黒々とした剥き出しの木々の合間を埋める白色は、つい数日前までは確かに足下にあった様々な鈍い色、落ち葉であったり、枯れかけの草花であったりというものを跡形なく覆い隠し、ずっしりとした曲線をもって見渡す限り輝いていた。雪空には帳からもたらされる淡いゆらめきが常に美しくあったが、それら目にまぶしい色の中にあって、沈みこむような陰影のなんと頼りないことだろう。今にもばらけてしまいそうな列を成して、おぼつかない足取りで、吹きつける風雪にぼろぼろのマントを煽られながら進む旅人らしき一行を大木の影から窺い、同じく旅のさなかにある彼は胸が締め付けられる思いがしていた。しかしそんな感慨に知らず知らず面差しを険しくしている彼、イーノックもまた、外套からはみ出した髪を冷たい風に踊らされ、鼻先は赤く染まりじんじんと痛んでいる。鎧によって守られ、肉体の時を止められていようとも、体感までなくなることはない。急激に深みを増したこの冬季もまた神の思し召しと理解しながら、それでも頼りない足取りを目にすればどうしても眉根は寄ってしまう。そこでは思考は影を潜め、ただ感覚だけが有無を言わさず走り回っているようである。

「気になるなら、声でも掛けてやったらどうだ?」

ひどく至近なところで聞こえた気がしてぎょっと身構えると、いつ現れたのかはいざ知らず、案外にまともな距離を保って黒い大天使が立っていた。彼を視界に捉え、イーノックはその細身のシルエットを意外な気持ちで見つめた。ルシフェル、そう呼ぼうと口を開くより先にこちらの名を呼ばれ、そういえば本来の名で呼ばれるのはずいぶんと久しいことに気がついて、何故かたじろいでしまう。長いこと人々との深い交流を絶ってきたのだと実感した。同時に、ともしびのような安堵も感じた。
ルシフェルは不思議な形状の骨組みに透明な膜のようなものを張ったものを手にしており、時折りその柄の部分をくるくると回している。それが機能上の役割に繋がっているのかは、定かではない。ドーム状になっている上部は雪から彼を守っているようで、漆黒の髪も衣も白に汚れることなく、いつも通りの深々とした色をしている。肌の色もやはり常のごとく白いため、この森においてはあたかも黒色だけが浮かんでいるような倒錯感が漂っている。ヒトを模して瞬きをする深紅だけがいやに異質であって、それが今はイーノックに彼の存在を縫いつけているようでもあった。
まじまじと視線を送っていたイーノックにどこかおどけるような目を向けてから、ほらいいのか、と指差しながら旅人を顎で示す。見ればちょうど小さなマントがバランスを崩し、雪の中に沈むところだった。まだ少年あるいは少女なのだろう。気づいた大人がすぐに駆け寄って、また彼らはか細い糸で繋がるようにして、吹雪の中を歩きはじめる。イーノックは無意識に半歩踏み出していた足をずるずると引き戻し、はあ、と安堵を不安を綯い交ぜにした息を吐いた。白く染まった息はほんの数秒ルシフェルの姿を遮断したが、すぐに風に吹かれて視界はクリアになる。

「駄目だ、私と居たら彼らに迷惑がかかってしまう」
「このまま放っておいたら、あの人間どもはのたれ死ぬかもしれないぞ」
「……ルシフェル、お前は」
「ああすまない。お前があまりに煮え切らない顔をしていたからな」

鷹揚な声と手つきで腕を軽く広げると、ルシフェルは雪など本当は其処にないのだとでも言いたげな足取りで歩み寄り、色を沈ませているイーノックの双眸を覗きこんだ。第一あいつらはお前が元来た道を戻っているようだしな、いずれにせよ旅を遅らせることにしかならない。低くよく通る声は淡々と、それでいて由縁のよく分からない微笑を湛えたままそう告げて片眉を上げた。びょう、と風がひときわ強く吹く。
あなたは彼らの未来を知っているのか、と紡ごうとして遮られた問いかけは、しかし一度飲み込んでしまえば改めて訊けるたぐいのものではなかった。この掴みどころのない大天使は、こと未来について自分に教えてくれたためしは殆どなかったと記憶を手繰る。うっかり時間軸を忘れてなにか理解しがたい言葉を口にすることはあっても、こういうときには教えてくれないのだ。心を透かすような赤い眼差しに息を飲みながら、イーノックもまた青い瞳で見つめ返す。頷くことはしなかった。彼の言うことは正しくとも、ここで頷くのは自らの内にあるなにかが咎めた。しかして沈黙は肯定、ルシフェルはやれやれと慣れた仕草で肩をすくめ、持っているモノの柄を回しつつ、またいつの間にやら初めの距離に納まっていた。
そうしてふとイーノックは気付く。彼が近くに居るあいだ、風雪がふきかかってこなかったことに。どうやらあの未知の道具によって束の間守られていたようだと悟って、不思議な心地になりながら自身もまた目を逸らした。外套の裾がばさばさとはためく。風が強くなってきたぞ、上空を仰いだルシフェルが緊張感なく呟いたのと同時に、イーノックは進むべき道へと歩を踏み出した。雑木林程度の森を抜けると、辺りは一面の銀世界となった。

「お前のその未来の知恵を授けたら、彼らはあんなに苦しまずに済むのだろうか」
「無意味な質問だな……それにそんなことをしたら、堕天使と同罪になってしまうだろ」
「……すまない、」

意せずして失礼なことを口にしてしまったと頭を垂れたイーノックを、ルシフェルは面白そうに眺めた。ざくざくと重い雪を踏みしめる音は一人分しかしないものの、こうして共に歩くような素振りをするのは、この大天使にとっては稀なことであった。彼と居るとどうしても悩みが増えるように感じる、イーノックはそっと内心で呟きつつ、もう消えてくれても構わないという視線を向けた。なにより彼の姿は、ひどく寒々しい。だが改めてまなこに映してみると、もしかせずともこの雪原のせいなのだろう、彼の姿はひどく存在感があるように見えた。淡色に満ちた天界で目にするよりも、なお鮮やかなコントラストをもたらしている。

「どうした、イーノック」

私が居ては邪魔か、といかにも彼らしい口振りで笑みかけてくるルシフェルにはっとして、困惑を込めて俯いて見せながらゆるくかぶりを振った。神の意志であるのか、あるいは彼の気紛れなのかは分からないが、彼がこうして目に見えるかたちで共に居てくれるのは、今の自分にとって幸いなことなのかもしれない。あの旅人達はもう見えなくなってしまっただろうかと、ふと振り向いてみれば進んできた足跡も風と雪によって均されて、視界はどこまでも真っ白になっていた。一寸目が眩む。僅かにぞっとした。今度は歩みを止めないまま、私と居ればホワイトアウトはしないだろう、と気ままな調子で笑ったルシフェルに、やはり彼は何でも分かっているのだと確信して、イーノックは雪焼けしそうな目を深く瞑った。びょうびょうと風が鳴る。なにものよりも不確かなはずの彼が、この雪原では唯一のように思われる。