肌に触れるたびに細かな粒子がはじけているのか、ひんやりと微かに湿った感触をおぼえる。こういう場所では長いことまばたきをせずとも辛くないのだ、ということを知っていたミナキはじいと目を凝らしたまま視界をぐるりと巡らせて、どうやら運がなかったあとひとり嘆息した。
風がほとんどないもので、眼前を流れる川の水音が耳をいっぱいに満たしている。さほど急ではないが、大きな川だ。本当はもっと下流に出て橋を渡る算段であったのが、今朝からたちこめているこの霧のせいで視界はそれはもう不明瞭、コンパスとゴーストを頼りに森を進んできたところ此処に出たというわけであった。晴れた日ならば青く雄大な流れを堪能できたかもしれないのに、今は向こう岸すら捉えられない白んだ靄のために川はすっかりその中に押し込められているように見え、ほの暗く映るそれはなにか巨大な断崖とか、横たわる帯だとかいうものとあまり変わらない。やれやれ参ったなあ、呟いてつい今しがたボールに戻したばかりのゴーストを外に出して苦笑して見せると、面目なさそうに彼は頭をかくような仕草をして鳴いた。
ちゃぷん、
仕方ないので流れに沿って下って行こうか、と爪先をずらしたときの砂利を踏む音に、明らかな水音が混じった。それまで流れが岩を叩く音すらしなかった所為か、やけに胸の奥までそれは響いてきた。水ポケモンでも跳ねたのだろうかと思って首を回して確かめようとしたミナキであったが、目に飛び込んできたのは霞のむこうでゆらゆらと揺れるシルエットであったので、少なからずぎょっとしてまた川へと体を向けた。
ぼんやりとしてはいるけれども、形はどうやら舟である。ほんの一寸目を離していただけなのにどこから現れたのか、もうこちらの岸まで間もないところを漕いでいるようだった。天から降ったか地から湧いたか、そんなフレーズが浮かんで思わず息を飲みこむ。乗っているのは一人らしく、まだ誰か乗っていることにわずかながら安堵した。
「難儀ならば、渡してやろう」
岸辺のこまかな砂を擦りつつ着岸した舟は、ゆっくりと霧のあちらから象を露わにした。それよりも先に届いた声は落ち着いた男のもので、どこにも引っかからずにするする入り込んでくる、この場にひどく似つかわしい流水めいた音だった。舟の色がまた目が覚めるような青色をしていることも、奇抜なはずなのだがどうにもしっくりくるような心地になって、さほどうろたえもせずにミナキは視線を持ち上げていく。そうして舟から降りることはせずにその場で立ち上がった男を見つめると、こちらを窺うように眺めるふたつの瞳と目が合ってしまい、ぎこちなく瞬きをしてからあー、と意味もなく声をあげて誤魔化した。男の目は赤みがかった色をしている。
「あなたは、船頭なのか」
「そんなところだ」
言葉少なに頷いて見せた男は、それが元よりの私服であるのか、はたまた仕事着であるのかは知れないが仕立ての良さそうなさっぱりとした着物の袖を揺らし、乗るだろう、とほとんど定めてしまっているらしい口振りでミナキへと片手を伸ばした。軽く首を傾げた拍子に左右の横髪と、頭頂あたりで結わえている後髪がやはり流れるように揺れた。川底に差してある櫂に流れが乱されて、ちゃぷちゃぷと音をたてている。男の指先はこの霧と混じりいってしまうほどに白く、触れたらきっと冷たいのだろう、と思ってミナキははたと眉をひそめた。拒絶する理由もないのだが、もう乗るつもりでいる自分がどことなく不思議だった。ちらとゴーストを見上げれば、男をじっと見つめてはいるものの取り立てて敵意を向けるでもなければ怪しむわけでもなく、男がそこにいることをさも当たり前のように受け止めているようである。勘の鋭いこの子がそう捉えるのならまあ、構わないか。ミナキはふむ、と考えるふりをして腕を組みながら、幾らだととりあえず尋ねてみた。乗るにせよ、これを気にかけないことには落ち着かぬのが旅をする人間というもの。しかし男はなにか間の抜けた面持ちでミナキの目を眺めると、そんなものはいらないと短く告げただけだった。

さほど広さもない舟に向かいあって座り、緩やかな流れを横切って進む。万が一見失うといけないのでゴーストはボールに戻し、ふたりきりで霞の中を渡っている。霧はこの川から起こっているのかもしれない。水面を覗いてみても自らの顔さえまともに映らず、見回しても四方八方ぼんやりと白い。ただ目の前で櫂を漕ぐ船頭だけがはっきりとしたかたちを呈しているので、どこか現実味を感じないままミナキは膝を抱えて男をまじまじと眺めてみた。整った顔をしているが、冷たい印象も受ける。細身の体は大して力も入れていないように見えるのだが、なかなどうして舟は傾ぐこともなく進んでいくのだから面白いものだ、と内心でごちた。胸ほどまである長い、微かにくせのある髪は紫がかった色をして時折り艶やかに揺れるのだが、それが何色と称すれば正しいのか、ミナキにはなんとも分からなかった。しかし先程から少し落ち着かない気分になっているのは間違いなく、この髪と、瞳のためである。
(これはまるで、)
ちゃぷん、
水音がしたかと思うと、いつの間にか男の手は止まっていた。それなのに舟は横流しになることもなく、空間ごと切り取られたかのようにその場にしんと浮かんでいる。じいとミナキを見つめる赤味がかった眼差しにぎくりとして、ああ、とまたしても意味を成さない声を出してミナキは目を瞠った。男に対してであるのか、起きたこの不可思議な現象に対してであるのか、自分でも分からない。心音が速い。
「呼んではならん」
「――っ、え」
「お前と私は不可侵だ、今はまだ」
気づくと何事もなかったかのように動き出していた舟は、やがてミナキが言葉を探しているうちに向こう岸に辿りついてしまった。そら、着いた。抑揚を込めない声が呼びかけるままに立ち上がり、男の双眸をただ食い入るように見つめると彼は眩しげに目を細め、しかしそれ以上何も告げることなくそっと、乗る時と同じように片手を差し出した。
ミナキは幾度も幾度も胸の内でひとつの名前を呼び続けたけれども、それだけで喉がひりついて、ついぞ一言も発せないまま男の手をとると、出来るだけ慎重に舟を降りた。叶うならば一刻でも長く、触れていたかった。今はこの鼓動が伝わる以外になにも、なにひとつ出来ることなどないのだと、心の深いところではとうに分かっていた。


男の手は存外、温かい。