古びた鳥籠である。きょうび出回っている金属製のそれではなくて、昔ながらの竹細工のように見受けられる。どうにもここは薄暗いので全貌を捉えることはできないのだが、背丈よりもずいぶんと高いところにあるドーム状になっている上の部分はなにか草花を模した見事な細工が施されているらしく、これがひどく懇ろにこしらえられた籠であることはすぐに分かった。錠のつくりはくすんだ金色で、これにもよく見ると細工が彫られている。しかしどうしたことか、鍵穴は何処にも開いていないのであった。なんだ錠の意味がないじゃあないか、呟いてまじまじと眺めると、それを聞いたのか籠のうちから笑いが漏れだしてきて、ぎくりとして伸ばしかけていた手を止めた。古びた鳥籠から。笑い声。目を凝らすとだんだん慣れてきた薄闇からにゅっ、と手が伸びてきて、格子の一本を掴んだ。ぎょっとする。手が出てきたことではない、それがとても見知った持ち主のものだと気づいたので、そちらに吃驚したのだ。
『マツバ』
籠に凭れかかるようにして姿を現したのは、やはり知音の男であった。白いシャツといつものスラックスだけを着ている。どうしてそんなところに居るんだ、眉を知らず知らずのうちに顰めながら問いかければ、またひとりで楽しむごとくにミナキは含みがちに笑った。そうして返事をしないまま手を伸ばすと、半端に浮いていた俺の手をとってするりと格子の隙間から引きいれて、そこにミナキは自らの頬を寄せた。手の甲といえばよいのか、爪のある側なので、撫でているというかんじはあまりない。ただ触れている。それにしても妙なことには、いくら意を集中させても一向にミナキの体温を感じることが、できないということである。
焦れて自分から手を動かし、ミナキの顔のあちらこちらを撫でてみる。瞼をなぞれば、ちゃんと大人しく目を瞑る。飴色の睫毛がこまかに震えている。どうにも生きているのは当たり前なのに、やはり熱を感じないというのは変な心地だった。くすぐったいぜマツバ、緩く弧を描いている唇がそう笑うので、すまんとかたちばかりで謝りながら指の腹で唇に触れた。淡い色から吐息が漏れる。こんな籠越しではなくて直接触れたいと思うのに、なんだってお前は其処に居るのか、もどかしくなって出来るだけ顔を近づけながらそういったことを尋ねると、少しだけ呆れたような目をしてからミナキは芝居がかった仕草でちょい、と小首を傾げて見せた。

『それは、きみが』












がばり身を起こすと、布団を掴んでいる手元すらうまく映らないような夜中だった。耳元にミナキの声がいやに生々しく残っている。夢だったのだと悟ったら急に心臓が騒ぎたて始め、息を吐き出しながら目を瞑った。今しがた見た光景を思い起こし、喉元にざわざとしたいやな感覚がのぼってくるのを感じる。あんな夢、あんな正直な夢は見たことがない。自嘲しようとしてしくじったまま、額に垂れてくる前髪を掻き上げた。
ミナキに貸している部屋と俺の部屋は近い。顔を見るだけだ、眠っている顔を見られればそれでいい。自分に言い聞かせてひたりひたりと縁側を進んできたというのに、その部屋からは煌々と明かりが漏れていたために当然のように足は止まり、俺はいくぶん脱力した。
かすかに紙をめくる音や、ペンの走りが聞こえる。障子の格子目をくっきりかたちづくった内側からの明かりが、夜の板張りに流れ出している。まだそれほど夜更けではないが、こんな時間まで起きているのは感心しない。しかも十中八九やたら細かい文字を読んでいるのだろうから、そのうち視力がガタ落ちしてしまうぞ。次々浮かんでくる言葉を口内で転がしながら、しかしいつもみたいに軽い調子で声をかけることは憚られてしまった。言うまでもなくあの、胸のすかない夢のせいだ。
(…もし話したら、引かれるか)
嫌な夢は誰かに話してしまえばよい、とは昔からの言い伝えであるが、しかしはたして悪夢だったのかと問われたらそれも頷くことができないので、そこが一番参ってしまうところだった。何故そんなところに居るのかなんて、夢ながら自分は間抜けな質問を投げたものだ。そうあれと深層で望んでいるのは、自分ではなかったのか。
「マツバ、いるのか?」
鼓動が跳ねた。気取られるつもりはなかったのだが、そぞろになっている内に溜息でもついていたのかもしれぬ。障子のあちらで立ち上がる衣擦れが聞こえたので、慌てて固まっていた脚を動かして障子に寄った。「待ってくれ、」当たり前のように空けようとしたであろうミナキを声で制すると、不思議そうにどうした、と返してあちらも立ち止まったらしい。ぼんやりした影だけがすぐそこでこちらを向いており、それはなんとも覚えのある光景のように思われて一寸息を詰めた。顔を見るだけといって部屋を出て来たのに、起きているとなると面と向かえる気がしない。あの夢を思い出してしまう。うつつの彼よりもずっと穏やかで愛おしそうな、そう、愛おしそうな顔をして俺を見ていたミナキが目覚め際に告げようとした言葉が、ぐるぐる耳の奥でうずをまく。
「何をしてる、入ったらいいじゃないか」
「……さっき、」
「うん?」
「夢を見たんだ、お前の――」
話すつもりなんかなかったのに、気づけばだいたいそのままを伝えていた。声を聞いたら案外と落ち着いてしまったのかもしれない。決して気持ちのいい内容ではない筈なのだが、ミナキは仕舞いまで相槌を打つだけであとは静かに聞いていてくれた。とはいえ夢でのミナキの様子については、態とあまり触れなかった。俺の望みがそういうかたちで現れたのかもしれないから、こればかりは気まずい。俺自身、こうして起きているときにはミナキにそんな、女めいたものを求めたりはしていないはずだ。ミナキもそうだろう。睦んだって男同士だ、それはいやというほど分かってる。だから余計に夢の中で、たおやかとかそういった笑い方をして籠に納まっているミナキを見たことは、俺にとって大きかった。がつんとやられたような気分だった。間違いなくこの手で閉じ込めたのであろうミナキがあんなふうにそれに甘んじてくれていることにも、そこには確かに見逃せないくらいの喜びがあったのだが…やはり衝撃だったのだと思う。
マツバ、と呼びかける声に瞬く。予想していたよりからりとしていた音色にそれでも固唾を飲んでいると、なにやら軽く笑いをこぼしてミナキは身じろいだらしい。それから俺の、障子の骨にかけていた右手にちょうど重なるようにして左手を置いて、触ってみろと言ってきた。木造りの骨組みではなくて和紙の面に、ミナキの手のひらの影が浮かび上がる。細くて長い指だ。誘われるままにそこに手を合わせると、じわり、薄紙越しに伝わってくる温度があることにやたらと感慨深くなって、俺は嘆息していた。
「思うにな、初めから錠なんて…無くてもよかったんじゃないのか?」
言い終えるか終えないかのうちに、すうっと片側の障子が開いた。光がひときわ強く漏れる。手を下ろして向き直ると、ひょいっと顔を出したミナキが俺を見て、ずいぶんとほっとしたように笑った。ああミナキだと思った。夢でしたように頬や唇に触ってみると当然のように温かく、それにちょっと面食らったらしいミナキの瞼にもやっぱり触れてみれば、ぎゅっと瞑って、綺麗に震える睫毛までそっくり同じだったものの、こちらのミナキのほうがよほどいい、と俺はひとりで満足していた。
「……鍵は、掛かっていなかったのか」
「ふふ、そうさ……私はとっくにマツバのものだ」
きみが望むならば、籠に入ることもやぶさかではないが。そうおどけたように肩を竦めたミナキに、眉を下げつつ照れ笑いを向けてやる。自分でも珍しいことだが、照れているという自覚があった。そうして俺はかぶりを振ると、もう片方の障子をゆっくりと開いて、ミナキの手を引いた。まだ根を詰めるつもりなら、すっかり目が覚めてしまったから付き合ってやる。我ながら勝手な言い分であったが、すぐ傍でミナキがおかしげに笑うのできっと悪くない、と相好をますます緩めつつ、障子を後ろ手に閉めた。鍵も閂も、つっかえ棒もない。お茶でも淹れようといってミナキが笑う。ああそうだ、お前にはその顔が一番だ。