浅い呼吸によって不規則に上下する胸、かたちの良い唇から吐き出される少し濁った息、苦しげに歪められた眉と、虚空を見上げる深紅の瞳。白い部屋の白いベッドに横たわってそんな様相を晒すルシフェルの姿を前にしては、執務もなにもできるわけがなかった。 エルダーの会議室から戻った途端に目に入った本来ありえないはずの光景にぎょっと目を見開いたイーノックは、それでも持ち前の気質のために考えるよりもまず体が動き、自分のベッドでなぜか苦しげに呻いているルシフェルの顔を覗きこんだ。どうしたんだ、苦しいのか。恐る恐る声を掛ければいかにも熱っぽい吐息をこぼしながら、それまで閉じていた瞼が開く。熱に浮かされている時のような、濡れて、しかしどことなく純度の低い赤い虹彩が、すこし宙をうろついたのちにイーノックを捉える。ああこれはなにか大変なことが起こったに違いない、イーノックは視線を交わらせながらそんな焦燥に駆られ、思わずルシフェルの額に触れた。するとなんと触れるではないか。汗ばんで、熱をもったすべらかな肌の感触が確かにする。イーノック、と掠れがちに呼んだ声はどこか儚げで優しく、かすかに持ち上がっている口端はひどく不安を煽った。 「ル、ルシフェル……今誰か呼んで、」 「いや、いいんだ、お前がここに居てくれれば」 「そんな! ああ、どうしたら」 縋るような目で見られてしまい、うろたえている間に熱い手がイーノックの手首を掴んでいた。ぎくりとする。ルシフェルはこう言っているが、このままにしておいたら大変なことになるかもしれない、天使が病に侵されるなんて聞いたこともないけれども、だけどもし悪化してルシフェルがどうにかなってしまったら! 「っう……ッ」 「…おいおい、なにも泣くことはないだろう」 「しかし、ルシフェルッ……貴方が」 「あーほら、見ろ」 「……!」 むく、と何事もなかったかのように起きあがったルシフェルは涙を流すイーノックの顔を覗きこみ、呆れた様子で笑った。展開についてゆけずにぽかんとしている彼の前で、ルシフェルはもうすっかり苦しげな仕草など捨て去って涼しげな足さばきでベッドから降り立つ。先程までの苦しみようは見せかけだったのだと、ようやくイーノックにも理解ができた。 「ルシフェル!」 「おっと、怒るなよ……カゼとやらをひいた人間を真似てみたんだが、なかなか上手くいっていただろう?」 「あなたというひとはっ……こういうことはやめてくれ、」 「うーん、それにしてもお前が泣くということは、恐怖を感じたのか?それとも感覚を共有したか。あるいは過去の記憶でも蘇ったのか?」 「し、知らない、私にもよくわからない」 わざと体をすり抜けながら至極興味深そうに問いかけてくるルシフェルを軽く睨み、イーノックはごしごしと乱雑に涙をぬぐった。そんなことをしなくても、認識すれば涙は消えるぞ。笑って指摘してくるルシフェルに、今度はなにも答えない。いくらヒトに似た姿をしていても、このひとは自分とはかけ離れた大天使なのだ、こんないたずらで気持ちを乱すようなことは意味がないのだ。ゆっくりを息を吐き、そう自らに言い聞かせるイーノック。本気で心配してしまったのが恥ずかしくなり、苛立ちよりもそちらのほうが大きくてくしゃりと顔をしかめる。 「そんなに心外だったか? すまないな、私にはよく分からないが」 また水が滲んできそうな下瞼をおもしろげに親指の腹でなぞり、ルシフェルはあやすように、というよりは誤魔化すようにイーノックの額に口づけた。この胸のうちに湧く気持ちなど、あなたにはひとつも理解などできないのだろうな。イーノックは思念だけでそう伝えてから、先刻と同じようにルシフェルの額に触れてみた。熱がある、という認識はもはやどこにもないため、常温と混じり合った掴みどころのない感触だけがある。 私を苦しくさせないでほしい、 呟いたイーノックに、些か目を見開いてからなにかを考えて、それからルシフェルはもう一度すまないねと笑った。 |