ぱらぱらと瓦屋根を雨が叩くような音が、視界の外で小さく鳴った。そちらへ移ってしまいそうになる相手の眼差しを縫い止めておきたくて名前を呼ぶと、些か気まずそうにしながら、それでも真っ直ぐに戻ってくる双眸はいくらか濡れて、胸の中ではおそらくなみなみとした感情が揺らいでいるんだろうと容易に知れる。マツバはかたく最大級の誠意を込めた握手のようにミナキの両手を自らの両手で握ったまま、できるだけ優しく見えるようにつとめて笑みを浮かべてみせてから、もう一回言ってくれないかいと仮声がちに告げた。息のかかるくらい近いところで、普段あまりお目にかからない逡巡をこめた眼差しを送ってくるミナキ。今しがたの音を気にしてわずかに瞼を伏せて、本人は気づかないだろうが上目遣いのようにも見えるところがとてもそそるなあ、とマツバはおくびにも出さないまま考える。即決の男である彼がこんなに戸惑っているなどと、それだけで胸が騒ぐというものだ。
「ミナキ君」
「言わなくたってわかるだろう」
 どこかむきになった声色で呟くと、互いの握りあった手を下方向に押すようにして距離を詰めたミナキは、言葉の代わりにキスをしようと身を寄せてくる。それが彼のもっとも素直な愛情表現であるとは重々承知しているし、されて嬉しくないわけでは勿論ないけれども、マツバは視界いっぱいに映るすこし余裕のないかんばせを寸刻見つめながら思案して、しかし緩くかぶりを振ると手を解き、口づけをやわらかく拒んだ。マツバ、訴えるような呼びかけに眉を下げつつ、持ち上げた両手でミナキの頬を包み込む。だいじょうぶだよ、僕しかいないんだからさ。目線を絡め取って告げると、手のひらがじんわり熱くなってくるのを感じてマツバは笑みを深くした。
 そう、ここにはまさしく二人だけだ。鈴音の小道で顔をくっつけるようにしてこんなことをしているなんて、少し悪いことをしているようにも思えるし、なにか滑稽な気にもなってくる。だけどどうしても譲れないことだった。例えマツバの家であっても二人きりでも、杳として視線を逃がしたきり、なかなかミナキはその言葉を口にしてはくれない。迷惑がかかるからという。そんなこと気にしないのにと何度言っても頷かないあたり、頑なさが悪目に出ているなと思った。
「まつば」
「うん」
「好き、だ」
 ぱらら、こつん。
 見つめ合いに降参したのか、マツバの手に自身の手を添えたミナキによって、おずおずとその舌にのせられた台詞。すると彩るようにまたあの音が聞こえて、細かな砂利の敷き詰めてある地面ではじける。今度は目を逸らそうともせずにじいっと、開き直ったともとれる伸びらかさを込めて見つめてくるミナキの熱をおびた瞳に満足して、マツバは頬をおさえていた手をするり解放してやった。ようやくというところで今しがたの音源を見やれば、陽光を受けて輝いているものがいくつもある。こまかなそれは少しいびつな、だけれども角のとれたなめらかで吸い込まれそうな、透きとおった輪郭を持っている。きっとヤミラミが見たら大喜びだろう、と思いながらビーズみたいだねと口にすると、こんなにたくさん出たのか、と呆れるようにしてミナキも同じ辺りを眺めていた。
 好きだ、愛している、そういった言葉をミナキがあまり告げずにいつも態度で示してくるのは、こんな面白い由来があった。愛の台詞を口にすると、まるで雨粒が固まってしまったのではないかという具合に、透明なきらきらしいガラス片がミナキの周りに降るのだ。マツバははじめに知ったときから面白いこともあるものだと思っていたのだが、当人としてみればなかなか大変のようで、昔は無意識に口にしては床をガラスまみれにしたりしてしまったらしい。それはそうだろう。愛しているはともかくとして、好きだなんて日常でよく使う言葉だ。言われてみて、おもえばミナキ君はスイクンを好きだとか言ったことはなかったっけな、と密かに感心したのを覚えている。彼のスイクンへの思いのたけをもしも愛で語ったならば、マツバ邸の居間くらいならばいとも容易く、細かな硝子の海になってしまうかもしれなかった。たった二言すきだと言っただけでこれだけきらきらした粒が撒かれたのだから、決して大げさではない。
 言葉にできないものは行動であらわせばよいのだ、という彼の生き方には、まことに見習うべきものがある。マツバは自ら選んであまり直接的な言を好まない人間であるけれども、ミナキの態度を見ているとそう感慨深くならずにはいられなかった。しかしそうはいえども、欲しい言葉というのはある。交わしたい情というもの、手に取るように分かってはいても、なんといったって音にしてみたときのこそばゆさは格別だ。時折りどうしても聞きたくて、だからこうして温かな色に包まれている。
「もっと言ってごらん、ミナキ君」
「マツバ、私はキスのほうが」
「後でいくらでもできるだろ……ほら」
 ふたたび手を握って促すと、ちょっと唇を尖らせてから、それでもミナキは面映ゆそうな顔をしてマツバを見つめた。特別だぜ。囁くように告げ、深呼吸をしながらふっつりと途切れるのにも、紡ぐのにも似た顔色を浮かべて頤をあげ、マツバが好きだとうたう。握った手のひらに、じんじんと力が籠ってくる。透き通った丸いガラスが、二人をとり囲んできらきらと降り積もっていく。ときどき囁くようにして、そうすると粒も小さくなって、ミナキに呼応しながら降るガラスは、一様にすべらかな丸みを帯びている。
 すきだ、すき、あいしてるんだ、マツバ、あいしてる。呟いていたら止まらなくなってしまったのか、やまないガラスの雨に包まれたままミナキはマツバに抱きつくと、耳に直接注ぎ込む響きで募りつのった気持ちを音にする。うん、うん、僕も好きだ、きみが大好きだよ。マツバはこれまでに感じたことのないくらいのこそばゆさと充足感をおぼえつつ、宙空を仰ぎ、すずやかな音と共に透明ななかに青と赤を移しこむ、かがやく粒を視界いっぱいに納めていた。
 ほうら、言葉にするとこんなにも、見えてくるものがある。