夕暮れ時にやって来たミナキ君の手に提がっているスーパーの袋を覗きこむと、見事にシチューと煮物をこしらえられるだけの材料が揃っていた。この時期にしてはポテトが高かったぜ。笑って、ドサリと上り框に袋を置いてから自身の荷物も置き、靴を脱ぎながら久しぶりだなと軽い調子で快活な声は告げる。いらっしゃいもおかえりも、ただいまもおじゃましますもタイミングを逃して交わさないまま、ただ頬を緩めてから頷いて迎え入れる。白くて淡い光沢を放つ品の良さそうな靴も、同じ色のマントも少しくたびれているように見えるけれども、当の本人はどこかしら嬉しそうに映るのは気のせいではない。と思いたい。「悪かったね、買い物なんて頼んじゃって」「いいさ、どうせスーパーの前を通るんだから」袋を今度は僕が持ち上げると、重みで伸びたポリエチレンがじゃがいもやにんじんの形を浮かび上がらせてどうしてだか面白かった。ネギとブロッコリーが上から飛び出していて、濃い緑が目にじんわりと染み込む。これを君が持ってきたと思うと笑えるなあ。呟けば、なんだそれは、とわざと拗ねたような顔をしながらミナキ君は器用に声で笑った。
台所に向かう廊下の壁からは、するりするりとゴースやムウマ達が様子を窺うように顔を出しては、またどこかへ消えてゆくのを繰り返している。次第にその数は増えて、どこからともなく弾んだ笑い声も聞こえてくる。今日は皆元気だな、とそんな反芻を耳にしながらあちらこちらへ視線を巡らせて感心したというようにミナキ君が少し語尾を上げたので、そうだね君が来たからね、と肩を竦めてちょうど通りがかったゴースと目配せをして笑った。
「そんなにシチューが恋しかったのか?」
「はは、それも半分くらいかな」
つい数時間前、エンジュへ向かうとポケギアの向こうから連絡を寄越したミナキ君がもし入り用ならば何か買って行こうと言ってくれたので、初め僕は何でもいいから君が作れそうな料理の材料を、と遠慮もなにもせず注文を出した。ミナキ君がうちに来た日は何かを作ってもらうというのがここ数年の僕らのブームというか、まあ僕がたまには洋食を食べたいだけなのだが、ミナキ君のほうもそういった決めごとがあると楽しいようなので、兎に角いいかんじにこの習慣は続いている。『ふむ、じゃあマツバ…カレーとシチューならどちらがいい?』『うーん…シチューで』このところ肌寒いからさほど迷いもせず返すと、予想していたのかああ分かった、とするりと了承してミナキ君はポケギアを切ろうとして、だけど思い出したようにもう一度僕の名を呼んだ。
『なに?』
『ちなみに味醂はあるか?』
『え。ああ、あるけど』
流し台の下、備え付けの棚に仕舞ってあるはずのボトルを思い浮かべながら頷くと、それなら大丈夫だな、と満足そうに笑って今度こそミナキ君は通話を切った。最後に聞こえたのはスーパーのタイムセールの掛け声だった。
しばらくポケギアを眺めて味醂という言葉を頭の中でごろごろと転がしていた僕であったが、カレー、シチューときて味醂なのだからとようやく糸が繋がって噴き出した。近くでテレビを見ていたゲンガ―がなんだなんだと寄って来たので、とげのついた背中を撫でながらポケギアを卓袱台に置いて居間を出た。ゲンガーはなにやら悟ったらしく、にたりと笑って僕についてくる。今夜はシチューだってさ。ゲンゲン。それで明日はきっと、ミナキ君特製の煮物なんだよ。ゲンゲン。心なしかゲンガーも嬉しそうに鳴いている。そうこうしているうちに着いた台所で確認すると、醤油も味醂も料理酒もしっかり揃っていた。日頃チェックを怠らないイタコさんに感謝をしなくちゃなあ、内心呟きつつ僕は鍋の用意なんかをして、そのうち鼻歌まで出てきたから自分でも可笑しかった。

「……やっぱりたまには、東の料理も食べたいからね」
「煮物の話か」
「そうそう、作るんだろ?」
ミナキ君の味付けはタマムシのものだから、僕が普段食べ慣れている味とはちょっと違う。とはいえ最近少しずつエンジュ料理に感化されてきたらしいし、彼だってそこまで本格的な料理をするわけでもないので、これは殆ど口実のようなものだった。ただ僕は君がこうやって僕のうちで何かを作ってくれることが嬉しい、それだからきっとポケモン達も嬉しくて、否もしかしたらゲンガーなんかは僕とは関係なく、君が来るとにぎやかで楽しいからというのもあるだろう。君が来ただけで僕の家は弾むような空気が流れるのだ。そんなことを言っても君はいつもこんな調子じゃないかと笑うだけかもしれないけれど、それは君が居ない時のこの屋敷を、君が知らないだけなのだ。
「よく言うぜ、私の料理は口に合わないとか言っていたくせに」
「いつの話さそんなの、」
「マツバは偏食がひどくてなあ」
「やめてくれよ、君も昆布巻き食べられなかったろ」
「ああ……そういえばそうだったな」
ははは、二人してちょっと乾いた笑い声をあげながら台所へ連れ立って入る。そういえば昔はもっと、罰ゲームみたいにして夕食当番だなんだとやっていたような気がする。ミナキ君は器用だから和食も作れるようになったけど、僕はカレーのルーを放り込むより味噌汁を作るほうが今でもまだ性に合っているような有様だ。もちろんシチューだって自分では滅多に作らない。というか普段は食べたいともあまり思わない。どうせミナキ君が来たときに食べられるから、とも思っているし、ミナキ君が来ないのならそれこそ一生食べなくても平気かも知れない、くらいのものなのだ。上着を脱いでシャツだけになったミナキ君に僕のエプロンを渡しながら、とりあえず言われたことは手伝うよと笑えば相変わらずだなあと苦笑をしてミナキ君は袖を捲った。台所で待っていたゲンガーがいつの間にか近くまで飛んできて、挨拶代わりにミナキくんのほっぺたを引っ張っている。いひゃいぞ、と眉を寄せつつも諦めがちに声をあげる姿すら僕には微笑ましかった。




「不思議だな、ミナキ君とだと食が進むんだ」

卓袱台を挟んで向かいに座るミナキ君を上目に見やりつつそう呟いてシチューを口に入れると、クリーミーな風味と野菜の旨みが鼻に抜けて、体の芯がぽかぽかとしてくる。まだ煮込みが浅いから、素材の味がよく分かる。「マツバ、それはそうと」レンゲをスプーン代わりにするのは相変わらずなんだな、と自身の手に握られた白いレンゲを神妙に眺めながらブロッコリーを掬ったミナキ君に、だってスプーンより使いやすいんだと答えるとやっぱり煮え切らない顔をされてしまった。それでも滞りなくシチューを口に運んでいるので、ギャップが面白くて僕はシチューを掬う振りをして俯いて笑う。僕が笑っているとミナキ君はすぐにどうしたんだと訊いてくるから、今はうまい返事が見つからないから、こっそりと笑うのだ。わけもなく楽しいんだ、嬉しいんだ、そう言ったら君はまた不思議そうに瞬きをするだろうか。こんな気持ちを、もし君も知っているのならそれは僕のためであってほしいと、今だけは願わせてほしい。
「美味しいね、」
「そうだな……マツバと食べる料理は格別だ」
「はは、自分の料理なのに」
「む、本当だぞ」
自画自賛というわけじゃないからな、と眉を上げるミナキ君に分かってるさと頷いた顔は、きっといつになく緩んでいることだろう。僕の顔を見てつられたのか、それとも別の理由でそうなったのか、くしゃりと照れたような笑みを浮かべるミナキ君は少年の面影をそのままに、けれども確かに過ごした歳月の分だけまろい輪郭を滲ませている。さっきの台詞、どうでもよさそうに流していたわけではなかったんだなあ。思って僕はまた嬉しくなった。
器を見下ろすと、浅くなったシチューの底に角のとれたにんじんがころんと佇んでいる。赤くて、温かくて、やわらかい。しあわせとはこういうものなのだろうかなあ、と僕はなんとなく思いながら、レンゲでにんじんをそっと掬い上げた。煮込まれた幸福、忘れていても憶えている、ちゃんとそこにある、乳白色の温もりに隠されたひときわ鮮やかな色だ。こんな綺麗なコントラストは、煮物じゃ出せない。
「ああそうだマツバ、少し早いが、おめでとう」
「なんだ……覚えてたのかい」
「随分な言われようだなあ、明日だから来たんだぞ……それで、何か欲しいものはあるか?」
よくよく思い出してみれば去年もこうやって、欲しいものを尋ねられたような記憶がある。僕らは大抵そうなのだ。お互いの欲しいものというのが驚くほど分からないから、今欲しいものを言ってそれをもらうというほうが合っている。とはいえ前回は何だったかというと、さて、その時分に必要なものを口にするために、いまひとつ覚えていられないというのが痛いといえば痛い。ミナキ君の時は確か手帳をあげたんだったか、すごく喜んでくれたからそちらのことばかり覚えているのだ。
マツバ、と焦れたように呼ばれてはたとすると、晴れた日の南海と空を湛えた双眸がじっとこちらを見ていた。まさか欲しいものがないなんて言わないでくれよ、張り合いがないぜ。肩を竦めておどけるように笑う、そのくせどことなく不安そうな気配を帯びている。僕が明日という日を喜ばなかったらきっと、ミナキ君はひどく気落ちするのだろうと容易に分かる。それだけで本当は十分なんだと、言ってやりたい心地になった。薄くほほ笑んでからにんじんを口に入れ、じっくりと噛みしめれば、懐かしいようなこそばゆいような気分になってお腹が小さく震えた。言葉に出来ない、この湧き上がってくるものをくれたのは他ならない君なのだ。
「いいんだよ、もう貰ったから」
君は、僕がいつも忘れてしまうようなくすんだ色をひとつひとつ温めて、僕に掬い上げさせてくれる。その美しさ鮮やかさ、柔らかさを教えてくれる。そういうことがいっとう嬉しいのだ。君の作ったシチューが世界一特別に思える、自分がこんなふうになってしまうことが、僕にとっての果報だ。
そんな内証をしている間に、ミナキ君は僕の言葉を咀嚼したらしい。面食らったように瞬きをするさまがあまりに想像通りだったので、声に出して笑いながらありがとう、と追い打ちをかけてやった。混乱と、その中にじわじわと何かに気付き始めたうまくかたちにならない感情が、ミナキ君の面差しに見え隠れしている。そういうこともあるさ、だって長い付き合いじゃないか。急須にお湯をいれるために立ち上がりつつ告げて、何かを言いあぐねているらしいミナキ君がこちらを見上げるのを待ってから僕は視線を合わせ、心のままに破顔した。
(君がここに居てくれてよかった)
そうでなかったら見えないものが、僕にはたくさんあるんだ。





Dear my friend






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お誕生日に捧げさせていただいたものを加筆修正して載せさせていただきました。