やわらかな木漏れ日を映してにじむような光彩を描くレンガ敷きの小道は、触れたらとても温かそうな色合いをしている。吸い込む空気がまろやかな、穏やかな昼下がり。三銃士は木製の、きのこをモチーフにした曲線ばかりの卓と椅子にちょうど三点を結ぶと円になるかたちで座り、真剣な顔を突き合わせていた。それぞれの手には数枚のカードがあり、卓の真ん中には捨てられたカードが折り重なっている。
うむむむ、と唸ったバスドラが中途半端に持ち上げた手をうろうろとさせてから、意を決した様子で一枚のカードを引いた。そして次の瞬間に、ガアンとショックを受けて項垂れる。手中のカードは3枚、どうやらどれも違う柄であるらしく、捨て場に送られるカードはなかった。ほら早くしてくださいよ、それを慣れた目で見やりながらバリトンが指を伸ばせば、なんで上れないんだ、と悔しそうに唇をへの字にしてバスドラはカードの束をのそりと差し出した。バリトンの手札は2枚、これでもしもどちらかと同じ柄が出れば、
「残念、」
「ふっふっふ、今度こそ負けんぞ!」
「バスドラさっきもそう言ってたじゃないですかァ〜」
「お前は黙って見てろっ」
残り2枚のカードを念入りにシャッフルしつつ、バスドラがファルセットに釘をさした。既に一人勝ちしているファルセットは頬杖をつき、分かってますよお、と説得力のない顔で笑っている。手持ちぶさたになってしまった彼は先程までバリトンの髪を三つ編みにして遊んでいたのだが、ストレートヘアを誇るバリトンに怒られて定位置に戻っていた。
バリトンは3枚のカードをシャッフルする手を止めないままファルセットを横目で眺め、それから王国で一番大きな時計塔を遠くに見やり、気取られないよう息をついた。まだ昼休みはだいぶ残っている。決着のつかないカードのやり取りをバスドラと始めてから何十分も経っているような体感があったのだが、ただの錯覚だったようだ。どちらかがあと一組みカードを揃えれば勝負はつく、というところからが長い。これにはひどいデジャヴがある。
「本当に、ファルセットはどうしていつも早上りなんでしょうね」
「ん〜……ボクにも分かりませんねえ」
「一番弱そうなのになぁ。ほらバリトン」
「はいはい」
ぺたんと居眠りをするような格好になり、顔だけを前に向けてへにゃっと笑うファルセットに呆れた顔を見せながら、バリトンはカードを差し出す。うららかな日差しの中、なにか永遠に同じ時をぐるぐると繰り返している気分になってくる。
バスドラは真剣にバリトンに勝ちたがっているようだったが、実のところバリトンはもう、どちらが勝ってもさして変わりはないと思っていた。元よりただの時間潰しのゲームなのだから、ということよりも、彼にとってファルセットに勝つということがこのババ抜きの目的にすり替わっていたのだ。何度やってもいつも同じ、ファルセットがひとり先に上ってしまい、あとは残りのふたりでカードを減らし合う。はじめは偶然だと思っていたけれども、さすがにこう続くと不思議になってくるものだ。なんとしてもファルセットより先に上がりたい、そう内心燃えていたというのに、今回もまたバスドラと向かいあうことになってしまった。
「だああ!やっちまった……」
「わァ、またバスドラの負け〜!」
ぼんやりと流れ作業じみたカードの応酬をしていたら、いつのまにか勝負がついていた。ジョーカーを手にしたバスドラが卓に突っ伏している横で、何が楽しいのかよく分からないが、ファルセットがにこにこと声をかけている。バリトンは桃色と緑の色合いをやれやれと眺め、それから空になった手を見つめた。どうしてこの手はファルセットの手に勝てないのか、考えても分かることではないのに考えてしまう。このところ頓にそうだった。

「あ、」
「鐘が鳴りましたね」
「よーし、持ち場に戻るぞお」

昼休みの終了を告げる鐘が鳴りだした。とんとん、とカードを整えながらバスドラが立ちあがると、はあいと応えてファルセットも続く。トランプを管理するのはいつもバスドラだ。はじめ、暇をもてあましがちな休憩時間に遊べるようにと調達してきたのもバスドラだった。国を守るといえば堅苦しい響きになってしまうが、三銃士の役割は日がな一日自らの持ち場に立つことと、行き交う十人達と歌うことがほとんどである。休み時間を削られるような非常事態に見舞われることなどないから、いつだってトランプは三人の憩いを手伝ってくれるアイテムだった。
(それなのに、戻って来てからなにか変だ)
バリトンは二人にやや遅れて歩きながら、俯きがちに口内で呟いた。ひどく曖昧で名伏しがたいものでしかなかったが、確かにもやもやとしたものが胸のあたりにある気がする。ちらと顔を上げると、ファルセットのまとまりのない髪が見える。もっと手入れをすればいいのに、と今さらな不満を抱き、しかしそれだけでない居心地の悪さを感じた。やはりそうなのだろうか、とバリトンは顔をしかめる。
「バリトン?」
「っ、え」
「どうかしましたかー?」
前触れなく振り返って瞳をきょとんとさせ、そのまま立ち止まってしまったためにファルセットは、バリトンと目と鼻の先まで近くなった。たたらを踏んで立ち止まり、バリトンは眉をひそめて首を振る。「な、なんでもない、」みっともなく吃ってしまったことに項垂れたくなったところを抑え、ファルセットの脇をすり抜けて足を進める。不意をつかれたせいか、心音がやけに速い。バリトォン、と高い声が追いかけてきたものの、幸か不幸かちょうど分かれ道にさしかかったところであったので、バリトンは振り返らないまま自分の持ち場へと続く道に折れた。しばらくは後ろを気にしながら足早に歩いたが、ファルセットはこちらへ着いてくることはなかった。


メイジャーランドで幸福のメロディが歌われてから、もうすぐひと月が経とうとしている。
ハミィやセイレーン、アコ達が加音町に残ったこと以外にはこれといって変わったこともなく、のどかで温かな様相をそのままに過ぎていくメイジャーランドの毎日は、一時ノイズによって壊滅の危機に陥ったことが夢だったかのような浮遊感を起こさせた。だがそれこそが、以前とは変わってしまった証しなのだとバリトンは思う。他ならぬ自分の中に残された記憶が、それは感覚を伴わないものも多かったけれども、強烈に残っている記憶が時折りこうやって、平穏な暮らしに波紋を投げてくることがある。
(忘れてしまえれば、よかったのに)
持ち場である城壁の門に寄り添うようにして立ち、腰に携えられた剣を意味もなく撫でながらひとりごちる。こちらに戻って来てからすぐの頃、バスドラにも同じことを言ってみたことがあった。けれども彼は何かを考えるようにバリトンを見たきり、そうだなあ、と曖昧に呟いただけではっきりとした返事をすることはなかった。そしてもうひとりには、ファルセットにはまだ、言ったことはない。彼はまったくきれいさっぱりマイナーランドでのことなど忘れたふうに笑っていたし、一番ひどい操られ方をした彼に、こんなことを言うのはずるい気がしたのだった。
バリトン自身、忘れてしまっている時のほうが多いのだ。しかしふっと訪れる違和感が、ずるずると後をひくことがある。今のように。きっかけは恐らくファルセットなのだろうと、見当は付いていた。







「ああ、今日はアンタなのね、バリトン」
「セ、セイレーン!?」
「ちょっと、今はエレンって呼びなさいよ」
軽い足取りで降り立った少女に目を瞠ると、困ったように彼女は笑った。いつのまに虹の鍵盤が伸びていたのか、私としたことが気がつかないなんて。気まずさをおぼえればそれを見透かしたようにエレンはバリトンの顔を覗き込み、ははァんアンタも後遺症があるのね、と、呆れと母性めいたものを混ぜ合わせたなんともいえない眼差しを送ってきた。アンタもって、どういう。鸚鵡返しに尋ね返すと、エレンは後ろ手に手を組み、くるりと一回転してみせてから少し言い淀むようにはにかんだ。こんな顔をするセイレーンを見るのは初めてかもしれない、とバリトンは思った。そもそも人型の彼女とこうして話をする機会が、あまり多くはなかったのだが。
「この間、メフィスト様達にご挨拶に来たことがあったでしょ」
「はい」
「あのときはちょうど降りたところにファルセットがいたんだけど…ふふ、あいつもあれで色々考えてたのねえ」
「……ファルセットが、どうしたんです?」
「セイレーンもこんなかんじだったんですか」
「え、」
「って言ったのよ、あのふにゃーっとした顔で」
感情、思考、心、あらゆる温かいもの優しいもの、幸せなものから遮断された淀みから戻ってきたという点で、時間差こそあれセイレーンと三銃士は同じだった。それなので、セイレーンの言葉だけで分かってしまう。多くを聞かなくとも。胸の中にあったもやもやとしたものが実態を持って内側を叩いたような気がして、バリトンは知らず知らず顔を強張らせていた。大丈夫、と心配そうにエレンが背伸びをしてきたので、慌てて眉根をほどいて頷く。
「あなたは、忘れてしまいたいと……思いませんでしたか」
「……思わなかった、と言えば嘘だけど」
だけど皆がいたから、私は乗り越えられた。自分がしてきたこと、感じたこと、忘れたいこと、全部抱えても走って行かれるって思えた。アンタ達とも、戦えた。
とつとつと話したセイレーンもまた、バリトンの言わんとしていることは分かっているようだった。少し潤んだ、しかし真っ直ぐ芯を持っている明るい色の大きな瞳を見つめ、ああ懐かしいな、と不意に思い起こす。時計塔に居た頃、あのとき自分が何を思っていたのかもう分からないけれども、黒猫だった彼女の爪を研いであげていたこと。その時もセイレーンの金色の瞳は、操られてもやはり綺麗だったこと。
「それからね」
「……?」
「ううん……これはちゃんとアンタ達だって、アンタ達のほうが、分かってるわよね」
目を伏せて何かを考える仕草をし、そうしてゆっくりかぶりを振ってから、セイレーンは濁りのない面差しをバリトンに向けた。きょとんと目を瞬かせるバリトンにくすくすと笑い、ばしん、と一度バリトンの肩を叩く。いきなりのことに驚きの声をあげれば、眉を釣って彼女は言った。
「アンタ達ならだいじょーぶよ」
ぽろろろん、
跳ねあがる音階にはっとする。セイレーンから視線を外すと、青空に虹の鍵盤がアーチを描いて伸びていた。ひょいっと軽い身のこなしでそこに乗った少女のシルエットが、バリトンにはやけに眩しく見えた。元気出しなさいよ、アンタたちはバカやってるのがお似合いなんだからね!浮かび上がりながらそう声色を綻ばせたセイレーンは、あっという間に背を向けて遠ざかっていく。ちょっと、と手を伸ばす暇もなく、髪をなびかせてセイレーン、否エレンは加音町へと戻っていってしまった。
一体何をしにきたんだ、バリトンがぽかんと空を見上げて呟いた時には、もう虹色は消えかかっていた。





「あれっ、バリトン!どうしたんですかァ?」
日が沈みかけ、勤務を終えてのんびりと城壁からこちらへ歩いて来ていたファルセットは、小走りにやってくるバリトンを見止めてひっくり返った声を出した。それぞれの持ち場に互いが行くということは基本的にないから、何かあったのかと驚いたのだろう。傍までやってきたバリトンは足を止め、いやべつに、と呟いてファルセットを正面から見つめた。んん?とファルセットは首を傾げる。昼のときには顔を背けて振り切ってしまった手前、気まずさがよぎってひとりでに息を詰めた。夕陽を浴びたファルセットは髪はもちろん外套からなにから赤味を帯びて、それだけでもなにか、どことなく息苦しさを与えてくるような気がした。
「少し、話がしたくて」
「へ?」
「……昼間、セイレーンが来たんだけど」
「ええっ!?ホントですか?」
「ああ……それで、なんていうか、励まされた」
歩き出すタイミングを失い、佇んだままバリトンはセイレーンが来たときのことを掻い摘んで話した。本人の居ないところでファルセットの話題になったあたりでは気まずくなって目が泳いだが、聞いているファルセットはあまり表情を変えないまま、丸みを帯びた目をじっとバリトンに向けているだけだった。
「…そうだったんですかあ、」
「ファルセットもこのかんじ、分かってたんだな」
「うーん、たまになんですけど、ふわァって」
「そう……私もそんなかんじで、たまに」
うまく形にならなかった違和感が、今では手の上に乗っているような感覚がした。ノイズに操られる前には分からなかったこと。知らなかったこと。この国に居てときたま訪れる浮遊感は、本来メイジャーランドではあまり感じることのない、悲しみや苦しみ、あらゆるマイナスの感情に浸されていた頃の記憶が居場所を失って、浮かびあがろうとしているあらわれなのではないだろうか。
「忘れたいって思うこともあるんですけど、でも」
「……うん、」
ファルセットが眉を下げて、自分の胸のあたりに手を当てる。それにあわせて胸がしめつけられたような、掬いあげられたような心地になってバリトンは目を伏せた。セイレーンの言葉が、ふわりと脳裏に響いた。
「幸せだなあって」
「ああ」
「ボクたち幸せなんだなあって、すごく」
「……ああ、思うよ、幸せだって……私は、だってあのとき」
「うわ、バリトンッ?」
縋るように抱きしめると、頓狂な声を上げたものの、抵抗もなくファルセットは腕の中に納まった。陽のにおいがする髪に埋まって目を瞑る。あのとき、あのとき、なんだっただろう。あのときはもう正気だったからしっかり憶えているはずなのに、うまく口にすることが出来ない。ファルセットがノイズに吸収されてしまったときのこと、滲んだ視界のこと、もう思い出したくもなかった、それなのに今ではどうにか伝えたくて仕方がない。
「泣いてる?」
「な、泣いてないっ」
「あはは〜。うん、よしよし」
ふざけた口調と仕草なのに、これがこんなに愛おしいと思うのは、きっとあれらの記憶のせいだ。子供をあやすように頭を撫でてくるファルセットの手を掴んで、そのままぎゅううときつく握る。いたいですよお、と弱った声が耳に流れ込んできて、泣きたいのか笑いたいのかよく分からなくなってしまった。
「一緒だったのに、」
「……」
「離れてしまったのが、あまりに、急だったから」
「それは〜ほら、ノイズのせいで……」
「っだから、もう、分からないのはいやだったんだよ…」
この手にどうして私の手が勝てないのか、考えても分からないのがいやだった。怖かった。ファルセットのことで分からないことがあるのが怖かった。どこで別たれたのか、それすら気づけないうちに離れ離れになったときを思い出すのだ。
「ねえ、もしかしてトランプのことですか?」
「……、」
「あはは…それはねえ、バリトンはいっつも優しい顔するでしょ」
「は……?」
「バスドラが顔に出やすい〜ってバリトンはいつも言ってるけど、バリトンもおんなじですよぉ」
「そうだとすれば、ファルセットにだけね」
「ええ〜、なんか照れますねェ」
片手を握ったまま、顔を覗き込んで情けない笑みを浮かべるファルセットをもう一度抱きしめた。色々と嬉しかったり恥ずかしかったり、拍子抜けしたり、安心したり、いっぺんに押し寄せてきたものが思考をすっかり止めてしまい、反芻しているのはいくつかの、ファルセットやセイレーンの言葉ばかりになってしまった。

忘れたいこと、なかったことにしたいこと、それらをもしも抱えて生きていくことができたら、笑って見つめることができたら、この国で当たり前にすぎていく毎日をもっと、幸せだと感じることができるのだろうか。幸せしか知らなかった自分たちが受けた痛みは、いつか掌で宝物のように、かけがえないものになるだろうか。


「今度は負けないから」
「うーん、バリトンの髪を編ませてくれたらいいですよぉ」
「だーめ!」
並んで歩く。三つの分かれ道がひとつになるところで、バスドラが待っているのが見える。今もし、忘れたくないと言ったらバスドラもまた、そうだなあと言うのだろう。あいつはきっと初めからこの浮遊感の正体が分かっていたのだろうな、とバリトンは思った。
ふと手を繋いだままだったことに気がついて放そうとしたのだが、それを見計らったようにファルセットが握り返してきて、ぶんぶんと子供みたいな顔をして笑って繋いだ手を揺らしたので、もういいかと頬を緩ませた。