仕掛け尽くしのジムの最奥部で、呑気にレントラーをいじくっているオーバを眺めながらデンジは溜息をついていた。わははと楽しげな笑い声をあげて撫でているさまは、それはまあレントラーも嬉しそうではあるのだが、なかなかどうしていじくっているという表現がしっくりくる。あいつがコリンクだった頃からあんなかんじだったな、とひとりごちる。レントラーが赤アフロに擦り寄ってもふもふしているときの顔は、大層気持ちよさそうに見える。きっとポケモンとじゃれあっている感覚なのだろう、と考えたところで、いやそれは流石にとひとりで噴き出した。言い得て妙だったわけではない。断じてない。
「なあ、お前んとこってこんなに暇だったか?」
「今日分の予約は全員倒した」
「なんだ、バトル見たかったのに」
「どうせまた来るんだろ、その時に見せてやるよ」
「お前な〜、なんでオレがナギサに来てんのか分かってるか?」
腹を見せてすっかりリラックスモードに入っているレントラーを撫でながら、偉そうな顔をしてオーバが笑う。ふん、とデンジは座った体勢で腕を組むと、当り前だろうと乏しい表情のままで返した。
こうしてオーバが頻繁にジムに来るようになったのは、デンジが大規模な停電を起こしてからのことだ。監査という名目である。本来ならば正式なジムリーダー監査職員が来るはずなのだが、オーバが名乗り出たのか、それともデンジという男の性質を見越してのリーグの判断であるのか、実のところはよく知らない。尋ねることもしなかった。オーバくんが行くからよろしくね、とテレビ電話の向こうで笑った現職チャンピオンはいつも通り美しく読めない笑顔であったので、そうかと思うだけでただあっさりと受け容れていた。というかオーバがデンジのもとを訪れるのは茶飯事なので、改まって理由を与えられると奇妙な心地がする。現にこうやって来てはデンジのポケモンと遊び、日によってはデンジの家に泊り、飯を食べ、またシンオウリーグに帰っていくだけのオーバなので、監査に来ているという感覚はおそらくどちらにもなかった。
「監査員っていうが、お前暇なだけじゃないのか」
「はあ!?なに言ってんだよ」
「その可能性は捨てきれませんね」
「「うわっ!?」」
唐突に降って湧いた声にぎょっとして立ちあがり、思わずモンスターボールに手を掛ける。しかし視界に入った姿を見止め、デンジは未だ眉をひそめたまま、しかしゆるゆると力を抜いた。バイオレット系統で彩られたシルエットはよく知っているものだった。とん、と軽い音とともに着地したところを見ると、やはり正規のルートでここまでやってきたわけではない。仕掛けの歯車がまったく動かなかったから油断していた、と思わず声をあげてしまったことに渋い顔をして、足元に寄って来ていたレントラ―の背を撫でた。
「ゴヨウ!どうしたんだよ」
「ジム内でのテレポートはやめてくれないか」
「これは失礼。少し面倒な仕掛けがあったものですから」
「そういう造りなんで」
「まあそれはいいとして……オーバくん、君ポケッチ持ってますか?」
「え、……あれ、」
「お前さ……」
ごそごそとポケットを漁ったオーバがぎしりと顔を引きつらせ、デンジとゴヨウはほぼ同時に肩を落とした。それまで睨んでいたゴヨウのことが急に不憫に思われて、デンジはなんともいえない表情を浮かべる。フィー、とゴヨウの足元で静かに座っていたエーフィが呆れたように鳴くと、それが合図だったようにぱしん!とオーバは両手を顔の前で合わせて頭を下げた。
「すまんゴヨウ!忘れたっ!」
「それは分かってますよ……電話しても繋がらないからこうして来たんです」
「あ〜ここに来る前にデンジに電話して机に置きっぱだな……そうか、ほんとすまん」
「おい、俺のせいみたいに言うなよな」
「いや、そういうわけじゃないけど…ははは」
「とにかく帰りますよオーバくん、午後から挑戦者が入りました」
「えっ!」
本当かと声を弾ませ、ぱあっと顔を明るくさせたオーバを横目に、こいつあんまり懲りてないなとデンジは顔をしかめる。仕様がないですね、と苦笑を浮かべたゴヨウは初めこそ厳しい口調であったものの今では柔らかい声色に戻っており、いつもこうやって甘やかされているんだろうなと容易に想像がついた。オーバというのはそういう奴なのだ。なんとなく、やりたいようにやらせたくなるというか、こいつならしょうがないと思ってしまう。
「なら早く行けよ、監査はもういいだろ」
「んん、じゃあ今日は戻るわ!またなデンジ!」
「おう」
にこやかに手を振ってゴヨウに掛け寄るさまは、どことなく自分と居るときよりも子供じみているように見えた。色眼鏡の奥で微笑ましげな目をして自分たちのやりとりを見ていたらしいゴヨウと目が合って、デンジはなんとなく気恥ずかしいような、しかしシンパシーを覚えるような、妙な気分になる。あまりそいつを甘やかすなよ、と言おうかと思ったけれども、どうせあちらも同じことを言いたいに違いないと何故か確信を持ってしまったのでやめた。その瞬間に、ふっとゴヨウの涼やかな瞳が笑ったような気がした。
「忘れ物はありませんか、オーバくん」
「うっ、無いって!」
「ふふ、では行きましょうか」
ゴヨウは腰からひとつモンスターボールを外すと、ドータクンを出してひと撫でした。ああやっぱりお前らテレポートで帰るのかよ、デンジは今しがた言った自分の言葉など彼らにはまるで意味を成さないことに脱力しつつ、ふたりと二匹が淡い七色の光に包まれて軽く浮かび上がるのを眺める。「お邪魔しました、デンジくん」「ああ」浮かんだまま器用にお辞儀をしたゴヨウに頷いて、オーバにひらひらと手を振ってやった瞬間に、ひゅんっと空気を鳴らす音がして、彼らの姿はきれいさっぱり消え去ってしまった。
ふう、と肩を竦めてレントラーを見やる。嵐の後とはこんなかんじだな、と呟けば、見上げてきた大きな双眸が瞬きをする。また元居たところに座りなおして、デンジは静まったジムの天井をぼんやりと見上げた。挑戦者は来ないだろうか、といつになく思った。