音をたてずに板張りの廊下を進む足先から、しんしんと冷気が這い上がってくる。厚めの靴下を履いて出掛けたつもりだったのだがさほど功を奏することはなかったようで、爪先の感覚はあまりないし鳩尾の辺りまで冷やかさが浸食してきているし、これは朝の寒さを舐めていたなとマツバは表情を沈めて歩幅を広げた。秋物のジャケットのポケットにより深く手を潜り込ませ、マフラーに口元あたりまでを埋める。鼻先がまだ強張っているような感覚があるので、きっと触ったら冷たいに違いない。 薄暗い、それでも闇とは異なるほんのりと青い澄んだ明るみを孕み始めた屋敷は、無音のために耳鳴りがするくらい静まりかえっていた。丑三つよりもこの時間帯のほうが、世界はずっとおとなしいように思われる。それはマツバにのみ当てはまる感覚であったかもしれないが、少なくともこの屋敷がこんなにも静まるのは夜明け前のほんの僅かな間のみで、あとは何かしらがざわざわと息衝いているのが常だった。いつだってそんな気配の中で暮らしてきたから、あまりにしんとしているとどうも落ち着かなくなって、知らず知らず口がへの字を描いてしまうらしい、ということを自覚したのは恥ずかしい話だがさほど昔のことではないので、案外自分のことというのは分からないものなのだろう。掻き混ぜられ、あらゆるものが混濁してきらきらしたりどろどろしたりしている空気が、今だけはすっかり足元に沈殿して、その上澄みを眺めているようだ。吸い込む空気を冷たくもうまく思うのもきっとそういうことなのだろうと、マツバは慣れきった古い木のにおいをどこかしら新鮮に感じながら、数回に分けてのみこんだ。 幾度か角を曲がったところで、外からの未明の光がじんわり木目を温めている一角まで来た。格子窓に後付けしたガラスを透かして、東に面したこの場所にはいつもいち早く朝日が差し込む。ちょっと立ち止まって光の筋に足先を置いてみると、僅かだが温まったようなそうでもないような、しかし強張りがほどけていく感覚に目元が緩んだ。 しばらくそうしているところへ漂ってくる香りがあったので、おや、と眉を持ち上げてマツバは廊下の先を見やった。明かりのついた台所、そこから漏れ出ているのは光だけではなく、その香りであったり、またなんとも名伏しづらい生活感のような、人のいる気配とでも言うしかない独特のまろみがこちらまで流れてきているのを肌で感じる。マツバは淀みがちだったまなこを少し大きめに開いて、眼球の表面がひやりとするのを感じながらじっ、とそのあたりを眺めてみた。取り立てて気持ちが動いたというわけではないのに、なにか直ぐにあちらへ向かってしまうのは勿体無いと思った。あれはまるごと、自分を、自分だけを待っている空間なのだ、と内証してみたらそこでようやく、鳩尾から冷たさが引いていくのが分かった。朝の光と混じり合いそうで混じり合わない、明け方に戻ってくる自分を迎え入れるためにある、あの台所は今はいっとう特別な場所だ。安堵にも似た溜息をつく。吸ったときには冷たかった空気も、吐き出すときには温かい。 「ただいま」 「ああ、帰ったのか」 コンロの前に立っていたミナキは、首だけを回してマツバを認めるとふっと微笑んで、見事な朝帰りだなあとおどけるように目を細めた。窺い見るとその手はゆっくりと絶え間なく動かされて、なだらかな円を描いている。やめてくれよその言い方、苦笑いを浮かべながら隣まで歩み寄ると、あの香りが胸の深いところまで入り込んだ。片手鍋にたっぷりと湛えられているのはミルクココア。普段ひとりでいるときはあまりこんな作り方をしない代物なので、余計に嬉しい気分になってしまう。こうやって作ったほうが美味しいんだぞ。そういつか得意げに話したのは、やはりミナキだった。 「どうだ、修行のほうは」 「まあぼちぼちかな」 「ははっ、マツバらしい答えだな」 予めそんないらえが分かっていたとでも言いたげな破顔を受けて、それより寒いんだよまったく、と態とむくれたような目をしてから抱きつく。ミナキとてカーディガンを羽織っている程度なのだから寒いだろうが、冷えた空気に浸されていたジャケットには到底叶わなかったようで、うわっと裏返った声をあげて首を竦めると鍋をかきまぜる手を止めた。マツバの背中に片手を回し、撫でさするようにしながら「もう冬だな」とまじまじ呟いたミナキは、頬に触れる柔らかい金髪の冷たいことにまた驚いたらしい。君はどこもかしこも冷たくなってるじゃないか、呆れたような息混じりの声がまた少しマツバの肌を温めた。熱を奪うようでわるい気もするものの、きっとこうしないほうがおかしい。マツバは内心でごちる。せわしなく背を撫でてくる手のひらがひどく優しいのだから、これは独りよがりなんかではないと信じたい。 早くココアを飲め、耳元で甘やかすその声色に、ふふふと鼻から笑いを抜けさせる。もう少しだけいいだろう。回した腕でぐっと腰を引き寄せると、困ったように力を抜いてミナキはマツバの相貌を捉えたまま、ゆっくり瞬きをした。それから片手でコンロの火を消すと、器用にいましがたのマツバと同じような笑みを浮かべて見せて、未だ冷たさの残るマツバの鼻先を温めるようにそっと、唇を押し付けた。 |