1 深い深い闇の中を、あてどもなく歩き続ける夢だった。 初めはどこかの洞窟、もしかしたら見慣れた炭鉱であったのかもしれなかった暗がりは、一歩足を踏み入れるごとに次第に静寂と暗さを増し、気付けば足元すらいくら目を凝らしても見えないというありさまだった。途中で木の葉がざわめくような音が耳を掠めたような気がしたが、靴底から伝わる感触はなんとも現実味がなく、浮遊感すらまとわりつき始めるので一体いま自分はどこに居るのか、まるで見当がつかなかった。 いっそ目を閉じてしまったほうが心の余裕が生まれるかもしれない。そうとまで思えてきて一度大きく息を吐き、閉じたところで何も変わりはしないのだからとかぶりを振るつもりで、ゆっくりと瞬きをしようと瞼を伏せる。 (……え?) 瞬きをするその、わずか一寸前。かすかに視界の真ん中で光るものがあった。しかしもうそれを確認することは叶わない、どういうわけか分からないがすぐに開くはずだった瞼が閉じた感覚のまま戻らずに、上下がぴたりとくっついたままいくらこじ開けようとしても開いてくれないのだ。 ひらけ、ひらけ、何度も念じながらいつしか悲鳴じみた声まであげて、どうにかもう一度あの光を見つけなければと思っていた。闇雲に手を伸ばしてはみるが、指先はやはり空を掻くばかりで何にも触れる気配はない。ああもういやだ、とうとう力なく叫んでいた。光が見たい、あの白い光、月のない夜に夜空のひどく高いところで消えそうにまたたいている星のような、あの、 「ヒョウタくん!」 天を仰ごうと頤をあげ、望みもなくただあたりを彷徨わせていたはずの手に、何かが触れた。いや触れたというのではなく、掴まれたと言ったほうがいいかもしれない。強い力だった。ただそれが何であるのかまだ判然とせず、きっと軍手を嵌めているからなんだろうというふうにどこか自らの触角を遠くに感じることしかできず、鈍い反応しか返せない。 今確かに聞こえた声、手を掴むもの、とても大切な人のものなのに、心がついてゆかないのだ。けれども、深海から浮かび上がるような果てのない空虚感にだんだんと心音が速くなるのを感じ始める。あの声の主に会いたい、と強く念じた。今を逃したらもう決して会えないようにすら思われ、全身が冷えていくようで恐ろしかった。いやだいやだともがく。おぼろな輪郭を必死に脳裏に描き、持ちうる限りのその人についての記憶を引きずり出そうとする。その想起を阻むように漆黒色の闇が心を圧迫し、吐き気をもよおすけれども、鳩尾に力を入れてひたすら抵抗した。あの人のことを忘れたくない、忘れたくない、名前も思い出せないあの人のことを。だって呼び続けていないと、手を伸ばし続けていないと、どこかへ行ってしまいそうな人だから。本当はずっと怖かった。優しいあの人がいなくなってしまうかもしれない、そのことがずっと、ずっと。 張り裂けそうな心音が指先までを疼かせる。何かが骨の髄からあぶりだされるようだった。そうしている内に、じわじわと体感が楽になりつつあることに気付き、食いしばっていた歯の力を緩めると、呼吸をしているという感覚が胸を往来した。背にかかる自身の重みを感じる。闇の中で立ちつくしていた自分はどうやら仰向けていると自覚した。 ここまできて、ようやく思い至ることが出来た。あれは――夢だ。 「……ゲンさん」 「! ヒョウタくん、目が覚めたのか」 「そ、うみたいです」 あれほど苦心しても開かなかった瞼が、息をするように簡単に開く。それは当り前のことであるはずなのに、言い知れない喜びが胸を満たしていた。間近で見つめてくる人の顔をじっと見つめ返していると、湧き上がる安堵に体の力が抜けた。 「よかった……ひどく魘されていたから、まさかきみまで捕らわれたのかと思った」 ヒョウタの伸ばした右手を掴んでいるゲンは珍しく帽子を脱いでおり、黒髪が蛍光灯の明かりを反射している。久しぶりに見るような気がする姿に眉をあげたけれども、すぐにここが父親の家、しかもソファだったということを認識してヒョウタは疲れの滲む苦笑を浮かべた。どうやらまだ寝ぼけている。 顔色をうかがうように覗き込んでくる眼差しは、これも珍しいたぐいのものだと感じたが、同時に心の奥の懐かしさも刺激された。自分が幼い頃はこういう顔をもう少し頻繁に目にしていたように思う。表情に乏しいゲンがどうやら随分と心配してくれたのだと気づいて、ヒョウタは未だ強く握られている右手にぎゅっと力を込めて彼の手を握り返した。精悍な瞳がはっと揺らめいて、それからささやかに安心の色が覗いた。 「ごめんなさい、うたた寝のはずが寝入ってしまって」 「いや、それよりヒョウタくん、何か夢を見たんじゃないのかい」 「うん……あれはたぶん」 狐火のようにちらつく光が、明るい視界でも瞼の裏に入り込んでいる気がした。そう、今思えばあれはふたつ見えたのではなかったか。そして今まで陥っていた夢というのはどこかで耳にした幻めいた言い伝えと、ひどく似通っている。初めて聞いたのはもう何年も昔のことだが、つい最近また触れることになったので記憶に新しかった。 『月のない夜には、気をつけなければいけないよ』 近くなってるのかな、悪夢。そう呟くと知らず知らずのうちに強張った頬を隠すように、左手で両目を中心に顔を覆う。大丈夫かい、と窺う声色がまた硬くなってしまったことに申し訳なさを感じて、平気ですよと眉を下げて笑った。ただまさか僕まであんな夢を見るなんてと、動揺を隠しきることは難しく声は擦れてしまった。 ミオの船乗りの息子、まだ幼いあの子が悪夢に魘されたまま目覚めなくなってから、もう数日が経とうとしている。 *** 父でありミオジムリーダーであるトウガンが鋼鉄島へ修行に赴いている間、ヒョウタは数日ごとに家の様子見をするようにと言われていた。こういうことは何も今回が初めてではない。父は昔からジム戦の合間を縫っては修行や化石堀りのために鋼鉄島へ赴いていたから、一か月前に電話がかかってきた時も「またか」というくらいでもう慣れたものだった。運河を渡り坂を十分ほど登ったところにある家は平凡な一軒家で、母が他界してから建てたものでさほど大きいわけではない。しかし男の一人暮らしとあって想像に足る乱雑さでもって迎えたものだから、ヒョウタは肩を落として仕方ないなあとまるで生前の母とそっくりな呟きを漏らした。それからここ一か月の間、トウガンはどうやら帰宅してもすぐにまた衣類などを持って鋼鉄島へ向かってしまうらしく、家の中は簡素に保たれている。 昨日の朝、おおよそ日曜に点検と掃除を兼ねて来ることに決めていたヒョウタはいつものように玄関の鍵を開けようとして、そこで背後から声をかけられた。 「ヒョウタくん」 「えっ、ゲンさん!?」 思わず鍵を取り落としそうになり、慌てて両手で握り込む。それから見上げればゲンはふっと目を細めて柔らかく笑った。久し振りだね、と帽子を外して胸に抱えるシルエットはヒョウタにしてみても暫く目にしていなかった姿であったから、自然と浮ついた心地を感じながら笑い返して頷いた。 日曜の朝ということもあって人影はなく、朝靄と白い陽射しをたたえた街並みと、それを背景に佇むゲンには不思議な存在感があった。まるでこの人は朝靄から湧いて出てきたようだとヒョウタは思った。坂を歩き登って来るよりもそのほうがずっと彼らしい、というような印象を昔から抱いていた。鋼鉄島から時折りミオにやって来る彼はトレーナーとして憧れの存在であったけれど、父の友人として、面倒見のいいお兄さんとして、ひとりの男性として捉えてみようとするといつも掴みどころが足りない。感情を荒げることもなく、ヒョウタを幻滅させるような出来事もなく、幼い頃からの憧憬をぶち壊すような側面を見出すこともなかった。それでも別段違和感をおぼえることもなく、ヒョウタはこの歳まで彼と家族のような知人としての関係を続けてきた。今ふと彼について不思議に感じたのはおそらく、ミオを離れてクロガネで暮らしているためだろう。あちらに移り住んでから、会う機会は格段に減ってしまっていた。 ゲンはゆっくりと手を伸ばしてヒョウタの頭、というよりは髪をするすると撫でたのち、元気そうで何よりだよと変わらないトーンで告げてから、包むように右手を肩へ置いた。小さい頃とまるで同じ手つきだった。柔らかくも硬くもない手に触れられると温かいような、何かがほぐれてゆくような感覚が伝わってくる。懐かしさに暫く黙っていると、ゲンは何かをひらめいたような目をして手を下ろし、もうこういうことされるのは嫌だよね、と苦笑がちに自らの手を見つめた。ヒョウタはいえいえ、とただ曖昧に笑って頭を掻いた。確かに父などから頭を撫でられたら気恥ずかしくて仕方なかろうが、ゲンの場合は当たり前のように受け止めてしまっていた。そのわけを考えてみたけれども、ゲンさんだからという結論にしか行き当たらなかった。 「父さんに言われてミオに?」 「ああ。持ってきてほしい図鑑があるとかでね」 「図鑑って、ミオ図書館ですか」 「そうらしいよ。あの人は化石に夢中になるとそこから離れなくなるから……これはきみも同じかな」 「ぼ、僕のことはいいですよ」 しかしこの人を使いっぱしりみたいにするなんて、父さんくらいしか出来ないだろう。ヒョウタはそう申し訳なく思いながら溜息をついてすみませんと頭を下げた。ゲンはそれすら見越していたように構わないよと片手を振って見せてから、むしろお礼を言わなければいけないくらいだと肩を竦める。 「もしかしたらトウガンさんは、今日きみが来ることを見越して私をミオに来させたのかもしれないね」 「まさか! 父さんはそんなに気の利く人じゃないですよ」 「ふふ、それはきっと身内だから、そう思うんだろう」 昔から私は色々とお世話になっているから、何となく分かるよ。そう言い聞かせるように話すゲンはひどく老成しているように見えて、ヒョウタは本当にこの人は年齢不詳だと内心でごちる。初めて会ったのはもう十年も前のことになるのに、あれから見た目も中身もなにひとつ変わっていない。波導を操ることが出来るので体を若く保つことが出来るんだよ、なんてまだ子どもの頃には冗談めかして教えてくれたけれど、真相については今となっては尋ねる気も起きない。彼が本来ポケモンにしか使えないはずの波導を使うことが出来るのは事実であるので、まるきり嘘でもなかろうが。 家の戸締りだけ点検すると、ヒョウタはすぐに表へ戻った。 「じゃあ僕はミオジムに挨拶に行ってきますけど、ゲンさん、夕飯食べていきますか」 「きみが作ってくれるのかい?」 「えーっと、一緒に作りましょう。材料は買っときます」 「はは、わかった。じゃあお願いするよ」 おそらく夜の船で帰ってしまうであろうゲンにせめて夕食は食べていってほしいと思うのは、彼への気遣いというよりは単に自分が寂しいからなのかもしれない。ヒョウタはいい歳して子どもみたいだと若干の情けなさを押し込めると、優しげに眉を下げたゲンに笑みを向け、手を振って小走りに坂を下った。きっと嬉しそうな顔だと思われただろうけれど、別に構わなかった。 それから半日ほど過ぎ、ミオは日暮れを迎えようとしていた。 早めの夕食を終えたヒョウタとゲンは、鋼鉄島へ戻る定期便に乗るために船着き場へとやって来ていた。この時刻ならば自分のほかに乗客は居ないだろうと踏んでいたのだが、どうやら波止場には既に人影があるようで些か虚を突かれ立ち止まる。しかもあれはまだ子どものようだ。珍しいこともある。 旅のトレーナーだろうかと呟きつつ、実のところ足を止めた理由はもうひとつあった。なにやら気落ちした様子で話す船乗りの声が、夕暮れの波止場にぽつぽつと届いていたのだ。顔見知りの男だった。普段はからからとよく笑う明るい人だというのに珍しい、そう訝しんで様子を窺う。と、ヒョウタが吃驚した声をあげて身を乗り出した。それからすぐにゲンも帽子の影で目を見開く。恰幅のいい船乗りと話をしている少年。赤い帽子に白いマフラーの温厚そうな横顔のあの子は間違いない、いつかゲンが鋼鉄島で卵を託した、あのコウキだった。 「ヒョウタさん! ゲンさん! こんにちは!」 まだ幼い声色でこちらに手を振って駆け寄る少年に、呼びかけられた二人は笑顔で応える。ヒョウタはクロガネでのジム戦以来これまで再会したことはなかったため、この予期せぬ遭遇には顔を綻ばせずにはいられなかった。 「やあコウキくん、まさかミオで会うとは思わなかったなあ……元気にしていたかい?」 「はい! あの、実はゲンさんにもらった卵が孵ってリオルが生まれたので、報告しに来たんです」 「そうか、生まれたんだね。きみならきっと上手く孵してくれると思っていたよ」 ありがとう、と微笑むゲンに嬉しそうな顔を見せてから、コウキはモンスターボールを取り出す。きらきらと輝く瞳は褒められた子どもそのままという風情で、ヒョウタから見てもほほ笑ましくなるには十分だった。大事そうに包まれたまだ新しいモンスターボール、おそらくそれがリオルなのだろうと注目する。しかし開閉ボタンを押そうとしたところで「あ」と目を瞬かせたコウキは気まずげに顔を下向けると、今しがたまで会話をしていた船乗りにちらと視線を送った。 二人がコウキと話し出してからすっかり口を噤んでしまっていた彼は、遠くの海をぼんやりと見遣って影を背負っているように見えた。ああいいよ気にしなくて、と気遣うような目に慌てて首を振った彼だったが、その顔はどこか憔悴していかにも問題を抱えているていである。そこでゲンもヒョウタも何かあったのだと眉をひそめ、コウキと船乗りに一体何を話していたのかと尋ねた。そこで船乗りが口にしたのが、息子が数日前からずっと魘され続けているという話であった。 2 ――こんなことが身近で起きるなんて、まだ信じられない。 ヒョウタはソファからのろのろと起き上がり、漸くはっきりしてきた頭をひとつふたつ振ると、もうあれから一日経ってしまったのかと窓の外に目をやって小さく息をついた。沈みかかった夕陽はとても美しいのに、今はどこか不安を掻き立てさえする。 「コウキくんは、まだ?」 「ああ。朝から出掛けたにしては少し、遅いかもしれないな」 「……もしかして、何かあったんじゃ」 「落ち着いて。コウキは殿堂入りを果たした子だよ、そうやわじゃあないさ」 悪い予感に顔色を変えると、頭にそっと掌を置いてゲンは諭すようにゆっくりと告げ、薄く笑んだ。まるで昔みたいだと気恥ずかしくなってしまうも、夢見がおかしかったせいで不安定なヒョウタにはこの落ち着いた声はとても心地よかった。そうですね、と自らに言い聞かせるように頷く。 『僕が満月島に行ってきます』 真っ直ぐな眼差し、温和そうな面立ちに宿る彼の使命感を目の当たりにした時は、正直驚いてしまった。話に聞いていたギンガ団撃退の件もこの子ならばと納得してしまう、それほどの昂然とした雰囲気がコウキからは滲み出ていた。 ミオで誰かが魘されながら眠り続けているということになれば、誰もが古い言い伝えをすぐに思い描く。暗い夜には悪夢に捉われてしまう、気をつけなければいけないよ。そう子どものころからミオの人間は聞かされて育つのだ。ヒョウタにとってもまた、この薄暗い言い伝えは馴染みの深いものだった。だがこの悪夢、気をつけろとは言うものの具体的な予防策があるわけではない。代わりにもしも捉われてしまったら、という形で、対となる言い伝えがあるだけなのだ。それが、みかづきのはね。満月島でしか手に入らないと言われる、悪い夢を晴らしてくれる唯一の頼みだった。 俺が行っても何もなかったんだと項垂れる船乗りに、三人は心痛に顔を曇らせつつ目を合わせた。この言い伝えをよく知っていたゲンとヒョウタ、また初めて知ったコウキ。それぞれが異なった驚きをもって口を噤んだ。藍色の海からさざ波の音だけが絶えず流れて、それがひどく時の流れを遅く感じさせた。 そしてしばしの沈黙の後、「きっとトレーナーじゃないと駄目なんだ」という呟きを聞いた瞬間を境に、コウキの顔から沈鬱な色は消えた。ふっと隣の大人を見上げたその相貌にはひとつの決意とわずかな高揚がひらめいて、見据えられたヒョウタはとみに得体の知れない震えが背筋を走ったことを覚えている。僕が行きます。と、逡巡など感じさせない申し出に瞠目して、ああこの子はこんなに大きなものを秘めていたのかと胸のすく思いがした。初めて会った時はまだ不安に揺らいでいた小さな新米トレーナーが、今ではこんなにも頼もしくなってしまっていたのだ。 「あの子なら、大丈夫だよ」 思案に沈んでばかりいるヒョウタの顔を覗きこむようにしてから、ゲンは目を瞑って静かに微笑む。はたと間近にあるその面立ちに瞬きを繰り返したヒョウタは、思いがけない距離の近さにうろたえてソファに身を沈ませると、つられたように苦笑を浮かべた。 こんな時だというのに、いやこんな時だからだろうか、いつになくゲンさんが近くに居てくれるような気がする。歳を重ねるにつれて、家族じみた距離感はなくなっていたと思っていたのに。ヒョウタはもうすぐ沈もうとしている水平線の夕陽と、空のゆるやかなグラデーションに意識を移すように努めながらそんなことを考え、それから思考を切り替えてあの凛とした子どもの顔を脳裏に描いた。 あの子が一番適任だと思ったし、それに加えてあの子でなければ駄目かもしれないとゲンは言った。だからこうして待つばかりの立場に甘んじることになった自分達は、ミオで海の彼方を見詰めることしか今は出来ないのだ。 (なんでちょっと、嬉しいと思っているんだろう) かぶりを振る。ヒョウタは胸の中で懸念のほかにちらつく歓心をねめつけるように瞼を伏せて、目が合わない程度に傍のゲンへと視線を戻した。やはり海を見詰めているその横顔はいつも通り精悍で、自分の感情がひどく得体の知れぬ醜いもののように思えてしまった。いくら悪夢を見た後だからと言っても、ゲンが傍に居るというだけでこんなに心が浮つくなんておかしい。 弛緩した体がまた少しずつ強張るのを感じながら、今しがたの夢について思い起こす。必死に自分が呼んでいた相手が誰であったのか、ヒョウタは思い出し始めていた。考えてみれば当たり前だ。彼が夢から覚ましてくれたのだから。しかし覚醒に至るまでの自らの、身の千切れるような切ない心情が生々しく体の中に残っている。あれがただの夢の産物であるとはどうしても思えなかった。ヒョウタは傍に立つゲンの顔すらまともに見られないような気がして、深く俯いた。喉元でどくどくと響く心音が、痛いほどだった。 復路を失ったゲンがミオに泊ることになって、二度目の夜が訪れようとしている。 3 もやついた感慨を抱えたままひたすら夜を迎えるのがなんとなく憚られ、ヒョウタは船着き場から徒歩で数分という距離に在る、あの船乗りの家を尋ねていた。人々を不安にさせぬよう、息子が悪夢に落ちてしまっていることはヒョウタ達しか知らない。そのため何事もないかのように周辺の家からは和やかな団欒の香りが流れてきて、なんともいわれぬミスマッチな空気が船乗りの家にはたゆたっていた。 ベッドに横たわる少年は、相変わらずうわ言とも唸り声ともとれる苦しげな息遣いを漏らしながら眠り続けている。傍らでずっと着いていたのであろう母親に目を向けると、そちらもやはり心身が休まっていないのだろう、憔悴して青ざめた顔色は見ているこちらまで苦しくなってしまうほどだった。 この親子とヒョウタには、昔から船乗りを通してちょっとした面識があった。あのトウガンさんの息子、という間接的なものではあったが、人当たりの良いヒョウタであったから、ときどき船着き場まで父を見送りに来るこの子とも顔見知りだったのだ。いつも船をきらきらした目で見上げてははしゃいでいる、元気な子だった。だからこそ今こうして幼い顔を歪めてしまっているさまは痛ましく、ヒョウタはそっと男の子の頭を撫でて瞼を伏せた。 「……コウキくんは、きっとみかづきのはねを持って戻りますよ」 だから、あまり気を病みすぎないでくださいね。出来る限りそう柔らかな声音を作って、立ち上がりざまに男の子の母親へと告げる。気休めにしかならないことは分かっていたけれども、ヒョウタにも今はこれしか言うことが出来なかった。こくこくと目を閉じて数回頷いた母親はヒョウタを見上げ、わざわざすまないねと頭を下げてから見送ろうと腰を上げる。だがそれを制して、ヒョウタはもう一度黙って笑って見せると踵を返した。 ドアを開ければもうすっかり日は落ち、空には満天の星が輝いている。こんな夜分にこちらこそすみませんでした、肩越しにそう伝えて軽く会釈をしてからヒョウタはもう一度何気なく空を見上げ、そしてはっと目を見開いた。住人には気取られないように顔を強張らせ、それから慎重に息をゆっくり吐き出す。ここまで出てもらわなくてよかったと、密かに安堵した。 「――じゃあ、おやすみなさい」 バタン。 やけに大きく響いたドアの閉まる音と、自分の心音が重なった。夜の潮風は妙に生温かく胸焼けがするようで、いつもとは違う居心地の悪さを感じてしまう。ヒョウタは人通りのまばらな堤防沿いのアスファルトを足早に踏み進めながら、敢えて顔を上げないように岐路に着いた。 あの子の母親はきっと今夜は眠れないだろうけれど、そのほうが彼女にとっては良いのかもしれない。つい今しがた見晴らしの良い夜空を見上げて気づいてしまった事実に眉根を寄せ、むしろ眠らないでいてほしいと申し訳なくも願ってしまった。きっと今夜眠りについてしまったら、あの母親は悪夢を見てしまうだろう。夕暮れに自分が見た、ひどく胸のつまる、真っ暗な夢を。 「月が無い?」 ひとりで出掛けたヒョウタが帰るなり沈んだ顔で呟いた短いフレーズをそのまま復唱し、ゲンは目元を硬くすると弾かれたように外開きの窓を開いた。身を乗り出して高く空を見上げ、視線を巡らせる。図書館より高い建物のないこの街の見晴らしが、今は憎らしかった。視界を満たすのは無数の星々。どこまで目を凝らしてみても、ひときわ大きな光を見出すことは出来なかった。 「そうか……今夜が新月だったんだね」 声色を落として窓を閉めたゲンに、ヒョウタは神妙な面持ちで頷いた。あの男の子が夢に捉われた夜こそが月のない夜だと思い込んでいたが、実は月が細く消えかかっている時から悪夢は忍び寄っていたのだろう。 「だから僕もあんな夢を見たんですね、きっと」 「だから、とは?」 「うまくは言えないですけど、夢って、ただ人が頭の中で作り出すものじゃないんだろうって、あの言い伝えを聞いた時から思ってたんです。どこかで現実と繋がっていて、なにかこう、悪夢だけが詰まっているような場所があって、それが新月の夜には僕らのすぐ近くまでやって来る。だから――」 そちら側に連れていかれてしまったり、飲まれてしまいそうになるんじゃないかと思うんです。 拙い口調でぽつぽつと紡いでいた言葉が途切れると、二人の間にしばらく沈黙が落ちた。ヒョウタは話し終える前に消えかかっていた自分の話がひどく幼稚なものに思えて、言わないほうがよかったなと赤面して俯いた。小さい頃から漠然と持っていたイメージではあるが、誰かに話したのはこれが初めてだったのだ。いくら相手がゲンだとはいえ、こんな悪夢に怯える子どもみたいなことを言っては呆れられてしまうかもしれない。 「……あの、すみません」 「いやヒョウタくん、実は私も同じようなことを考えていたんだ」 「え?」 間の抜けてしまった声が、微妙な二人の距離を繋ぐ。真っ直ぐヒョウタを見詰めるゲンの眼差しがふっと優しげなものに変わって、それから不思議だね、と囁くと彼は一歩踏み出した。漆黒の髪がかすかに揺れる。 「きみが夢から覚めたとき、悪夢が近付いていると言っただろう。あの言葉を聞いてから私もずっと考えていた……ひとりが捕らわれてしまったことで、ミオに悪夢が引き寄せられているのではないかと」 だからきっと、きみの考えは正しい。 ゲンはそう安心させるように落ち着いた声で告げると、一歩ずつ詰めていた距離を詰めてヒョウタの肩に触れた。はっとして思わず後ずさりそうになるところに反対側の手を背後に回されて、そのまま吸い込まれるように体を引かれた。「心配しなくていい」ゲンのスーツの色しか見えなくなる。抱きしめられたと錯覚するほどに彼が近くに居るのだとヒョウタが気づいた時には、耳元であやすように名前を呼ばれていた。静かなのに、どこか苦しそうな息遣いを感じる。 「ヒョウタくん……今夜は、私のそばにいてくれ」 早鐘のように胸を打つのは、なんという気持ちなのだろうか。ヒョウタはかろうじて理解した言葉の意味に目を見開いて首を竦めると、背を丸めてゲンから顔を見られないようにした。どうしてこんなことをこんなに辛そうに言うんだろうか、この人は。そんなに僕は頼りないのだろうか。あるいは夕方見た夢の中身まで全て知られているのではないかとすら思えてしまい、純粋に心配してくれているのだと分かっているのに後ろめたさに鳩尾が震え、ゲンのジャケットを一度きつく握ってから突っ張るように腕に力を込めた。 そうして気づいた時には、家を飛び出していた。驚いて呼びかける声から逃げ、自分でも驚くくらいの力で包んでいた腕を振り切ったヒョウタは開け放ったドアを閉めることもできずにただ走って、走って、走った。 |