忍びの卵たるもの、足音を聞いただけで目方が分からなくてどうする!
 かの会計委員長が日夜豪語しているあの言葉を思い出しながら、孫兵は廊下を進んでいた歩を緩めた。首に巻きついていたじゅんこが頭をもたげ、主と同じ方角へと意識を向ける。
 どどどどど、
 次第に近づいてくるらしいその足音は忍び足もへったくれもなく辺りに響き渡っているのだったが、行き交う生徒たちはこれといった驚きも表さずにめいめいの目的地へと歩いてゆく。何らかの叫び声をあげながら爆走するというのはもはや彼の代名詞と言っても差支えなかったので、動揺するだけ無駄であると皆が心得ているのであった。
 孫兵はまだ足音で持ち主の重さを言い当てるという芸当を習得してはいなかったが、なにかおかしいな、と違和感をおぼえることは出来た。じゅんことの甘いひとときを中断して足音へ意識をやったのもそのためである。高すぎず低すぎない声はどうやら自らの長屋を目指しているらしかったけれども、間違いなく今度も迷っているのであろうことは明確だった。もっとも本人にその自覚はない。このまま放っておいたら自分の後味が悪くなるかもしれないと容易に予想できてしまった孫兵は、吊りがちな目を何かを追うように動かしてから小さく息をついた。あいつは成長しないねえ、呆れがちな笑みを浮かべて愛蛇を撫でてやる。そうしてからしっかりと首に巻きつけると、足音の先回りをするべく小走りに駆けだした。こちらは殆ど音を立てずに、滑るような動きで。

「左門」
「どわーっ!」
 角を曲がったところで不意に耳に入った声に素っ頓狂な叫びをあげた左門だったが、どこにもぶつかることなく停止したのは流石といったところだろうか。
孫兵は念のため受け止める用意をしていた腕を下ろし、体勢を整えている左門に目を向けた。するとその髪から着物まで、たっぷりと水を吸い込んでまるで濡れた子犬のようである。うわ、と思わず目を見開けば、いきなりどうした孫兵!と童顔がこちらを向く。
「それはこっちが訊きたいよ、どこから来たんだお前」
 ぺったりと額に張り付いた前髪をのけてやりながら尋ねる。くすぐったそうにぶんぶん首を降るさまも小さな動物のようだったが、長い後髪から水が飛ぶので頭を押さえて窘めた。これじゃあ左門が走ってきた廊下は道しるべのように濡れているかもしれない、想像するだに苦い顔になってしまう。
「会計委員会の鍛錬で、学園の周りを走っていたんだ」
「それで夕立に降られたのか」
「ああ、だから今日は解散になった」
 雨くらいで解散になるとは運がよかった、と呑気に笑う左門に、孫兵はまた呆れて肩を落として見せた。今に始まったことではないが、会計委員会や体育委員会は価値観がものすごくずれている。おおじゅんこ元気か、と笑うさまに首元の彼女も呆れたような音を出したが、左門には伝わるはずもない。
どちらかというと機嫌が良さそうな左門にとやかく言う気も失せたので、孫兵は自らの頭巾を解くと左門に被せた。そのままぐしゃぐしゃ頭を拭いて、顔を拭って、肩に手ぬぐいのように掛けてやる。左門自身の頭巾はとっくに同じような用途に使われたようで既に肩に掛かっていたから、これは持ってろよといって手に握らせる。おう、と左門はただ素直に頷いてそれを受け取った。
「あと左門、足を怪我してないか」
「んん?なんで分かったんだ」
「やっぱり…どこ?」
「左の足首をちょっと捻った」
「じゃあまず医務室へ行かないと」
 なにか面白くない気分が募ってきていることを、孫兵は自覚していた。足音を聞いただけで左門が怪我をしているかもしれないと気がついたときにも少しもやついた内心が、また曇天のような、ちょうど今みたいな色をしている。これくらい別に平気だがなあ、と呑気な声をあげる左門のいやに目立つ白い歯から目を逸らして、いいから行くぞ、と手を握った。いつもは高めの体温が、雨によって冷やされている。
「おい孫兵、医務室はあっちだぞ!」
「あーもう…こっちだよ!いいからおいで」
 ぐいと引く、すると軸がずれてふらついた左門がぶつかるようにして隣に並ぶ。足早に進みながら視線だけを向けると、丸い相貌とかちあってぎくりとした。今しがたの物言いといい、このかんじは僕らしくはない、と孫兵は口をむずりと気取られないように動かして、再び前へと向き直った。他に忍たまの影がないことが、ひどく幸いだったように思えた。

「なあーまごへー」
「ん?」
「怒っているのか」
 思わず足が止まる。少なからず驚いて首を回せば、相変わらず眉をつり上げたいつもの左門がじっと顔を見つめてくるので孫兵はたじろいだ。こう言う時に思うのは、左門というのは分かりやすいようでいて表情が読めないということだ。まだ虫や蛇や蛙のほうが、ずっと分かりやすい。
「…怒ってないよ」
「そうか?」
「どうしてそう思うんだ」
「お前が放してくれないときは、何か怒ったときだろう」
 握った手に力が籠る。一寸解いてしまおうかとも考えたが、左門のほうからも強く握られていたのでそれは成らなかった。「べつにぼくは放したいわけじゃない、」真顔に近い面立ちで言われて、どうしてだか気持ちが落ち着く。しかしまだどこかしらでざわついているのも確かだったから、視線を外し、一旦唇を引き結んでから左門を引き寄せた。丸い頭に額をくっつけるようにする。湿った感触が伝わってきて、まごへいどうした、と呼んでくる声も肌に直接響くように感ぜられた。
「怒ってなくても、放したくないときはあるんだよ」
「…ふうん、」
「左門はいやか」
 こういう時に顔を見られないのは、左門だからだなと内証する。虫や動物たちだったら、そんな気がかりが生まれたりはしないのだ。喧嘩をすることはあっても、こちらの気持ちを、愛情を、わけもなしに拒絶されるなんてことはまずないから。しかし左門はそうはいかない。人間である以上、こういった独占欲じみた感情をわけもなしに嫌がることは不思議ではない。いくら左門でも、浅からぬ仲の左門であってもだ。
「いやじゃないぞ」
「………、」
「怒ってないならいいんだ!孫兵はいつもぼくの知らない間に怒るからなー、どうしてだかわからんと困るんだ」
「…やっぱり、ちょっと怒ってる」
「うえっ!?」
 後ずさろうとした左門を押さえて、少しだけ、互いの目が見えるくらいの間隔だけ空けると、左門のぎくりぎくりと音がしそうな面白い表情が見えた。ああこれは分かりやすいなあ、と孫兵は思わず苦笑する。
「お前が怪我をすれば僕は怒るよ」
 覚えておいてくれ、
 こどもに言い聞かすのに似た、あるいは日頃愛しい虫や蛇や蛙たちに囁くのに似た声音でゆっくり告げる。左門は怪訝そうなぐあいに大きく瞬きをしたものの、やがて言葉のとおりに飲み込んだらしく、そうかと男らしく頷いた。我ながら珍しい、と思いながら、可笑しい気分になって孫兵は再び左門のつややかな髪に鼻先を寄せると声に出して笑った。
 黒よりも色素の薄い、水を含んだしっとりとした髪に口づけて、雨をひとしずく吸う。早くしないと風邪をひくねと言えば、それは孫兵が怒るから困るな、と大真面目に頷いて左門は駆けだした。お約束のように見当違いの直感であったので、孫兵は繋いだ手を強く引いた。その眼差しにはためらいの代わりに、いつにない熱が籠っている。





(孫さもテキストアンソロジー様に寄稿させていただいたお話でした。アンソロジーが完売となったようですので再録させていただきました)