「我をぶつがよい」
「はあ?」
口端を切ったらしく、赤をちらつかせるそこを手首のあたりで無造作に拭いながら立ち上がった緑色の男はこれまでと一切変わり映えのしない語調で、これまでにも増して可笑しなことを口走った。妙ちきりんな宗教にすっかり洗脳されてしまった毛利の目を覚まさせるべく振るったものが碇ではなく拳であったのは、そのほうが伝わるものがあるような気がしたためであるが、これはどうやら逆効果だったようだ。元親は頓狂な声をあげてすぐに後ずさると、地面に突き立てていた碇を引き抜き毛利にむけて構えた。今しがた聞こえたのはそう、あれだ、ちょっとした誤動作だろう。樞だってそういうことはよくあるもんだ、そうに違いない。しかしひくつく視線の先、のっぺりとした色のないかんばせは元親の出来そこないの笑みを感慨なさげに眺めているばかりで、輪刀を持ち上げる気配はなかった。背後に静かにましますそれは、どこか後光のように元親には見えた。
「おいアンタ、どういうつもりでェ」
「右の頬をぶたれたら左の頬も差し出すのだ」
「ついにいかれちまったか」
「ぬかせ、ザビー様の有り難いお言葉ぞ」
これが貴様への我の愛だ、さあぶて、ぶつのだ。毛利はいっそ滑稽なほど抑揚なくすらすら語り終えると、硬く尖った足袋底を鳴らし、碇を翳せずにいる元親へと歩み寄った。あいだ、間、愛だ、愛だと。しばらく脳裏でおよそその変換には結びつかない音色を繰り返し、ザビー教義の根源であるらしい胡散臭さ極まりない単語へと流れついて元親は背筋を冷たくした。まさかあの毛利が、いくらおかしくなったとはいえ自ら進んでぶたれようなどと!隻眼を思い切り見開きそうして頬を引きつらせれば、もうすぐそこに毛利の切れ長の双眸が迫っている。「どうした長曾我部よ、我を憎く思っていたのであろう…我は貴様を「やめろ」「やめぬ」「気色悪いことぬかしてんじゃねえ!」衝動的に刃を振るえば、ぎいんと耳に響く、輪刀がそれを受け止めた音と火花が、ふたりの間に散る。いやに呼吸が速い。
「――やはり貴様を愛の力で入信させるなど、無理な話であったか」
「ハッ……寝言は寝て言えよ、アンタに愛なんざあってたまるかい」
「そう……それよ、我はそれが気掛かりだ」
「あァ?」
「我を愛せ、長曾我部」
諦念からの、ひらりとした跳躍。キイン!弾く勢いのまま飛びすさり、等距離を有した二者の視線は今やもう、交わる他にすべはない。求めたならば与えられるのだ、そうあのお方は仰ったのだ、いざや愛せ、愛すのだ。閃いた円かな曲線を捉え、元親は耳鳴りじみた言葉を振り払うこともできずに米神から汗を滲ませて歯噛みをした。もうり、呟いた掠れ声にひくりと眉根を動かした白いおもてがいくらか、ほんの僅か恍惚を滲ませたように思われて、鳩尾の底が波打ち、そうして震えた。
「我は愛を知りたい」
一閃ごとにさんざめく、途方に暮れたような響きと陽光の乱反射に、目を細めたきり声が出せない。腕に伝わる衝撃がいつになく重い。見たことのない顔で名を呼んでくる知将を前にして、馬鹿げていると哂うより、もしも本当にこいつが愛というやつを知ったならどうなるのか、という想いが蟠っていくのが分かった。弾き返す、閃く、また弾き返す。視線ばかりがいつまでも交わる。どうにも泣きたくなった。俺だって出来ることならくれてやりたいと、元親は確かに思ってしまった。