手を引く少年のほっそりとしなやかな指は淡く光を帯びているようで、自分のものとは天と地ほどの差があるというのに、何故だかとても安心感をもたらす。深谷を抜け、樹海を抜け、どこをどうやって進んできたのか定かでないうちにこの少年に導かれるままイーノックは太陽降りそそぐ平野まで辿りつき、それでもまだこんなことを考えている自らを叱咤して、しかしやはりどこかぼんやりと少年を見つめていた。
体が弱っているところへきて地理感覚をまるきり狂わせる深い谷へと迷い込み、勿論人影などはなく、生き物の姿すらなく、太陽の光も殆ど注がず、歩く力さえも失いかけて膝をついたときだった。質素な衣服を纏ったこの少年が、どこからともなく現れてイーノックの手を引いたのだ。さあ、ついておいで。ひどく優しく包みこむような声音に、もう進めないと思っていた足はひとりでに動いていた。それからどれくらい歩いたのか、どうやって谷を抜けたのか、ひとつも分からないままだ。気がつけば青々とした草原を、少年に手を引かれながらゆっくりと歩いている。そよぐ風はあたたかくやわらかく、飛び交う小鳥は楽しげで、遠くを農夫の馬車が通るさままでもが窺える。
「ここで交代だね」
「え?」
ばさり、視界を一面覆い尽くした白に目を瞬かせると、もう少年の姿はどこにもおらず、ただ上空を優雅に舞う白鳥が高い声で鳴いていた。仰ぎ見て薄く口を開いたまま、嗚呼、と吐息をもらしてイーノックは碧いまなこを大きくゆらめかせる。あなただったのですね。呟けば応えるようにまた長く鳴いてから、くるり大きく弧を描き、そうして白鳥はどこかへと飛んでいってしまった。かれが残していったのか、ゆるやかな風が頬を撫でてゆく。
「此処からは私が案内しよう」
突然聞こえた低い声にはたとすると、いつの間にか大柄の男が立っていた。やはり粗末な身形をしていたが、精悍な顔つきと鍛え上げられた体からは常人ならぬ雰囲気を感じる。イーノックにも今度は分かった。ウリエル、自然と身を低くして旧師の名を口にすると、はははと豪快に笑って男はイーノックの肩を叩いた。
「次の町までは私が共に行くぞ、今のお前は弱っているからな」
「ありがとうございます……私が不甲斐ないばかりに」
「いや、あいつがお前のサポートに徹していないのが問題なのだ」
以前にもヒトの体を借りたことのある彼は、慣れた様子で腕を組み、自らの言葉を噛みしめるかのように深く頷いている。あいつ、という部分に逡巡を含んで俯いたイーノックであったが、しかし否定するためにいいえとはっきり告げた。ウリエルの力強い眼差しがイーノックに注がれる。これは盗賊の時とは事情が違うのだぞ、憤りめいたものを込めてそう語ろうとし、だがどうやらこの人の子はそんなことは分かっているのだと沈んだ横顔から窺って口を閉ざした。迷いを知ることのない天使にとって、イーノックの心というのは時に手が届かないところまで飛んでいってしまう。
「彼の言葉に、私は甘えすぎていたのでしょう」
老いて死んでいったかつての友の墓前で、ルシフェルはイーノックに告げた。私はいつまでもお前の傍に居るよと。この旅が続く限りはいつまでもと。それは彼にとってただ事実を話して聞かせたに過ぎなかったけれども、地上のあらゆるものから隔絶された生を宿して進むことを使命とされたイーノックにとって、大天使の言葉はひどく優しく、尊く、胸の深くまで注ぎ込む温水のように感ぜられた。あのとき私は縋るような目をしてしまったのだろうと、イーノックは今になって考える。それに対してルシフェルがなにか鼻白むような目つきをしていたことも、改めて思い起こせば蘇ってくるのだ。あのときから、彼はあまり姿を見せなくなってしまった。それまでもヒトからすれば大変に長いスパンでしか顔など出さなかったが、あそこまで過酷な状態に陥っても手を伸ばさず、アークエンジェルに助けさせているというのはやはり、彼の中で何か考えるところがあったのだろう。
「考えすぎだイーノック。ルシフェルは多忙なだけだ」
「――そうでしょうか」
「ああ、私からもしっかり言っておいてやる」
抑え込むようにして頭を撫でてくるウリエルに、幾分か気を晴らしたようにイーノックは微笑んだ。顔を上げ、前方を見やると草原の先に小さな町が見える。久しぶりに踏み入れる、ヒトの町だ。

「……」

他の誰かと触れあうこと、寄り添いあうことを、もうずいぶんと長い間していないように思う。例えこうしてどこかの町で休息を取っても、今や心の休まる場所などありはしなかった。それでも地上を救うために、自分は進まねばならないのだ。そういったある種の切なさやジレンマが募る時、決まってイーノックはルシフェルのことを思い出す。あの日私があなたに望んでしまったことは、およそヒトが天使に願えるようなことではなく、ひどくおこがましく、あなたを辟易させるようなものでしかなかったのだろうと、胸が締め付けられる思いがした。