(痛めの捏造)






薄闇の底で苦しげにのたうつ金糸を目の当たりにした瞬間から、脚が竦んでまったく動くのをやめてしまっていた。背後でいつの間にか締め切られた重々しい襖は部屋の外から入る僅かな光も遮って、此処に足を踏み入れた瞬間には確かに畳に形どっていた私の影ももはや見えない。差し込むのはいやに高い位置にある格子窓から落ちてくる、冷たい色をした光だけ。
「――ッうあ、あっ」
畳の上を荒く転がる衣擦れの音に混じるひどく濁った苦悶の声に耳を突かれて、はっと焦点を結ぶ、と同時に冷や汗がどっと噴き出した。膝が震える。一瞬背後の襖を開け放ってとにかく走り去りたい衝動に駆られたが、そういえば私は此処に入る際に見た筈なのだ、外からは確か頑丈な閊え棒が嵌められていてとても内側から開くことなど叶わないのだという、絶望にも似た光景を。


『マツバが大変な状態とは、一体どうしたというんです』
『へえ、とにかく来てくださいまし……私どもではあかんのです』
ポケギアを介して呼び出されたエンジュで待っていたのは、緊迫に包まれた舞妓達とジムトレーナー達だった。皆よく見れば体のいずこかに怪我のようなものを負っているように見受けられたが、私が何事かと言及する前に強く手を引かれ背を押され、気づけばこの部屋の前で頭を下げられていた。堪忍え、すみません申し訳ない、そんな言葉ばかりを痛ましい声色で矢継ぎ早に託された私は、言い知れぬ不安と共にいやに大きな襖からいやに大きな閊え棒が数人がかりで外されるさまを視界の端でただ見詰めていた。そしていよいよ開くという瞬間、内側から這い出す悶絶したような叫び声。それにひっと息を飲んだのは私よりもむしろエンジュの人々で、弾かれたように舞妓の一人は私の背を押して悲鳴にも似た声を紡いだ。
『マツバはんをっ、お頼申しますえ……』
それから瞬きよりも速いかという刹那に視界は暗くなり、私の目は畳に転がるその姿に釘づけになってしまったのだ。


ガリリ、と畳を引っかく音に思考が寸断される。引きつっていた息をどうにか取り戻して薄闇に慣れた目を向ければ、うつ伏せて背を丸めたマツバが爪を畳に突き立てては引き毟っていた。次第に混じりだす、耳を蝕むいやな音、それは畳のみならずマツバの指をも傷つけている生々しい音に他ならない。く、と奥歯を噛んで臆する足を叱咤すると、私は倒れ込むようにマツバの傍へと近寄った。這ってゆくようなかたちになり情けないが、自らを省みている余裕など今はない。なんとか顔が見えるかというところまでにじり寄ると、また喉が引きちぎれたのかというような苦しげな声が聞こえて、ぞわりと鳥肌が立った。
「マツ、バ」
おかしいほど力のない己の声は果たして彼に届いたのか、畳と爪を破壊する痛ましい音は一寸止まった。しかしマツバが顔を上げることはなく、ぜえぜえと喘息のような呼吸を繰り返しては背を震わせているばかり。その様子に固唾を呑んだ私は、今しかないと意を決して腕を伸ばした。
「っあああ……!ッく、はな、放せ!」
「ッマツバ!……頼む私を見てくれ、マツバ!」
「うっぐ、どうしてきみ、此処に……ハ、ッ」
腕の手首に近いあたりを掴んだ途端に暴れ出したマツバに振りほどかれそうになるのを必死で堪え、叫びに対応するように声を張り上げてマツバに呼びかけた。するとヘアバンドに半ば覆われてしまっていた瞳がほんのひととき光を宿し、確かに私を認識して腕の力を弱めてくれた。ああまだ理性がある私が分かる、そんなことにさえひどく安堵して息を吐きだしたが、しかし体を寄せようとするとまた激しく全身を捻らせてマツバはそれ以上私が触れることを拒んでいた。片腕に対して私は両手でなんとか掴み続け、これを離したらお終いだと取り縋る。あああやめろ放してくれ、と悲痛な声が胸を痛めた。しかしそれは出来ない、私は此処に恐らく最後の頼みの綱として送られたに違いないのだから。
「ッ……!」
ばし、とこめかみから頬を強かに打つ衝撃が襲う。掴んでいた腕にのみ集中していた私はそのぐわんと脳を揺さぶる波に反応しきれず、瞼の裏を瞬間的に白くさせて無様に畳の上へと倒れ込んだ。ずざ、と服が擦れる音が聞こえた。ああしまった手を離してしまったとすぐに後悔の念が襲ったものの、それに身を委ねている暇はない。慣れない痛みにぐらつく頭を片手で抑え身を起こせば、マツバは意外にも暴れたり自傷に似た行為はしていなかった。その代わりがたがたと震えて私のほうを見据え、ああ、あ、と時折り意味を成さない声を漏らしながら、自らの体を抱き込むようにしている。暗がりに揺れるその瞳にはどうやら怯えが、浮かんでいる。
「……マツ、」
「み、ミナキ君ごめん、すまな、い……僕は君までこんな、」
「落ち着け、大丈夫だから――何ともない、私こそ突然すまなかった、マツバ……なあマツバ、私と話が出来るか?」
「っ今は、どうにか…でもきっとすぐ駄目になる、」
「ならばそれまででいい、マツバ、一体これは何なんだ」
どうやら波を超えたらしいマツバはかろうじて私と会話が出来るくらいまで正気を取り戻したらしく、大方バンドに隠れた瞳で微かに私を捉えると苦しげに息を飲んだ。そして切れ切れに伝えられた彼の陥っている状態に、私は眉根を寄せざるを得なかった。
「僕の千里眼は、こうやって定期的に錬成してやらないといけないんだよ…、今の僕の感覚を表すなら、そうだな、…全身の感覚が研ぎ澄まされてどこに何が触れても痛い、とか、そういうかんじかな」
「……な、それであんなに苦しんでいたっていうのか」
「はは、今回はちょっとね、調子が悪かったみたいだなっ……分かるかい、全身性感帯とか、そういうレベルじゃない、痛いんだよ、おかしくなりそう…だ…っ」
ぐっと自身の肩をきつく抱き込むマツバの眉は苦しげに歪み、そのまま上目に見据えられて背筋が冷える。こんな顔をするマツバは初めてだ。その苦痛などもちろん分かり得ないが、しかし思わず息苦しさを覚えて私は喉を詰まらせると、みずからの胸を抑えた。
「っマツバ、それはどうにかして止められないのか!? 修行なんだろう! ならば解放する方法だってッ」
「無理だよ! っこんなのは先代も経験してきたことなんだ……この程度に耐えられずして、千里眼を保ち続けることなんか、できない……」
「しかし! 皆君を心配して私を呼んだんだぞ!? 君を助けてやりたいと、」
「黙ってよっ……、君は確かに、被害者だ……みんな君を生贄にしたんだ、僕が自分を傷つけないように、間違ってもジムリーダー生命を絶たないように」
息が詰まる。張り裂けんばかりに打ち鳴らされる心音が痛いほどに全身を駆け廻っていた。そして脳裏にエンジュの人々の姿が蘇り、ああ、と合点がいった。彼らも恐らくはこうしてマツバを止めようとしたのだ、苦しみに飲まれて自らを傷つけようとするマツバを救おうと手を伸ばして、しかし先程の私のように弾かれ傷をつけられたのだろう。無理に抑え込めばことさらにマツバを痛めつけることにしかならず、しかも察する限りではこのように会話を交わすことすら、ままならなかったのだろう。
そうしているうちに、再びマツバが自身の胸をきつく抑え出した。はっ、と体を強張らせて呼びかければ、笑ったのか悲痛な息を漏らしたのか分かりかねる響きのあとで、マツバは畳に手をついてから弱々しく顔を上げた。
「っすまな、い……ミナキ、ミナキくん……こんな、こんなことのために君は居るわけじゃあ、ないのにッ」
獣のような格好で腕の狭間に頭を埋めると、マツバは微かに嗚咽を漏らした。がたがたと震えはじめた彼の体躯に、ああまたあの苦しみが始まるのだと私は恐ろしい予感に慄いた。動くことができず声を発することもできずにただ苦痛に飲まれてゆくマツバを見詰めて、その手が救いを求めるように空を掻いてから彼自身の肩に爪を立てたのを目の当たりにする。ぐっ、と服が抉れるのではないかというくらい強くめりこんだ、と、そこで私は何かに突き動かされるようにして畳を蹴っていた。
「ッ! ミナキ君!?」
「すまない、すまないマツバ……私はきみにどうしてやったらいいか分からない――分からないが、っ」
焦燥に埋め尽くされた声に上塗られるように耳を覆った、痛ましい悲鳴。私がマツバを抱きすくめたことで、恐らく想像を絶する痛みに似た感覚が彼を襲っているのだろう。すまないと謝り続けて、それでも私は暴れるマツバを今度こそ離すわけにはいかないときつく腕に力を込めた。
「離れろっ……ミナキくん、だめだ、また君を傷つける!僕はっ……君は、君だけは嫌だ!傷つけるのは…っ!」
言葉とは裏腹に、強すぎる触感に耐えられないマツバは私の背を叩き、掻き毟る動作を繰り返していた。マントと燕尾服がなければあっという間に血の海と化していたかもしれないとその感覚に全身を強張らせ、だがこれでいい、と私はうまく出来ない呼吸をどうにか保ちながら言葉を紡いだ。
「だ、いじょうぶだ、私はマツバのために傷つくなら、いい……だから、私に分けてくれ、マツバの、痛み」
「な、何を言ってるんだ……っぐ、」
「くっ……あ、ああ、」
「ミナキ、ミナキ君っ、あああごめん、ごめん……もう、止められな、」
「いい、さ……っだから……ッ! うあ!?」
抉るような背中の痛みに慣れ始めていた、と浅ましくも思っていたときだった。比べ物にならないくらい強い痛みが肩口に走って背を反らせ、私もまた悲鳴をあげてマツバに取り縋っていた。首が痙攣したようになって動かすことができず、片方の腕からずるりと力が抜ける。マツバの体に重みを預けてぶるぶると天井を見詰めるしか出来なくなった私は、スパークしたような頭が回復するとともに何が起きたのかを理解した。噛みつかれたのだ、肩に。
「ふっ……うぐ、うううっ」
「くっ……あ、はあっマツ、」
「っご、め」
「い、いいから、そのまま……噛んでくれ、大丈夫、服の上なら、っぐ」
言い終えるうちに切なげに私の肩に顔を埋めたマツバは、くぐもった声と嗚咽じみたものを漏らしながら歯を立て続けた。ぐ、ぐ、と本当にこれは人の顎の力なのかと疑いたくなるほど強い痛み、服がなければやはり確実に肉を貫いていたであろう抉るような圧迫感。もしかしたら筋くらいはおかしくなるかもなとぼやけだした頭で考えて、私はそれでも暴れるのをやめたマツバに心の深淵で安堵していた。



「ごめん、」
「はは、気にするな…マツバが元に戻って嬉しいぜ」
「っごめんごめん、ごめん!」
「う、わ」
一晩明けたその朝、体中に掻き傷やら痣やらを負った私達は並んでだだ広い部屋に寝かされていた。あれからひたすら痛みに耐え続けた我々は、マツバの体が正常に戻ると同時に意識を失って抱き合ったまま倒れ込んでいたらしい。一足先に目覚めてことの顛末を聞いた私はどっと押し寄せた安息と疲れに身を沈め、それから誰が運んだのかは知らないがなかなか恥ずかしいな、などと眉をひきつらせていた。そこへマツバが目を覚まし、隈のひどい顔で私を覗きこんで必死の形相で謝った。そして私の返事など聞こえていないかのように包帯だらけの手を伸ばし、横になったままの私に抱きついたのだ。
「っちょ、っと痛いぜマツバ、」
「! ごめ、」
「…ふふ、なあマツバ?」
「な……なんだい、」
「わたしは……マツバの痛みを感じることが、できたかな」
見開かれる双眸と、抱きしめる代わりにきつく私の手を握った傷だらけの手。ミナキ君、と壊れもののように私を呼ぶ声のほかには待っても何も続くことはなかったものの、恐らくこれらが答えなのだと無言のうちに微笑んで、私はマツバの手を握り返した。それなら嬉しいよと呟けば、耐えきれないように熱い滴と口づけが振ってくる。また呼吸を奪われるデジャヴに心臓が脈打ったが、これは昨夜とは比べ物にならないほど、幸福な苦しさだった。