入りますよと声掛けをして、いらえと同時に戸を細く開くと影が割れ、すうっと道場に一筋の淡い光が伸びた。いやにまろやかな、温色の光である。その光の筋にちょうど座していた主に僅かながら瞠目し、佐助はつい今しがた見上げた今宵の月を脳裏に描いた。澄んだ闇色に浮かぶあれは、少し指を引っかければぽろりと取れてしまいそうな、重たい、蜂蜜色の三日月であった。ひどく凍みる、正真正銘の信州の冬であるというのに、あの月ばかりがとろみを孕んでいるのが妙に心地悪くて目を逸らしたのだった。まさかここであんたを見て月を思い出すことになろうとは、内心でごちて鼻白みそうになっているところへ、どうやら沈黙を訝しんだらしい幸村が佐助の名を呼んだ。
「佐助、如何した」
「え、ああいえいえ何でも」
慣れた調子で笑うと、どこか幼い、これまた見慣れた面差しがぱちぱちと瞬きをする。人の上に立つ人があんまりそういう顔をするもんじゃないよと常々申しているのだが、こと佐助相手では改める様子もないらしい。
十文字槍を傍らに置いたきり立とうとしない幸村を今しばらく光の中においておきたいような気がして、佐助はその場に片膝を付いて軽く頭を垂れた。遅れて申し訳ありませんでした。改まって告げればうむ、と彼らしい短い返しのみが寄越される。続いて衣擦れが鳴って、顔を上げると幸村が槍を手に背を伸ばしていた。月明かりの中で。真冬だというのに道着ひとつ、しゃんと背筋を立てて顎を引き、どこか知れぬ闇を睨みつけるようにして立つその姿はひどく凛々しく映ったが、何故だか佐助にはおそろしくもあった。畏れである。あんたは白を着ちゃあいけない、場違いなようで我ながら的を射ていると首肯したくなるような内意を飲み込み、佐助は改めて到着が遅れたことを悔やんだ。
鍛錬に付き合う約束をしてはいたが、この時勢では思うように密偵も捗らず、ようやく暇を見つけて道場を訪れた。どうせこの御人のことだから、一人でも熱い鍛錬模様を繰り広げていると思っていた。しかし今宵はそうではなく、蜜色の月に塗りこめられるばかりに彼は静かに座していた。蜜は、酩酊を誘う。
ぼとり、
不意になにごとかが静けさを破った気配に、はたとして佐助は振り返った。すると雪に覆われた庭にひとつ、落ちている紅がある。雅とは縁遠い幸村の屋敷にある数少ない彩り、冬になるとその色映え鮮やかな寒椿の花だ。見事に開いていた大輪がひとつ、自らの重みに耐えかねてか、それが椿の常であるようにぼとりと落ちた。先程の音は、いや実のところ音など立ちはしなかったはずなのだが、あまりに雪と夜が静かであるために感じ取ってしまったのはあれが落ちた音だったのだと思ったら、瞬間、ぞわりと鳥肌がたった。白い雪に落ちた紅。音もなく、だというのに届いてしまった落花の震えは、この月夜がもたらしたものに他ならない。
弾かれたように戸を閉めると、佐助は幸村の側へ寄った。始めましょうか大将、夜が明けちまいます。なんだ佐助、お前が待たせたのではないか。はははそうでした、失敬。笑って軽口を言い、薄闇でも分かるほどに闘志を帯び始めた幸村の大きな眼にどこかで安堵しながら、佐助は分身を生むために印を組む。月光に照らされた槍の切先が、白く鋭利に内臓をざわめかせる。
早く春雷が鳴ればいい、
佐助は我らしからぬと笑ってしまいそうな呟きを闇に溶かし、強く床を蹴った。