまったらしいデンジの何とも言えない声がして、またオーバは笑った。顔に集まっていた熱が、いい具合に発散されている気がする。「なんだよ!さっきのちょっとシリアスだった雰囲気どこいったんだよ!」今にも転がって笑いだしそうな勢いに、もはや何を言っても大ウケされるだけだと悟ったのか、デンジは溜息をついて黙った。 「いやー俺もさ、じつはちょっとキモいこと考えてて」 「なんだよ、俺らキモいな」 「聞けよ! なんか俺、デンジのことすっげえ分かってるらしいんだわ」 「……で?」 「それでさ、俺はけっこう嬉しかったんだよな」 俺だけが知ってるデンジってのが色々あるんだと思うと嬉しかった、けどそれってデンジ的にはどうなんだろうなって考えてたんだよ、それなりに真剣にだぜ! オーバが照れを含んだ声色でいっっぺんに喋ると、デンジはどうやら顎を引いて、鼻から息を逃がすようにして笑ったらしい。見えていなくても分かるのは、これがデンジの癖だからだ。 「……で、お前も脳内会議で解決したんだろ」 「へっ……ああ、いや俺は……そうなのか……?」 「じゃなきゃ何なんだよ、あのにほんばれは」 「あー……そっか、だよなァ」 まったく自覚していなかったが、考えてみればあの高架橋で、俺は脳内会議をしていたのかもしれない。そしてデンジと顔を合わせてみて、何か胸のつかえがとれたようなかんじがしたのだ。 デンジが傘に入れと言った時、俺は嬉しかった。俺らは今のままでいいんだな、と思った。 「っ……はは、」 今度はデンジが短く噴き出した。ふっふっふ……と抑え気味の独特な笑い方に、弱り顔のままオーバも脱力する。それと同時に、また嬉しさがこみ上げてきた。 顔はよく見えないのに、デンジの今の顔がはっきりと目に浮かぶのだ。こういうのがすごく、いいなと思う。俺だけが分かっているデンジだ。当たり前のように、分かる。 「……あ、」 ちかちか、と何度か明滅して、蛍光灯が光を取り戻した。瞳孔がぎゅっと縮まり、二人して目を細める。笑っていた名残のままだったから、やけに幸せそうな顔になっていてそれがまた面白かった。いいタイミングで点いたものだ。 「やれやれ、復旧したか」 「そういやお前、何かやらなくていいのかよ」 一応ジムリーダーさんだろ、と茶化すように言ってやれば、言われなくてもこれから行く、とデンジは鬱陶しげに手で払いのけるような仕草をした。「……その前にこれ、片づけるぞ」「あっそうだった、悪いな割っちまって!」床を指差したデンジに両手を合わせて見せると、どうせ百均だ、と膝をついてどうでもよさそうに肩を竦める。 顔はいつものデンジに戻っているが、だいぶ赤い。きっと俺もそうなっているんだろうなと照れくさい気分になりながら、オーバはしゃがみ込んで破片を拾った。 * 「で、つまりどういう話だったんだ」 足の裏に絆創膏を貼り付けているオーバを眺め、デンジは気だるさを隠しもせずにのろのろと上着を羽織り、思い出したように呟いた。見上げればむずりと痒そうな顔をして、ポケットに手を突っ込んでいる。口調とは裏腹に結構真面目に考えてるな、と再び絆創膏に目を向けながら笑った。 「んーだからさ、今まで通りでいいってことだろっ!」 「……それだけかよ」 溜息交じりの笑いがこぼれる。 停電している間、ずいぶん色々と喋ったような気がするんだがなあ。デンジが疲れたような声を出したので、いや半分くらいは笑ってたぜ!と言ってやると、それはお前だけだろ、と呆れた返事が寄越された。 |