この国では殆ど見ることのない緩やかに編まれた黒髪が、半歩先をゆく持ち主のふらふらとした歩幅に合わせて宙を泳いでいる。大抵そこらの欄干であるとか屋根であるとか、ただのヒトならばまず歩けないような所を重力など無視して跳び移っている彼がこんな風に人通りの多い回廊を歩くのは、少し珍しいことである。下女のひとりと偶々目が合うと、彼女はこちらの取り合わせを見るや否や驚いたように顔を引きつらせて低頭した。そこから端を発し、つやめく床面は瞬く間に宮仕えたちから彼のものへと変貌した。正しく言えば自分たちのものだろうが、彼と一緒でなければこのような光景は見られまい。主である彼女と歩を共にしている時でさえ、ここまでの謹みぶりは見られないのだ。忠義でもなく畏れでもなく、ただ距離をとりたがっている。興味に触れないように努めている。めいめいの仕事もあろうに、壁際に張り付いて彼が通り過ぎるまで決して顔を上げようとしない姿からは、それが滲み出ているようだった。
これだから嫌なんだよなァ。態とらしく身を反らして半歩後ろについている夏黄文に潜み声を投げながら、ジュダルはその役職からは連想しがたいラフな身形の裾をだぼつかせてへらへらと笑った。貴方がいつだったか気紛れに官人をからかったりしたから、こういうことになるのでありますよ。軍配で口元を隠しつつ切れ長のまなこを向けた夏黄文は、宮仕え達へのわずかな同情を抱きつつ息をついた。忙しなさげに行き交う宮仕え達は一様に恭しくこうべを垂れ、道を開け、そうやって巧妙に神官殿から顔を背けることにいつも余念がない。この少年の皮を被ったおそろしいマギにかかっては、例え本人が遊びのつもりであっても身分の低い者の一生を左右することなど容易い。
(…私も他人事ではないか)
ぺたぺたと裸足で無造作に歩くこの少年をこうして歩かせているのは、ほかならぬ夏黄文である。困ったことが起きまして。そう駄目元で告げたところ案外あっさりと諾を寄越したので、ややうろたえながらも頭を下げたのが寸刻前のことである。

『猫〜?』
『ええ……姫君が気に入ってしまわれたのです』
『ははッ、ババアに飼われちゃたまったもんじゃねえなあ』

けたけたと腹を抱えて笑うジュダルの細まった双眸は、それこそ猫のようだと密かに思った。「ともかく私ではいくら言っても駄目なのです、神官殿ならお止め出来るのではないかと」「んなことしなくてもよお、チチウエに告げ口しちまえばいいんじゃね」「それは…流石にお可哀想というものでありますよ」眉をひそめて夏黄文が告げれば、メガネもずいぶんあいつに甘えなあ、と肩を竦めてジュダルは身を起こした。いくらなんでも猫を飼いたがっているというだけで皇帝陛下に告げるなど、むしろ私の身が危うい、などと言っても彼には分かるまい。こういったずれと無邪気さが実に恐ろしがられる由縁である。メガネってなんです、返されるわけでもない問いを呟きながらそうして、ふたりは紅玉の部屋へと向かうことになったのだった。




「いやよぉ、私だって猫くらい飼えるわぁ」
「だめであります、飼うなら血筋のしっかりしたものを見繕いますと何度も、」
「この子がいいのよ、だってジュダルちゃんに似てるじゃなぁい」
「……おいババア」
「怒っちゃいやよぉジュダルちゃん、アナタ最近遊んでくれないんだものお」

駄々をこねる口調であるのに、紅玉の目はどことなく真剣味を帯びている。夏黄文はたじたじとして宥めすかしながら、思ったより面倒なことになってしまったと汗をにじませた。というかこの汗はジュダルの青筋のほうに原因があるのだが、この際もうどうだってよい。彼女の腕に抱かれている黒猫は確かに神官殿を思わせるけれども、そんなこと本人を前に言うものではありません!内心すぐさまそう叫びたかったが立場的に失敗し、ふたりのじわじわと張り詰めていく幼稚な睨み合いに、ただ諦めムードを醸し出すことしかできなくなっていた。

「……いいぜえ、遊んでやるよババア」
「あらぁ嬉しい、ヴィネアも喜ぶわぁ」
「お、お待ちください姫君!神官殿も、」
「夏黄文、この子をお願いねえ」

押しつけるようにして抱かされた黒猫が、緊張感などまるでなくにゃーごと鳴いた。窓からひょいっと出ていくジュダルと、足早に部屋を後にする紅玉の髪が似たようなやわらかさで揺れる。これがただの少年少女なら微笑ましくも見られよう。しかし彼らによってこれから繰り広げられるであろう遊びは、到底遊びなどと呼べるものではなく、後始末をする身からすると悲鳴をあげたくなる一瞬であった。ちょっと神官殿!思わず窓から身を乗り出して叫んだ夏黄文だったが、すでに魔力を放出させて爛々と瞳を輝かせているジュダルは見向きもしない。

「いくわよぉ、ジュダルちゃんっ」

簪を抜いた紅玉が、噴き出す高揚を目に見えるかたちにしてジュダルへとぶつけた。それに獰猛な笑いを浮かべつつ応えるジュダルの顔は、ひどく楽しそうに映った。光に塗り潰される視界に耐えきれず目を瞑ると、腕から猫がするりと逃げ出してどこかへ走り去っていってしまう。これだけ眩しければ無理もない。ああもう踏んだり蹴ったりだ、頭を抱えたい気分になりながら窓枠に重みを預けて、しかし猫を追うこともなく夏黄文は主と神官の派手なお遊びの成り行きを見守ることを、なかば投げやりに決定した。強い力に抗うなんて、自分には無理な話である。とりあえずこれで姫君のご機嫌が晴れやかになり、猫のことなどきれいさっぱり忘れてくれるのが今のせめてもの願いである。