煤けた木の臭いが鼻につくのは、いつかここに訪れた日の記憶が鮮明に蘇っているからだろうか。ミナキは真新しいマントの端をぐいと掴むと鼻を覆うようにそれを顔に押し当て、無言のまま眉根を寄せた。目を引く容姿を持つ彼には時折り遠巻きに住民達の視線が送られていたが、それを歯牙にもかけない素振りでまだ少年の色を残す面立ちはひとつかぶりを振った。こんなところに突っ立っていても仕方がない。見上げれば黒くぼやけた木組みの陰影が晴天に抉り込むような角度で聳えており、焼けたのはもう数百年の昔であるにもかかわらず、どこか背筋を冷やす存在感を絶えずミナキに注いでいた。ああ、初めて見た時となにも変わらない。かすかに戦慄いた唇に気づかない振りをして頤を下げれば、それまでミナキの影の中に潜んでいたゴースが姿を現した。つり上がった大きな瞳が、どうするのかと視線で促してくる。心象に影を落とした記憶を嘲笑うようなゴーストタイプ特有の表情に肩を竦めると、そうだな、と微笑んで見せてからミナキは重々しい空気を振り払うようにマントを翻した。一歩足を踏み出してしまえば、焦げ臭さなど嘘のように霧散した。

「とりあえず、ジムへ行くことにするよ」













果たして、エンジュジムで対面した人物の顔をまじまじと見詰めたミナキは言葉を失っていた。外の看板にあった名前は確かに馴染みのある老人のものであったはずなのに、と内心で呟く。ヘアバンドから覗く眠たそうな眼差しと、やあひさしぶり、とやや抑揚少なに放たれた穏やかな声色。まだ少年の域を脱しないかんばせ。
「もうすぐこのジムを継ぐんだ、今は留守番をしているだけだけどね」
どこか気恥ずかしげに笑ったさまに、いくつかの記憶が押し寄せる。ミナキが初めてエンジュを訪れた際、たしかジムリーダーの弟子として紹介を受けていたマツバという子供が居た。そうだ、彼じゃないか。彼がこのジムを継ぐ、その事実を黙って頭の中で反芻させたミナキは、どこかで色の無い絶望と高揚感をおぼえていた。
「なんだい、おかしな顔をして」
「あ、ああ……少し驚いてね」
「ふふ。師匠なら歌舞練場に居るよ」
はたと目を見張る。こちらの思考を先読みしたような物言いには既視感があったのだが、その正体にはすぐに気がついた。たった今マツバの口から出たエンジュジムリーダー、マツバの師匠、あの底の見えない老人の口調はいつだってこのように数歩先を歩んでいるようで、幼いながらに不思議であったことを思い出す。エンジュのリーダーは厳しい修行を経なければ就任することは出来ぬと聞いたことがあるが、彼もまた先代と同じ道を進んで来たのだろう。ただお互いに手を引かれて紹介されたばかりの幼少時とは、もう何もかもが変わってしまっているのだと実感した。
ミナキが黙り込んでしまったために訝しんだマツバは、どうかした、と首を傾げてミナキとの距離を詰めた。間近で見るとその瞳はどうやら紫色をしていて、彼の纏う空気にひどくよく似合っているとミナキは静かに息をつく。いいやすまない、何でもないんだ。記憶の海に沈んでいた己を気恥ずかしく思いにこりとほほ笑みを浮かべれば、マツバは怪訝なそれから意外だというような面持ちに変えていくつか瞬きを繰り返した。ミナキ君、といくらか見開かれた双眸のままじっと捉えてくる白い顔。今度はミナキが首を傾げて先を促すと、マツバははっと何かを悔やむように口を噤んで再び目を細めてしまった。
「いや……なんでもないんだ、それより師匠に用があるんだろう?」
また後でゆっくり話でもしよう、マツバはすっかり次期ジムリーダーとしての仕草を取り戻すとゆるやかに告げて、未だにその切り替わりに着いてゆけないミナキの肩を軽く叩いた。ああ、とやや戸惑いながらも本意を思い出したミナキは踵を返し、薄暗いジムを後にする。では後でまた来るよと振り向きざまに短く言い置くと、白いマントはガラス戸のあちら側に霞んでしまった。
マツバはしばらく無言のままそこに立ち尽くし、俯き気味に視線ばかりをミナキの後ろ姿が消えたあたりに固定していた。傍から見れば睨みつけているようにも取れる、鋭い眼差しである。しかしてその内心では、いつか幼い時分に顔を合わせた子供の姿がいささか輪郭を欠いてちらついているのみであった。


ミナキが初めてエンジュに姿を見せたのは、もう数年前のことになる。
祖父に手を引かれ、まるで外国の人形のように表情の乏しい子供であった彼は、物心ついた頃からとにかく愛想笑いを教え込まれた自分にとってはどこか異質であり、また興味を引く存在でもあった。もっとも挨拶とも呼べない挨拶を交わしたきり会話らしいものも交わさなかったため、ミナキのほうはさしてマツバに関心を抱かなかったようであったのだが。まだ十になったばかりであった彼の関心は、もっぱらこの街に伝わる伝説のみに注がれていた。それ以外のものなど完全にシャットアウトしてしまったとでも言いたげな、社交辞令として大人たちを見上げるガラス玉のような瞳が忘れられなかった。その透明度のゆき過ぎた眼差しはマツバに向かう時も動揺で、そういえば最後まで彼は僕の名前を呼ばなかったのではないか、とマツバはいやな記憶まで引きずり出してしまった。

『きみも、修行頑張ってくれ』

多忙であるらしい彼の祖父に連れられて、あっという間に彼らはエンジュを後にしてしまった。当然のように浮かんだマツバの頬笑みに対して、ミナキはただ口元をふっと上げるだけの簡単な笑顔を見せたのみだった。
思えばあれが、自分に見せた唯一の彼の笑顔だったのかもしれない。マツバは記憶をつい今しがたまで早送りしてそう述懐すると、随分と大人びてしまったミナキの歪みない笑顔を脳裏に浮かべて奥歯を噛んだ。愛想笑いなんて、覚えなくてもよかったのに。小さく、ほんの小さく呟いた低い彼の憤りは誰にも聞きとめられることなく、冷たいエントランスに沈んでいった。自身の深層で渦巻いている熱をもった感情の正体になど、まだ露ほども気づいてはいなかった。





















「そうか、あいつも逝ったか」
「ええ……安らかな最期でした」
「それは何より、して……何か言うておったか?」

「――心残り、だと」

しゃんしゃんと軽やかな鈴の音と共に派手やかな舞妓たちが舞台で袖を翻す、その客席の隅で交わす会話にしてはひどく湿っぽいと思いながらも、ミナキは顔を曇らせて言葉を継いだ。遠くない未来に先代と呼ばれることになるであろう老練のジムリーダーは、祖父に紹介された頃とひとつも変わらないようにミナキには見えた。顔に刻まれた皺は幾分か増えたようにも思えるが、生憎とそこまで覚えてはいない。立場が変化したためにかつて感じていた得体の知れなさは影を潜めているような気がしたものの、旧知であったミナキの祖父の訃報にもさしたる驚きを見せずにただひっそりとした悲しみを覗かせた彼は、やはりどこか違う世界を見ているのだろう。こちらを見ているようで視線の合わない老人に、今でも近しさを覚えることは出来なかった。
ミナキの祖父は、ついぞ望みを果たすことなくこの世を去ってしまっていた。伝説に生涯を捧げた男として一方では称賛され、一方では侮蔑を受けてきた彼は、結局その死期に臨んでからも望みを絶やすことはなかった。否、病床において彼の望みは、そっくり孫に受け継がれたと言ってもよいだろう。一身に期待と願いを受けて、ミナキは再びのエンジュに足を運んだのであるから。
「祖父は本当は誰より自分の目で…見たかったのでしょう」
「エンテイ、ライコウ……スイクンか」
「はい、晩年は専ら、その三体についてばかり調べていました」
「……ミナキ、」
「はい?」
「ミナキ、ミナキか」
「………」
「重い名をもろうてしまったのう、お前さん」
ミナキ、水君…お前の美しい瞳は、北風にさぞ相応しかろう。
祖父は物心ついた頃からずっと、彼にその名の由来を語ってきた。両親を知らぬ彼には祖父が全てと言っても過言ではなく、ある者はその命名を呪縛だと呼んだが、ミナキ自身がそう感じたことは一度もなかった。お前は美しい水の化身から名を貰ったのだよと、どこか恍惚とした眼差しで頭を撫でた細い指をミナキは純粋に愛していた。そしていつかきっとお前とスイクンを見るのだと語る祖父の言葉が、純粋に嬉しかったのだ。
その宿願がついえた今、ミナキに残るのはただ己にのしかかる名の重みと、数え切れぬほどに肖像を指でなぞった美しい伝説のポケモンの姿しかなかった。だから、どうしても見つけ出さなければならなかった。そうでなければこの名を貰った意味がないのだと、祖父の死に目にあって痛切に感じていたのだ。

「いえ、誇りですよ。私の名前は」
「――そうかい」

有無を言わさぬ響きに、ただ彼はひとつ間を置いてから頷いた。目尻に刻まれた皺は何かを物語るかのようにゆっくりとその数を変えたが、じいと舞台を見つめる老成した眼差しからミナキが読み取れるものは、何もなかった。
「それに、彼も同じでしょう?」
「ふむ?」
「マツバくんですよ」
ミナキは底の見えぬ老人に苦笑めいた顔をして見せてから、わざと指を立てて告げた。それに当代の面差しは綻び、なんともいえない温かみが浮かぶ。やはりあいつの孫じゃね、と今にも頭を撫でてきそうな声色にいくらか頬を染めて、ミナキは舞妓達が踊る舞台へと目を向けた。
舞台に設えられた金屏風には、大きな松が描かれている。鳥が大きく翼を広げたような悠々とした深い緑。あれは鳳凰松と呼ばれている。マツバの名はあの松にあやかって付けられたものなのではないかと、ミナキは思ったのだ。ホウオウは桐にて羽を休めると古くからの言い伝えにはあるが、遥か海の向こうの国ではかつて、ホウオウは松の木に宿っていたのだという伝承も存在する。重い名だというならば自分などより彼のほうがよほどそうだ、と内証して目を細め、しかしミナキはゆっくりとかぶりを振った。誇りであると今しがた自らが告げたように、マツバもまた同じように感じているはずだ。確証などないのに、何故だかはっきりと分かった。
「そうだ、次期ジムリーダー、おめでとうございます」
「おや、おおきに。まだ未熟なところはあるが、あれでも一番弟子じゃよ」
「立派になられましたね、初めて会った時とはすっかり変わってしまって」
「なんじゃ、お前さんも覚えとったのか?」
「も、とは?」
「ほほ、あれはあの時からずっと、お前さんのことを気にかけておったよ」
次はいつ来るのかだとか、あの子はどうして伝説を追っているのかとか、ホウオウが戻ることと関係はあるのかとか。マツバはあの日以来そんなことを尋ねては随分とエンジュの伝説について意欲的になったのだと語る先代に、ミナキはただ呆けて目を見開いていた。あの、ふにゃりとした頬笑みのほかには何も持っていないような少年がよもや自分を気にかけていただなんて、俄かには信じられなかった。先程会ったときだってそんな素振りはどこにも見えなかったというのに。

「そう……ですか、嬉しいです」
「ん?」
「マツバくんがジムと継ぐと知って……私は、あなた方の夢をそのまま私達が継いだような気が、したんですよ」
「! ああ、そうじゃなあ……」

老いと共に少しずつ落ち窪んだ黒々とした瞳の奥が、きらりと黒曜石のような輝きを孕んだ。後悔と昂りを一緒くたに胸に秘めているらしい若者を目の当たりにして、にわかに在りし日の腐れ縁を思い起こす。物好きだなと笑う自分に、ついと眉を吊り上げて胸を張る翡翠の瞳をした男。あまりにまぶしいその光景に目がくらんで、思わず瞼を閉じればじわりと熱いものが滲んだ。いくら千里の先が見えようとも、本当に見たかったものはもう記憶の底にしかないのだ。そして記憶にすら刻めなかったものも、ある。本当はもっと、しがらみなくただの友人でありたかった。自分たちの時代では叶わなかった。積み重ねられてきた老練の淵にひそやかに仕舞われた、それは数少ない彼の心残りでもあったのだ。

「君に、かかっとるのかもしれん」
「え……?」
「ほほほ……さあ、頼もしい後継ぎさんよ、マツバのところへ行ってやっておくれ」

あの日から、マツバがミナキについて口にする折の眼差しはあたかもかつての自分を見るようで、密かに胸が締め付けられる想いがしていた。これはどうやら宿命なのだと悟り、叶わぬ願いは抱かないことだと何度告げようと思ったか知れない。互いに背負うものがあっては、しがらみなく付き合うことなど出来ないと。しかしそれは先達がするにはあまりに浅ましいことであったし、まったく望みがないわけではないと自身に言い聞かせて知らぬふりをしてきた。なにせまだ、この子たちは若いのだからと。その暗示は間違っていなかったのかもしれない。ここへきて己の願いが永遠に届かなかったことを胸に刻み、同時にひとつの希望が残ったことに年甲斐もなく当代の胸は弾んでいた。

「あれは、きっとお前さんを待っとるよ」

大きく瞬きを繰り返したのち、おそらくは純粋な喜びとともにその言葉を受け取ったミナキが破顔する。ああこの顔だ、と目を細めた。いつの日か、この澄んだ翡翠とあの子の深い紫が交わる日が来たのなら、そこで私の想いは報われよう。
翻るマントを視界の端に見送る老人のまなこには、空を掛ける虹色でも海を舞う銀色でもなく、ただふたつ並ぶ青年の影が静かに、佇んでいるばかりであった。