「おまえは、闇から生まれたのだったな」

明けやらぬ朝の澄んだ空気に包まれて呟かれた声に、ルシフェルはその持ち主を見やった。今夜は野宿であった。包まっていた布から顔を出し、木の根元から生えるように座ったまま動かないイーノックの碧い双眸からは、ぼたぼたと玉のような涙がこぼれ続けている。その眼差しの先、星影が薄らぎ、闇から紺へとだんだん色を変えつつある空は堕天使たちの帳によってオパールのごとくゆらめいて、時折り淡く輝いている。しかしそんな光など塗り潰さんばかりに、今日という日の太陽がすでに地平から姿を現し始めていた。
嗚咽も漏らさず泣いているイーノックから視線を外し、ルシフェルは白々と光に照らされてゆく世界を、石炭に宿る炎のようなまなこと乏しい表情で眺めてみた。笑みはない。なにを泣いているのかと、珍しくその真意がうまく読めずに投げかけた問いに相手が答えないので、あるいは答えられないので、それなのに質問だけは寄越してくるので、仕返しとばかりにこちらも答えないまま、ひとつも面白くなどないがこうやって同じものを眺めているのだった。そも、答えずともあちらの問いははじめから答えが知れている。闇から生まれた大天使ルシフェル。それは天界において理にひとしい。なぜこのときにそんな質問をするのか、それだけがルシフェルにはわからない。
「光がなぜ美しいのか、考えていた」
「光?」
「闇があるから、光は美しいのだ……ルシフェル」
夜が明けるごとに、生まれ変わる心地がする。百年以上もこうして旅を続けてきて、朝なんて見飽きてしまったと思っていたのに、それでもこんなに美しい。涙が止まらないほど、地上の朝とは美しい。
止まらぬ涙を拭いもせずに、ただ幼子のように上向いてふやけた笑みを湛えた男の、その屈強な肉体とは似ても似つかないゆるやかなアストラル体の輪郭を垣間見て、ルシフェルは見つめあったまま口を噤んだ。蜂蜜色のいくらか癖のある髪が、朝日を吸い込んでまるで息衝いているようにほろほろと光っている。ああきっと夜中に魘されていたから、何か良くない夢でも見たんだろう。それでジョウチョがおかしくなっているのだろう、と体感できるべくもない知識を引き出してそう判断を下し、ルシフェルは肩をすくめた。いつものように微笑してやれば、安心したように彼も一度洟をすすって、イーノックはまた笑った。
「お前もあらゆるヒトのように、朝を呪ったことがあったのか」
「違う、神が創られた朝と夜は恵みだ……ただ、ただどんなことがあろうとこの朝は守らなければいけないと、思った」
包まっていた布をずるずると剥がし、もう発たなければいけないな、と自らを諭すように呟くイーノックの体には、目新しい傷が色濃く残っている。急がなくてもいいさ、時間はいくらでもあるからな。お決まりの台詞を口にすればただ微笑んでイーノックは頷いた。その拍子にまた、涙がぼろりと地に落ちた。のろのろ立ち上がろうとする仕草に合わせ、蜂蜜色の髪がやわらかげに揺れる。

ぱちん、

眩しい朝陽を浴びながら、ルシフェルは黙って指を鳴らす。世界はすべてそのままに、イーノックの体だけが眠っていた状態まで巻き戻るとドサッと崩れるようにして、その体躯はふたたび木の根元に横たわった。しばしその様子を見下ろしてから歩み寄り、無造作に布を掛けてやりながらルシフェルは意味合いのわからぬ笑みを浮かべた。彼の時はひどくゆるやかに過ぎ、太陽が空を一周してしまうまで、おそらく目を覚ますことはないだろう。そういうふうに、ルシフェルは時を操った。次に身を起こす朝、こいつが闇の話などしないように、深い眠りが続くようにと念じつつ。

「イ―ノック。地上で見る夢は、お前にとって幸せか?」

身じろいだヒトの子の眦から、最後の涙が流れて消えた。夢を見ない天使には、朝を称えぬ創造物には、涙の味もわからない。