「もお〜〜〜バリトンなんて嫌いですっ! ばか!!」
「わーたーしーこーそ! ファルセットなんかどっか行っちゃえ! このっ!」
「痛ァい! ううっ知りません!!!」

時計塔にファルセットの高い声がキインと響き、それに続いて下界へと駆けてゆく靴音がだんだんと遠ざかりながら石造りに木霊する。ちょうど入れ違いに戻ってきたバスドラはファルセットが去った方角を横目に見やり、うるせえなと悪態をついた。雑然とした暗い部屋をぐるりと見回す。どうやらまだセイレーンは音符集めから戻っていないらしく、バリトンひとりの姿しかなかった。
あの女が居たらやかましいわ!の常套句と共に幾度か引っ掻かれて毛でも毟られていただろう、とそんなことをどうでもよさげに呟くと、じろりと剣呑な眼がバスドラに向けられる。腕を組んで窓の外を睨みつけていたバリトンが、恨めしそうな顔をして振り返ったところだった。
「あ?なんだ」
「別に、私はちょうどファルセットに毛をむしられたところだったので忌々しくって」
「はあ?」
「っあいつ……枝毛がありますよ〜! とか言って! 抜いたんですよっ私のこの! 美しい髪をっ!!」
「うおっ、あ〜そうかよ、しっしっ」
ずいずい、と常にない剣幕で喚き散らすバリトンに若干押されたバスドラは、バリトンから距離を取ってさも鬱陶しそうに手を振るうと、どっかと床に腰を下ろした。手をわなわなともどかしそうに動かして怒りを表現しているバリトンに胡乱な眼を向けるも、すでに意識は記憶の中のファルセットに向いているらしい。ぎゃんぎゃんと悪態をつきながら、時折り音程をつけてファルセットへの悪口を言いまくっているヴァリトンボイスはかなり煩かった。
「だいったいファルセットは普段からへらへらへらへらして私の美しさもスマートさもまったく分かっていないんですよッ! 枝毛があったらそこだけ切ってケアするのがじょ〜〜〜うしき! じゃないですか! それを「ええええーい! うるっせええええ! 毛を一本や二本抜かれたくらいで大袈裟な奴だなお前はァ! 女子か!」
がっしゃーん! ともしも卓袱台があったらひっくり返していたであろう勢いの怒鳴り声に、びくっとしてバリトンの長台詞が止まる。眺めているうちにだんだんとそのどうでもよさに腹が立ってきたバスドラは、青筋を浮かせるほどの面相でずいっと指を差して叫んだ。
「オレが音符探している間になにくだらねえ喧嘩してんだお前らァ! 毛なんざど〜〜〜でもいいから早くお前も音符探せェ! バリトン!」
空気と石造りをびりびりと震わせる声が響いた。そうして、ぽいっと投げ出されるようにして時計塔を追い出されたバリトンはファルセットに加えてバスドラへの恨み事をぶつぶつと呟きながらも、加音町へと音符探しに出ることになったのであった。







「あ」
「……あ」

ブランコに座って力なく揺れていたファルセットは、聞き覚えのありすぎる声に顔を上げ、普段よりも数段沈んだ声を漏らした。声というより呻きに近い。その相貌を見るや否や、ああやっぱり無視すればよかったかとバリトンは顔をしかめた。しかし既に目が合ってしまっては、逃げるみたいで引くに引けない。
まさか音符より先にこいつを見つけることになるとは、だいたい公園なんてだだっ広い場所にこのピンク頭は目立ちすぎるのだ、そう無言でごちて口元を引きつらせつつバリトンが一歩近づくと、ぎくりとしたようにファルセットはブランコの鎖を握る手に力を込めた。キイ、と軋んだ鉄の音がする。ずずっと洟を啜る音がする。心地良いはずの耳触りだが、今はそういうことに浸っている余裕がなかった。
「泣きたいのは私のほうなんだけど」
「っう……だ、だってェ」
「だってじゃないでしょう、なんなんだもう、いい歳して」
ぐしぐしと頬を拭うファルセットの大きめの双眸は、泣いたせいで少し腫れぼったくなっている。距離を詰めて顔を窺おうとしてみると、見ないでくださいよお、と駄々をこねる子供めいた呟きとともに首を振られた。なんなんだ、とまた眉をひそめる。これじゃあまるきり私が悪いみたいじゃないか。
「頬をつねったのがそんなに痛かった?」
「ち、違うよッ」
「じゃあなに」
「……ば、バリトン、ぼくのこと嫌いになっちゃいましたか?」
「は?」
潤んだ瞳で見上げられ、どうしようもない謎の罪悪感を感じながらバリトンは真顔になった。年上のはずのファルセットに何故か庇護欲のようなものを掻き立てられるような気がして、いやいやこいつ何言ってるんだ、と内心でひどく冷静につっこみを入れつつ、しばらくファルセットを見つめる。
桃色の眉は下がっている。目は相変わらず濡れて、口はちょっと開いたままだ。かなりの阿呆面。まるで捨てられた犬みたいだ、と思ったらやたらとしっくりきて、ふっと噴き出すとバリトンは横に顔を背けて笑いをこらえた。しかしこらえ切れずに肩が揺れ、それを見てかファルセットは不安げにまた呼びかけてくる。
「バリトぉン……」
「く、くくっ……アンタさっき、私のこと嫌いだって言わなかったっけ?」
「あ、あれはつい勢いでェ!」
飛び跳ねるようにしてブランコから立ちあがったファルセットが、背伸びをしてバリトンの顔を覗き込む。ほんとは嫌いなんかじゃないんですよ〜!と必死な様子で訴えてくるのが可笑しくて、バリトンは少し笑ってしまってからファルセットに向き直った。
「ごめんなさいは?」
「……ご、ごめんなさァい」
「ふふっ……まァいいさ、ヘアケアを入念にしないとね」
時計塔で怒りにまかせて抓り上げたために赤くなっているファルセットの頬を撫でてやりながら、ついでに残った涙を拭ってやる。大人しくしているファルセットはやはり年上には思われず、バリトンは不思議な心地になった。可愛いと感じるのはおかしいはずだが、今のファルセットにはそれが一番しっくりくる形容のような気がした。

「ねえ、バリトン」
「ん?」
「僕のこと嫌いじゃないんでしょ?」
「まあね」
「僕もバリトンのこと嫌いじゃないんですけど、嫌いじゃないってことは、好きってことですかね〜?」
帰り道でそんなことをのんきな口ぶりで尋ねてきたファルセットに、また何を言い出すのかと視線だけを横向けた。うーん、と彼なりに考えているらしい面差しが見えたので、つられてバリトンも思案に沈みそうになってしまう。
「……まあ、そうなんじゃないの」
恋は気のせい、愛はまやかし。常々メフィスト様はそうおっしゃっているけれども、好きというのとはまた違うような気がしてバリトンはとりあえずそう答えておいた。そっかあ、と真剣味なく、それでもどこか嬉しそうな声が返ってきたので、もう考えることなど何もなかった。今まで通りだ。
ファルセットはへらへら笑っている。気分はとても良い。あとは音符さえ、ひとつでも見つけられればよいのだが。