水面のように潤った空が七色に輝いたような気がして、淡く瞑っていた瞼を持ち上げる。瞼のこちら側はもとより少しばかり日向の色を透かしていたけれども、飛び込んできた景色は構えていたものよりもずっと眩しく、一寸白んだ視界に息苦しさをおぼえる。それでも再びきつく目を閉じずに済んだのは、背を預けていた大樹の枝葉が生み出すまろやかな陰に、この身が包まれていたからだった。手を翳しながら頤を上げると、燦々と地上を照らす太陽が中天よりも西のほうへと差しかかっているのが窺える。どうやらまどろんでいたらしい。豊かに広がる葉の合間からほろほろと落ちてくる陽光が、風が吹くたびに煌めいて瞳に優しかった。しばらくぼんやりと眺めていると、睫毛に反射したその光がぼんやり丸みを帯び、かすかに七色に揺らぐ。それを感じてようやっと今しがたの七色の正体が分かったバリトンは、ああ、とため息めいた声を漏らしてから、ゆるゆるとかぶりを振った。
「みーつけた」
「……遅かったね」
「だって、これ持ってくるの大変だったんですよぉ」
脱力を誘う声とともに視界に落ちた影が、逆光の中でふにゃりと笑った。揃いの外套が風に揺れる。尖った言い方をしたはずなのに意にも介さぬ様子で隣に腰を下ろしたファルセットは、腕に抱えていたいつくかの林檎を大事そうに膝の上に乗せた。よく磨かれているらしいそれは赤々と色づき、ほのかに甘酸っぱい香りを放っている。
「落とさなかった?」
「はい」
「ふふ、それはよかった」
「あーバリトン、いまバカにしたでしょ」
「してないしてない、してませんよ」
むくれたファルセットに肩を竦めて見せてから、苦笑がちに首を傾げてやる。自分よりも年上であるはずなのに、こうしてあやすような仕草をすることに何ら抵抗が起きないのは、そうしてあちらもまた当たり前のごとく機嫌をよろしくしてしまうのは、これまでに築き上げた関係ゆえだと思えばこそばゆくもあったけれども、それよりもやはり嬉しさが勝っていた。しばらく温色の眼差しを受け止めていると、どうやら顔に出ていたらしい、なに笑ってるのと今度はただ不思議そうに瞬きを繰り返されたので、慌てて顔を逸らす。なかば無意識に片手を差し出せば、んん?と引っくり返った疑問符が浮かび上がったのが聞こえ、しかしすぐにつるりとした林檎が乗せられた。その感触にやたらと安堵が押し寄せる。のろのろと口元まで持ってきてはみたものの、頭をぼんやりさせるような香りと唇から伝わるまろやかさだけで胸がいっぱいになったような心地がして、そのまま歯を立てずに手を下ろした。
しゃく、と傍らからは瑞々しい音がする。ファルセットが、曰く頑張って運んできたらしい林檎。それを噛みしめる響きでさえあまやかな音色に聞こえてじわじわと眉根が寄ってしまい、バリトンは立てた膝に両腕を乗せ、そこに額を押しつけた。
「うわ、どうしたのバリトン」
具合でも悪いの、そうすぐに気づいて近づいてきた声に、また胸がぐらぐらと苦しくなる。
「なんでもない……ちょっと夢を見たんだ」
「夢?どんな?」
「さあ…どんな夢だったか」
いやに重たく感じる頭を上げれば、すぐそこに丸い双眸が浮かんでいる。心配ですとありありと書いてある面差しに、笑ってしまいたいような、泣いてしまいたいような変な気分になった。
空が七色に光っていた、あのとき、何もかもすっかり綺麗になったのだと分かったのに、確かに自分は何もかもを一度失ったのだと、まざまざと見せつけられたのは私だけだったのだろうか。こうして全部元通りで、あなたは何事もなかったかのように私のところへ来てくれるけれども、それさえ少し間違えば有り得なかった未来なのだと、恐ろしくなるのは私だけなのだろうか。
「苦しいよ」
「ええっ!?」
「苦しい……ここに、花が咲いたみたいで」
みぞおちのがらんどうに、噎せ返るくらいに春の花が詰まっているのだ。林檎の香りがそんな錯覚を起こさせているのか、ファルセットの柔らかな声がそうさせているのか分からないが、空っぽになったところに急に芳香が溢れて、だからこんなにも苦しいのだろう。
私だけならばいいな、とにわかに思って、バリトンは薄く口端を上げた。あなたはできれば、できるだけ、空っぽだった間のことを思い出すことなく笑っていてくれたら、それが一番幸せなのだ。私にとっても、あなたにとっても、誰にとっても。花は咲いていた。昔からずっと、枯れることなく咲いていた。
「バリトン?ねえ、苦しいって……お城に戻ろうか?」
「いえ、大丈夫」
「本当ですか?」
「そうだな、ちょっとじっとして」
「え、」
ただでさえ鼻先がくっつきそうなところに居たから、少し首を伸ばせば事足りた。視界を満たしたファルセットの瞳に映った自身がまるで知らない人のような顔をしていて、こんなのは他の誰にも見せられないな、と内心で呟いて目を細めた。目を瞑るならこちらのほうが柄だとは心得ているものの、そうしたらまた甘い匂いにどこもかしこもやられてしまいそうだったので、唇を離すまでずっと視線は絶やさなかった。
ファルセットが赤い顔をして、高い声でなにかを喚いている。林檎よりも、彼の髪よりも柔らかな紅潮である。いまだ形を保ったままの自分の林檎をちらと眺めてから、バリトンは舌先に残った甘酸っぱい味と、くらりとするような香りを飲み込んだ。むせかえるほどの苦しみは、もうそろそろ心地よさに変わるだろう。
みぞおちに、春の花が咲いている。