腹の虫が情けない声をあげた。ずいぶん長いこと夜が続いているもので何も食べずとも平気だと思っていたのだが、やはり眠っていないと具合が違うものなのかもしれない。胃の内側がすっからかんになっている時の、ひゅるひゅるとしたあまりよろしくない感覚がして顔をしかめる。ずっと下向いていた首をぐぐっと伸ばすといやな音がして、見上げると作業部屋のしらじらしい蛍光灯の光が目に刺さってきた。夜にだけ思い知る、人工的な白さである。
ジムの裏手側にこしらえたこの部屋は初めほとんど工具類しか置いていなかったのだが、性分のせいかここで一夜を過ごすことも少なくなくなり、気がつけば最低限の生活用品くらいは揃ってしまっていた。握っているドライバーをぽんぽん軽く投げてもてあそび、掛けていた眼鏡を外すと途端に気が緩んで、鈍い疲労感まで滲んできたような気がする。集中しているときはどうとも感じないのに不思議なものだ、内心ごちて置時計を探す。締め切ったカーテンから差し込む光もないからまだ草木も眠る時間帯であるとは思うが、どれくらい作業していたのかがただ知りたかった。しかしうろつく視線のどれにも時計が引っかかることはなく、んん、と喉から唸り声のようなものを出して仰け反っていた背を前傾がちに丸めた。あのへんに置いといたはずだが、そう凝視する先のデスクにはただ工具箱が置かれているだけで、カチカチ絶え間なく鳴っているはずの秒針の音すら聞こえなかった。
参ったな、とはさして思わなかった。どうせ時間が分からなくても朝はそのうち来るのだし、今修理しているこいつもまだ復活していない。町のお婆さんがデンジちゃんちょっとこのストーブ直しとくれよ、とエレブーに古めかしいヒーターを担がせてやってきた時にはぎしっと頬が引きつったが、昔から世話になっている人だし頷かない理由もなし、じゃあ今夜は布団多めに被って寝てくれよと言って帰したのが昨日の朝だった。それにしてもこの年でデンジちゃんはねえな、次会ったらそれとなくやめてくれと言おう。やめてくれるかは分からんが。皺を増やして人の良さそうな笑みを浮かべるお婆さんを脳裏に浮かべてそうひとりで頷いて、俺はまた額にひっかけていた眼鏡を掛けた。ストーブといえば、エアコンの設定温度をもう少し上げようか。どんどんと寒くなっているこの頃だ。風邪をひいてはたまらない。よいせ、と声には出さず立ち上がり、壁にくっついているエアコンの操作器に歩み寄る。

「デンジー! 雪!!」
勢いよく開いたドアから冷たい空気が流れ込み、静けさを破った声よりも俺はその冷たさにうげっと眉を寄せた。白々しい蛍光灯の明かりに照らされた赤いアフロは大層ビビッドな色を放っているので、正面からあまり見たくなくて横目でじっとり眺めてやると、わざわざ奴は俺の目線に回り込んできてふたたび呼んできた。おいデンジ!雪だぞ初雪!ガサガサ鳴るビニール袋があっちこっちぼこっと飛び出しているのを見ると、カップ麺かなにか買ってきたのだろうか、などと考えながら俺は首肯した。ちょうど雪が降りそうな寒さだった、天気予報でも確かそんなようなことを言っていたし、そうかもう初雪か。ようやっと顔を突き合わせると、鼻からほっぺたから赤くしたオーバのボリュームに満ちた髪にはいくつかの溶けかかった雪がくっついている。お前は冬毛のミミロップみたいなもんだから、帽子かなんか被ったほうが良いぞ家の中に雪を持ち込まれたらたまらん、そう何年も言い続けているのだが、とんと聞く気配もなくオーバは今年もこうやって、雪を連れてやってきた。
「よく毎年飽きないな」
「初雪ってなんか嬉しいだろ!なあほら、お前も元気出せよ」
「勝手に俺の元気をなくすな」
「見ろ見ろ、冬季限定クロガネラーメン」
「お湯沸いてねえぞ」
ばしばし叩くようにしてアフロから雪を払ってやる俺の肩をやはりばしばし叩き、コンビニの袋を広げて嬉しそうに見せてくるのでもうどうでもいい、と思って俺はそう返してやった。すぐ食べるかどうかという発想に向かう辺り、わりと深刻なくらい腹が減っているのだ。それにしてもお前がこんな夜中に来るなんてな、呟こうとして、いやそれは実におかしいと口を噤んでしげしげオーバを眺める。灰色の瞳は初雪のせいなのか蛍光灯のせいなのか、いつも以上に爛々としているように見えた。夜更かしをした顔ではない。まあとりあえずポット借りるぜー、俺の内心など知ったことではなさそうに脇をすり抜けたオーバ。それへの返事もそこそこに、俺はもうほとんど訝ることもないがそれでもと、今さっきオーバが入ってきたドアを開いてみた。ちらちら舞っている雪が淡いグラデーションに浮かびあがり、その途端に朝が来た。