おれはつるぎに泣いてほしくないんだ、 舌足らずに勝手にそんなことを喋って俯いてしまった松風の奇妙にカールした髪をひたすら見つめることしかできない俺は、きっと色んなものが欠落しているのだろうと思う。車道を通り抜けていく車が、水たまりの泥水を跳ね飛ばす。ばしゃばしゃと耳障りな音がする。歩道側を歩いている松風に泥水がかかっていなければいいが、と思って目を動かそうとしたものの、少しでも意識を移してしまうと傘の位置がずれて、それこそ濡らしてしまいそうなので出来なかった。 傘を忘れたといって眉を下げつつ笑った松風がちょうど昇降口にひとりで立っていなければ、入っていくか、なんてことは言うわけもなかった。誰でもいいからこいつの傍に居れば、間違いなく俺はひとつの気がかりもなく自分の黒い傘を開いて学校をあとにしていたはずだった。だけど松風はひとりだった。べつに入れてほしいだとか困ったとか言ってきたわけではないし、放っておけばそのままためらいなく雨の中に走り出ていってしまっただろうし、それで風邪をひくほどやわだとも思わなかった。しかし気づいたら入っていくかと言っていて、松風がびっくりしながら嬉しそうに笑って、それからはたとして、帰りに兄さんの病院に寄ることを告げたのだ。我ながら順番がおかしいと喉の奥が苦くなったのに、松風はなんの戸惑いもなさそうに頷いた。 (あの笑顔はどこへいった、) ざんざん振り続ける雨はやむ気配もなく、路面はあとからあとから濡れて低いところへ水が溜まっていく。傘の柄を握りしめながら、松風の全体的に丸い頭を睨みつけている。俯いた横顔からは表情が窺えずに、もどかしい苛立ちが腹のなかに溜まっていく。 今日はあまり兄さんの調子がよくなくて、俺たちは早くに帰ることにした。こういうことは時たまあることだったから、兄さんも俺も、じゃあまた今度といって別れた。天馬くんには悪いことをしたね、と兄さんは済まなそうに笑っていたものの、松風はいつものようにそんなことないです!とやっぱり笑っていた。笑っていたはずなのに、いつの間にかこうなっていたから、困るのだ。もしかしたら俺はどこかしら変な顔をしていたかもしれない。自分でも気づかないくらい微妙に、もちろん泣くようなことはないが、気落ちをしていたのかもしれない。だけどそれは、俺にさえわからないんだからもしもひとりだったなら、何事もなく過ぎていった気持ちのはずだ。そいつをわざわざ掬い取ってしまった松風に、俺はいらついている。 こういうとき、例えばキャプテンならばどうするのだろうか。あの人は俺とは対極に近いところに立っているように思うから、こういう状況でもうまい言葉を口に出来るのだろう。周りを気遣い、相手にとって最良な判断をする。俺には出来ない。こうして俯いている松風が泣いているのかどうか、膝を屈めて顔を覗きこむことすら出来ない。そういう、ガラではない。 「……おい、」 歩調を合わせているつもりでいるけれども、果して本当に合わせているのは自分なのか、そんなことさえ曖昧だ。兄さんの時にも思った。守っているつもりで守られていたり、置いていったつもりで置いていかれたりしている。本当のことはわからない。俺には欠落しているものが多すぎて、こういうときには途方に暮れる。兄さんや、松風や、キャプテンや、他の人達のように、必要なときに必要なだけ、優しさが出てきたならよかったと思う。俺の中の優しさはきっとまるごと兄さんのために使われて、他のところには行かないはずだった。だけど今のように、松風がいつもみたいに俺を見ないとき、俺からなにか手渡せるものがあればいいのにと思う。 「俺だって、お前に泣いてほしくない」 柄を握りしめる手が、おかしいくらいに白い。激しい雨音で聞こえたかどうか微妙だったが、湿気を吸った茶色い髪が揺れて、ブルーグレイの丸い瞳がゆっくり上向いたから、どうやら届いていたんだろう。そこに映る自分の顔がどんなものか気にかかったが、視線に耐えきれずに俺はわずかに前を向いた。 優しさは飛び火する。この鎖骨の辺りでちりちりとしている熱さは、きっとそういうことなのだろうと思う。松風から飛んできた優しさならば、俺はそれをどうにかして返さなければならない。つるぎ、と確かめるような声が俺を呼ぶので、黙って傘を松風に差しかける。肩がいくらか濡れる。今の俺にできるのはこの程度のようだが、頼むからこいつの家に着くまでに、こいつが笑ってくれればいいと思う。 |