「あの人は、全部分かっているのかもしれませんわね」

がさがさといやに嵩張る紙袋をへんなところにぶつけないように慎重に歩いていたマツバに、そんなことは一切お構いなしというふうなのんびりとした口調でエリカは言って、くるりと振り返ってほほ笑んで見せた。あの人って。紙袋に意識を持っていかれつつ眠たげな眼差しを向けると、歩みを止めないまま可愛らしく小首を傾げる。着物の袖で口元を隠して笑う仕草は、とてつもなくエンジュに馴染んでいる。幼いころからこの街の呉服店に通っていたエリカは、マツバがジムリーダーになった頃からよくマツバを訪ねるようになった。知人がよくあなたのお話をしてくれるもので、とほほ笑んだ彼女のその可憐なかんばせの下にひどく冷静な面が潜んでいると知ったのは、一体いつであったろうか。
「ミナキさんです」
「ああ……で、ミナキくんがなに?」
「だって、弱いですものね」
「……そうだね」
直接答えないままそう継いで、エリカは横髪で表情を見えないように歩き続ける。マツバはそんな様を横目で見ながら、提げている彼女の荷物をがさがさ鳴らしてしまうことをもう仕方ないと諦めて、今までよりも少しぞんざいに持つことにした。エリカという人はどうやらジョウトの女性からも憧れられているようで、ときどき桃色の声が遠くから聞こえてくる。自分が街を歩く時とは違った種類の声色に、なんだか面白いなあ、とぼんやりマツバは思う。
「怒らないんですか」
「どうして?」
「だってあなた、ミナキさんの」
「僕だってそう思っているから」
遮るようにして言うと、驚いたようにマツバを見上げたエリカが少し辛そうに瞳を揺らがせた。しかしそれはすぐに隠されて、したたかな乙女の読めない顔色に戻ってしまう。そんな顔をするのなら、初めからあんなことを言わなければいいのに。マツバはなにか気まずい心地に苛まれながらも、とりわけ後悔をしているわけでも、無理をしているわけでもなかった。ただ正直なところを口にしただけだ。エリカの言う通り、ミナキはバトルが弱い。エキセントリックな戦い方は野生ポケモンとのバトルや路上バトルでは有利になるかもしれないが、公式戦ではそんなものは通用しないのだ。バトルというのは知識、努力が不可欠であるけれども、まずそれについてもミナキはマツバやエリカなどに比べれば足りないと言える。それは彼が怠惰であったわけではなく、単に歴史研究へ注ぐ時間がバトルに充てる時間よりも遥かに多かったというだけのことだ。しかしそれを差し置いたとしても、おそらくミナキという男はマツバやエリカ、ほかのジムリーダーほどの実力を得ることはできなかったであろう、とマツバは随分昔から思っている。バトルにおいて最も大切なのは、センス、才能、直観力、そういったいくら磨くにも限界があるどうしようもないものであると、実のところ信じざるを得ない。マツバとて幼いころから必死に修行を積んできた身であるが、それでさえこの程度なのだ。先ごろ若干十歳のマサラ出身トレーナーがロケット団を壊滅させ、そのままの勢いでチャンピオンになったという話をここにいるエリカから聞いて、そう世の中とはそういうものだ、と吃驚とともにやたらと溜息をついてしまったのを覚えている。もちろん努力は惜しまない、けれどどうしようもならないことはある。それがミナキにとってはバトルにおけるあらゆる才能の欠如であると、マツバは認めざるを得ないのだ。
「君もしたことあるんだ、バトル」
「ええ……一度だけ」
「どうだった?」
「……あの人、勝つつもりなんてなかったんじゃないかしら」
わたくしをびっくりさせられれば、それでいいみたいな顔をしていましたもの。エリカはそうぽつりぽつり話しながら少し可笑しそうにほほ笑んで、それから何秒か黙って、変な人ですわよねえ、といやに改まった調子で言った。そんなの今さらだよ、とマツバも笑って返す。あいつより変な奴をマツバは知らない。マツバがジムリーダーになったときもミナキはバトルを申し込んできたが、どちらかといえばコンテストに近い雰囲気であったような気がする。見ている側はそのほうが楽しいのだろうが、あくまでジムとはまっとうな強さを認めるために在る。明らかにスイクンを捕まえるためだけに編成されたポケモンたちを眉を下げて撫でながらマツバはやっぱり強いなあ、なんて笑っているミナキを見たときに、マツバだって思わないわけにはいかなかった。ああきっとミナキ君は、強いトレーナーになる気などさらさらないのだ、ということを。
「伝説のポケモンは、力を認めたトレーナーのもとに現れるのでしょう?」
「うん……そう伝えられている」
「気持ちだけでは、どうにもなりませんのに」
「……そうだね、」
「かわいそうな、ひと」
それだけは言ってやるな、とマツバはヘアバンドの下で眉根を寄せた。ミナキは日頃きっとスイクンを捕まえて見せると豪語しているが、実力的に言えばまだミナキよりもマツバの元へスイクンはやって来るだろう。それくらいにトレーナーとしての力がないことを本当に分からないほど、ミナキは馬鹿な人間ではない。研究においてはそれなりの実績を収めているのだから、余計な傷を負うようなことはしなくてもいいのに、と時折りそんな思いがマツバの胸をよぎるのだが、あれはもう、ただ…純粋な憧れからの行動なのだ。エリカや、マツバを見つめる女性たちのどんな眼差しよりも一途にスイクンの影を追い求めるミナキを、誰が止めることができようか。僕にはとてもできない。それどころか、どうか後生だからミナキ君を悲しませないでくれと、スイクンに願ってしまうくらいには、その透きとおった憧憬が愛おしくてしかたがないのだ。マツバはずきりとした心痛を顔に出さないよう努めながら、エリカのほうを窺い見た。今しがた辛辣な言葉を口にした彼女の声は、ひどく泣きそうな響きを孕んでいた。
「スイクンなんて、現れなければいいのに」
「…………」
「そうすればずっと…傷つかずに済みますもの」
「……エリカ、それでも僕たちは」
「マツバさん」
いくらか歩調を速めたエリカが、すっかりこちらから顔が見えないようにしてしまってからマツバの言葉をふたたび覆った。言いようのない諦念が、二人の間をたゆたう。分かりあえない。伝説に人生をかける人間とそうでない人間という意味では、マツバはミナキと同じ側の存在に他ならないのだ。そうしてそんなことは、エリカもよく知っている。だからあなたの言うことなんて聞きたくないとばかりに早足に、エリカは前を歩いたまま、ただ言葉を連ねるばかりだった。
「あなたにしかできませんわ」
「……、」
「全部終わる日が来たら、ミナキさんのこと」
きっと抱きしめてあげてくださいね。