「この分からず屋め! マツバなどもう知らん、勝手にしろ!」
 声だけでなく肩までいからせてそう言うなり、ミナキはマントをばさばさ翻して出ていってしまった。その背を眺めながらマツバは持ち上げかけていた手を下ろし、やや呆け気味に眉根を開く。ガラガラピシャン!横開きの戸が彼らしからぬ乱暴さで閉まると驚いたらしいポケモン達がわらわらと影から姿を露わして、なにを怒らせたんだ、とゴーストタイプ特有の底のない眼差しで咎めるようにマツバをじっと見た。廊下に取り残されたマツバはそんな視線にはは、と乾いた笑いを見せながら、怒らせちゃったよとヘアバンドをわけもなく弄った。
 休みを取るとか取らないとか、そういう話だったはずだ。このところ修行があまり上手くいっていなくて、停滞期とでもいうのだろうか、とにかくバトルの腕も千里眼のほうも長いこと上達が感じられずに、マツバは少し焦っていた。ジムは視覚に頼らず修行をするにはうってつけの場所であるので、大抵はあそこですべての修行はこなしてしまう。しかしもう一段階厳しい修練をしなければいけないかもしれない、とマツバは最近ずっと考えていたのだ。そのために使うのは、エンジュのシンボルたる鈴の塔。ジムリーダーを継ぐにあたって最も厳しい修行を重ねたあの場所ならば、もしかしたらこのもどかしい現状から脱却できるかもしれない、そう考えていた。
ミナキがエンジュに来ていたのは、まったくの偶然だった。塔に入るからには数日出てこられないことも考えられるし、伝えておかないわけにはいかないと、調査へ出かけようとするミナキを呼びとめて言ったのだ。鈴の塔へ修行に行ってくるから、ちょっと家を空けるかもしれないよ。すると、さもどうでもよいことのように告げたマツバにミナキは一瞬ぽかんとした様子で目を開き、それからみるみるうちに表情を険しくした。そんなことをする必要はないだろうとか、君は焦りすぎているんだとか、ジムはどうするんだとか、ポケモン達はどうするんだとか、あと他にも色々と言っていた気はする。予想外の剣幕に驚きながらも、そのひとつひとつにあくまで穏やかに笑いながら答えたはずだ、と今しがたの応酬を思い出しながらマツバは苦い顔をする。そうやってしばらく問答を続けていたら、それがとどめであった、とばかりにマツバの言葉に怒気をあらわにしたミナキは、あの捨て台詞を残して逃げるように家から出ていってしまったのだった。
(何がいけなかったんだろう)
 思案するマツバの背中をぐいぐいと押してくるのはヨノワール、そしてマフラーを引っ張ってくるのはムウマージである。早く追いかけろということらしいが、分かったからちょっと待って、と踏ん張ってマツバは立ち尽くしたきり顔をしかめる。ミナキが口早にまくしたてるから、いちいち何を喋っていたかなんて覚えていない。最後にミナキ君は何を言って、僕は何と返したのだったか――、
「ゲーン!」
「っうわ、こらゲンガー大人しく……」
「ゲンゲン、ゲンガー」
「えっ……、あ」
 とんとんとん、とマツバの膝を叩いたゲンガーの赤い目がマツバを映すと、途端にぱっと閃いたものがあった。そうして引きずられるようにして辿りついた最後のやり取りに、マツバはばつの悪い思いであああ、と呻いて金の髪をぐしゃりとかき混ぜた。ようやく分かったか、と得意げににたりと笑うゲンガーをひと撫でし、やっちゃったなあと自分でも情けない声を出しながら眉を下げて笑い、マツバは弾かれたように歩き出す。ヨノワールに押されながら、ムウマージに引かれながら、玄関を飛び出した時にはほとんど走りだしていた。







*






 ひとつの思い出がある。
 マツバがまだジムリーダー候補として修行を続けていた頃には、鈴の塔に入って連日厳しい修行を行うことが少なくなかった。すでにミナキとは顔見知りであったものの、さほど仲が良かったわけではない。とにかく性格が正反対であったし、笑って腹のうちを見せないというマツバの傾向をミナキは少々面倒に思っていたようであり、マツバもまたミナキのあけすけな性質を疎ましく思うことがあった。そうはいえども互いに興味はあったし、もっとも話の合う相手でもあった。何よりエンジュの伝説を求めている以上、どうしたって関わらぬわけにはいかない。当時のミナキはまだ各地を駆け回るよりも歴史の調査や資料解読に力を入れていたころで、エンジュを訪れる機会も多く、また滞在する頻度も高かった。ミナキの祖父は当時のエンジュジムリーダー、今の先代にあたる人とは旧知の仲であったから、ミナキがマツバの家に宿をとるようになったのは必然と言えたかもしれない。
『なんだ、また鈴の塔に行くのか?』
『ああ……今が頑張り時だからね』
『この頃あまり寝ていないんじゃないのか、顔色が悪いぜ』
 その日ジムトレーナーとしての仕事と修行を終えて一旦帰ってきたことを、マツバは密かに後悔した。わざわざ居間ではなく自室で夕飯を済ませていたというのに、ミナキときたら声をかけながら襖をがらりと開けるのだ。広い屋敷の中でマツバの部屋と客間はそれなりに離れていたのだが、ミナキは何かと気にかけてマツバの様子を見に来る。いくら同じ夢を追っているとはいっても、これは僕の修行なんだから口を出さないでほしい…そうだいぶ前に言っておいたはずなのだが、ミナキの耳には残っていないのだろうか。とんだお節介焼きだな、と思いながら箸を置き、マツバはミナキを見上げた。相変わらず堅苦しい格好をして、堅苦しい髪型をしている。これでとんだ行動派なんだからいやになるなあ、と内心でごちながら首を回すと、どうやら凝っていたらしい筋がいやな音をたてた。
きみだって本の読みすぎで疲れた顔をしているよ、と笑みを浮かべながら返してやり、マツバは食事もそこそこにモンスターボールを腰につけて立ち上がる。これ以上話しているとイライラしてしまいそうで、修行に差し障りがあるかもしれない。精神の乱れは力の乱れに等しい。おいマツバ、とすれ違いざま慌てたように声をかけてくるミナキをやんわりと振りほどき、マツバは大丈夫だからと目を合わせないままに告げてその場を後にした。ミナキはもう一度気遣わしげに呼んできたものの、後を追ってくるようなことはしなかった。そのことにほっとして、静かに息をつく。君なんかのためにこうもイライラするようじゃあ、僕もまだまだだな。マツバは癖になった形ばかりの笑みすらいびつになっていることを自覚して、そう内証した。




 マツバは、それから二日経っても帰らなかった。
 使用人達の出入りはあったものの、ほかに住む者の居ないマツバの家はひどくがらんとしていた。よくあることだと食事を作りに来たイタコは落ち着いた様子で言い去って行ったものの、まさかこうも長いとは思っていなかったためにミナキは居てもたってもいられず、マツバの師匠であるジムリーダーに会いに行った。しかし彼はどこか弱ったというふうに笑っただけで、マツバを待っていてやってほしいと言うばかりだった。イタコ達に尋ねても、舞妓達に尋ねても、僧侶達に尋ねても同じように言うばかりで、誰もマツバを心配して迎えに行こうなどと言い出す者はいない。それがエンジュのやり方なのです、と、最後に訪れた僧侶はいとも簡単にミナキに告げ、恭しくも有無を言わさず重い扉を閉めてしまった。鈴の塔へ向かうには、そこを通るしかない。今のミナキには、マツバの様子を見に行くことすらできない。
(……しかし、マツバに何かあったらどうする)
 エンジュにはエンジュのしきたりがある、それを侵すようなことはしまい。ミナキは長らくそう思ってきた。しかしこうまでしてマツバを修行に駆りたてる必要が、果たしてあるのだろうか。もしも怪我をしていたら、動けなくなっていたら、取り返しのつかないことになっていたらどうするのか。それでもあの人達は、それがエンジュのやり方だと、澄ました顔で言うのだろうか。ミナキはぞっとして顔を強張らせ、エンジュの街でひときわ高くそびえる鈴の塔をなにか、得体の知れないもののように見上げた。もうすぐ日が沈もうとしている。今夜マツバが帰らなかったら、私はなんとしてでもあそこへ行かなければならない。そうひとり決心し、ミナキは眉をぎゅうとひそめた。






 屋敷の戸ががらがらと重苦しく開いたのは、丑三つ時に差し掛かろうとしていた時分だった。
「ッマツバか!?」
「え……なんで起きてるんだい、ミナキくん……」
 戸に凭れかかるように重みをかけ、足を引きずりながら入ってきたマツバの有様といったら、それはひどいものだった。まずあまり眠っていないのであろう、隈が色濃くできている。髪はもとより無造作であるのに増してぼさぼさで、ヘアバンドはいやに毛羽立ってところどころ擦り切れている。服も似たような状態だった。そして極めつけは、引き摺っている側の膝である。室内でなにをどうしたらそうなるのか、白いズボンは破けて、覗いた肌からは痛々しく血が滲んでいた。ずりり、とうまく動かないらしい足を鳴らして一歩進んだマツバの脇を、ゴーストが懸命に支えている。彼も修行でかなり困憊しているのは明らかで、いまにもふっつりと消えてしまいそうに頼りなかった。
 ミナキは靴下のままマツバの傍まで走り寄ると、ゴーストから受け取るようにしてマツバを支え、どうにか廊下へ上ったところへ座らせた。明かりをつけていなかったために光源はランプのみで、ふたりの周りをぼんやり照らすばかりだ。大丈夫か、と顔を覗きこんで尋ねたミナキに頷いて見せながら、マツバはまた眉をひそめて重い瞼を持ち上げる。そうして口を開こうとしたものの、ミナキが立ちあがるほうが早かった。
「救急箱を持ってくる」
 告げるなりランプを持って奥へと行ってしまったミナキの背を、ぼんやりと見上げる。紫のベストが闇に飲まれると、急にあたりは重く沈みこむような空気に満たされた。ゴーストを休ませたボールを撫でながら、マツバは泥沼に落ちていくのに似た疲労感と戦いつつ、今しがた開きかけた口をのろのろ動かした。
 ミナキくん、
 ほとんど無意識に呟いた名前、それと同時に闇の中で涼しげな色が瞬いた気がして、マツバはなぜか眩しくなって目を細めた。







*






 どうして忘れてしまっていたんだろう、
 ぐるぐる渦巻く後悔に顔をしかめながら、マツバは走っていた。石段を駆け上がる膝はわずかに悲鳴をあげ始めているが、そんなことを気にしている場合ではない。あの時の痛みに比べたら、こんなことはどうということもないのだ。浮遊しているために疲労を感じないムウマージがひゅるりと鳴いてぐんぐん上へ飛んでいくのを視界の端に入れながら、マツバは耳元で騒ぐ心音と、自らの速い呼吸を聞いている――。
『はあ?鈴の塔に登ろうとしていたって…はは、無理無理…きみじゃあ五秒で倒れるよ』
『ごびょっ……いや、確かにそうかもしれないが……だがな、』
『ゴーストの回復も、手当てしてくれたのも有り難いと思ってるよ……でも本当は、僕ひとりでやらなきゃいけなかったんだ』
 捲り上げたズボンを下ろしながら呟いたマツバに不服そうな顔をして、ミナキは救急箱の蓋を閉じた。消毒液のつんとした臭いが鼻をつく。マツバの膝に手際よく包帯を巻きつけたのは、ミナキではなくマツバ本人だった。僕は自分でできるから、ミナキ君はゴーストの回復に行ってくれないか。救急箱を取って戻ってきたミナキにマツバはそう言って、ゴーストのモンスターボールを差し出してきたのだ。ミナキは夜のしんとしたエンジュの街を走り、そこだけぽかりと浮かんだように明るいポケモンセンターのドアをくぐった。お願いしますとボールを出した時、ジョーイがどこか意表をつかれたように、しかしすぐにほっとしたように笑ったことを、鮮明に覚えている。
『塔の中は入り組んでいるんだろう?暗闇でしかも強い野生ポケモンがうじゃうじゃしている……そんなところで頑張ってきただけでも、マツバは十分よくやったじゃないか』
『甘いんだよ、ミナキ君は。他の皆がしたように、きみも放っておいてくれればよかったんだ』
『放っておいたじゃないか、結果的にマツバはひとりでここまで帰ってきた』
『そうじゃない、そうじゃなくて……僕の修行のことなんか、気にしなくていいっていうことさ』
 君は物分かりがいいんだから、これ以上言わせないでよ。マツバの語調にはそんな拒絶が見てとれて、ミナキは寸分押し黙った。ああこんなことを言ってやるつもりじゃあなかったのに、とマツバは内心後悔しながらも、俯きがちにミナキの顔を見つめる。利発なくせに頑なに眉をひそめている、ミナキの色素の薄い整った面立ち。それが自分のためにこんな表情をしているのだ、と考えて、マツバはまたイライラとした気持ちに襲われた。
『……実はね、この怪我はきみのせいでもあるかもしれないよ……ミナキ君』
『え……』
『きみのことが、どうしても頭から離れない』
『……マツバ?』
 怪訝なまなざしをじっと向けてくるミナキから、マツバは目を逸らした。
『僕は君のことが、嫌いなのかもしれない』
 大きく見開かれたミナキの瞳が、驚きと動揺に揺らいでいる。
 どうしてこんなことまで言っているんだろうと、本格的にマツバは自分を叱咤した。胸がずきずきと痛い。膝の痛みよりもはるかにあてどもなく抉るようなこの痛みは、こうやってミナキのことを考えると時折り襲ってくるものだった。伝説と修行に捧げるべく人生を定められた自分を、ミナキはまるでただの友人のように扱う。自分よりバトルも弱ければなんの力もないくせに、さも自分のことのように心配してきて、構ってきて、そうやってぼくが笑顔で包みこんでいた感情を引きだそうとする。ミナキ君のことを考えると、僕はうまく感情をコントロールすることができない。自分の未熟さを人のせいにするなんて、最低だとは思っているけれど――きみのせいで僕は、修行に身が入らないんだ。
『マツバ……言いたいことは、言っていいんだぜ』
『っ……きみのそういうところが、嫌いなんだ』
『ああ、』
『どうして何でも、言わないと分からないんだ……いや、言っても分からないし、お節介じゃないか、放っておいてくれって言ってるのに……そうすればきみと、上手くやっていけるかもしれないのにっ』
『……ああ、それから?』
『もういいよ、部屋へ戻って寝ればいい……きみを見てると、酷いことを言ってしまいそうなんだ……ッ』
『――マツバ、いいから』
『……なに、』
『いいから、全部言ってしまえ』
 そっと頭を撫でられて、マツバはカッと熱いものを感じてきつく目を瞑った。きみには耳がついてないのか!思わず叫びそうになり、ミナキの胸ぐらを掴んで引き寄せながら、その肩にぶつかるようにして頭を押しつけた。息を飲む音と、自分の心音しか聞こえない。腹の底からものすごいで登ってくるどす黒いものが、苦しさに喘いで逃げ場所を求めている。
 ぐうっ、と歯を食いしばってから、マツバは口を開いた。
『きみが今すぐ、この世から消えてしまえばいいのに』
『っ……』
『そう、っすれば……もっと、うまく生きられるのに!』
 押し殺した悲鳴のようだった。
 もうこれでお終いだ、と思った。それでもマツバは、ミナキの服を離すことができずにいた。押し付けた肩が強張っているのに気づきながらも、自分から離れることが出来ないことを、きっとミナキは卑怯だと思っているだろう。マツバもなぜそうしているのか、よく分からなかった。いまだ頭に手を置いているミナキの手のひらは、ひどく温かい。
『……マツバ、きみは私が憎らしいか?』
『っ……ちがう、僕はきみがとても、羨ましい……僕に出来ないことを平気でして、皆がしないことを平気でして、だから、きみを見ていると、すごく苦しいんだ……っ』
 堰を切ってあふれてくる感情は、もうマツバの言うことを聞いてはくれない。
『マツバ……私も、君と私があまり合わない気質だというのは、分かってる』
『、っ……』
『でもなマツバ、すまないが……今なら君のことを、好きになれそうな気がするんだ』
『……は、』
『ちゃんと言えるじゃないか、自分の気持ちを…へらへら笑わずに、ぶつけられるじゃないか』
 ミナキは言葉を切ると、マツバの背にぎゅっと腕を回した。
『マツバ、私はそんなふうに思ってもらえるような人間じゃないが……君のそういう私への気持ちは、きっとしっかり向き合わなければいけないものだ』
『…分からない、』
『ふふ、私はこの世からいなくなれないし…きっとマツバから離れることも、できない……だって心配だからな、きみが』
『っお節介め……きみの、そういうところが、』
『……ああ、』
『そういう優しいところが、いやなんだよ……っ』
 胸倉から手を離して抱きつけば、答えるようにミナキも腕に力を込めた。鳩尾からあふれ上がってきていたものは、いつの間にかすっかり出しきってしまったのか、どこかへ消えてなくなっている。代わりにただ、胸がいっぱいだった。いままでに感じたことのないほどに熱くて、ひとりでは抱えきれないもので、それをミナキに受け取ってほしくて、たまらなかった。何度も何度も頭を撫でるてのひらと、どんなにきつく抱きしめてもきっと笑っているであろう、ミナキの眼差し。
『君はいままで、私のせいで苦しい思いをしたんだろう?』
『ッ……それは、』
『私もさっきの言葉には、傷ついた』
『……ミナキくん、』
『そうやって、みんな生きていくものなんだぜ』
 全か無かの法則なんて、ひとの心には通用しない。君は上手く生きていきたいと言ったが、そんなことはいくら修行したって、出来ることじゃない。人と関わって生きていくというのは、傷つけあってもお互いでそれを、癒していけるということだ。私はマツバにそのことを……知ってほしいと思うんだ。







*






『好きになれる、って本当かい』
『ああ』
『酷いことを言ったのに』
 締めつけるような抱擁をほどき、壁に寄り掛かって隣同士に座っているミナキの顔を見ないままマツバが不貞腐れた声色でそう呟いたので、ミナキはちょっと可笑しくなって静かに笑った。ふたりの間にはランプが置かれている。その目に優しい橙の明かりを眺めてから、逆だな、と言ってミナキは首を傾けつつマツバを見やった。
『マツバが気持ちをぶちまけてくれたから、見直したんだ』
 それに私だって、マツバと同じような気持ちは知っているから…本当に私がいなくなればいいと思っているわけじゃないことは、分かっていたさ。ミナキは少し居心地が悪そうに肩を竦めながら、目前の薄闇に視線を向けてそう続けた。伏し目がちにしている、普段は強い意志を孕んでいる瞳がどことなく滲んでいるような気がして、マツバは少なからず驚きながらミナキの横顔を見つめた。あんな得体の知れない気持ちを、ミナキも抱いたことがあるということ。その事実ははマツバにとって、安堵をもたらすものでもあり、またわけもなく苦しみを与えてくるものでもあった。ああこの痛みだ、と奥歯を噛む。ミナキくんが笑っていても苦しいのに、そうでないともっと苦しい。許せない。ミナキくんはいつでも、笑っていなければいけないのに。マツバは自分の中でそんな矛盾したような気持ちが渦を巻いていることを実感して、ミナキと同じように目を伏せて、闇に飲まれがちな爪先のあたりをじっと見た。
『なあマツバ、私はエンジュの人間ではないから』
『……うん、』
『どうしても君を、心配してしまう……疎ましいだろうが、それは許してくれないか』
 顔を向けると、ミナキもまたマツバのほうへ首を回していた。一寸言葉を失って、ランプの明かりに照らされた面差しを食い入るように見つめる。笑顔までいかない、ほんの僅かに目元をもちあげた、真剣な、だけど不安げなミナキの表情に、喉の奥がにわかに詰まった。
(そんなこと、きみが許しを乞うようなことじゃあないのに、)
 エンジュの修験者である以上、マツバが望んだって誰も与えらることのできないものを、ミナキは与えてくれようと言っている。それをマツバが拒んでも、どうか、と言ってこんな顔をしてくれている。親にだって言われたことのないような、向けられたことのないような、ひたすらに優しい、裏のない感情。
『……きみに、甘えるかもしれないよ』
『もちろん、そうしてくれ』
『きみを苦しめるようなことを、言うかもしれない』
『ああ、』
『――きみを』
 手放せなくなるかもしれない、
 最後まで言えたか分からないうちに目を逸らし、項垂れて口を引き結んだ。今日は言うはずのないことばかり紡ぎだすこの口が、今度もまたひどくおかしな言葉をマツバの中から見つけ出してしまった。ものの数分でまるっきり言っていることが反転したじゃないか、熱くなる顔の筋肉をむずむずと意味もなく動かしながらそう自らに呆然としていると、隣でミナキが身じろいだのか衣擦れの音がして、いっそう心音が痛くなってくる。
 僕はいつもこうだ、と緩く拳を握りながら目を瞑る。手に入れたものをなくしてしまうのが、とても怖いのだ。初めから持っていたものだけで組み上がってきた自分の世界で、ミナキという男はひたすらに奇妙な光を放っていた。ちかちかとして、それがひどく鬱陶しくて、だけどふとした瞬間、それはもう泣きたいくらいに、綺麗なのだ。そんなものを掴むことができたとして、もしなくしてしまうことがあったら――きっと、耐えられない。
『大丈夫さ、マツバ』
 そっと差し入れるような声に、息が止まる。
『どうして、そう言えるの』
『はは、なんとなく……、だがきっと私たちは…離れようと思っても、そうそう離れられるものじゃないよ』
『……ミナキくん、』
『うん?』
『もう、きみに…あんなことは言わないから』
 ランプを手に、のそりと音がしそうな緩慢さでマツバは立ち上がった。感情の波がすさまじくて忘れかけていたけれど、修行上りの体はひどく重かった。ふらつきそうになるのを慌てて支えてきたミナキが、それは、とかけられた台詞にいぶかしむ声を出す。
『僕にお節介を焼くような人が、ひとりぐらい居たって……バチは当たらないよ』
『……! マツバ、』
『はは…だけどねえ、僕だってきみのことは、これでも心配しているんだぞ』
 そんなんじゃあ、いつどこで痛い目に遭ったって、文句は言えないよ。マツバはミナキに支えられながら内心でそうつけ足して、薄らと笑みを浮かべた。意図してではない、なぜだか自然と綻んでしまっていた。今まで苛立ちと眩しさに遮られてうまく言えなかった、しかしてそれがマツバがミナキに対して抱いている、唯一自覚できている気持ちだった。
 私は何か心配をかけていただろうか、そういたって真面目に返してくるミナキにまた乾いた笑いを漏らしながら、マツバはそれ以上何も言わずにただ、眠たくなってきた瞼を半分だけ開けて、ずるずると足を引きずりがちにしながら廊下を進んだ。








*






 思えば、偉そうな口を利いたものだ。
 さらさらと葉末を鳴らす風に前髪を泳がせながら、ミナキはやわらかに降りそそぐ木漏れ日を浴びて虚空を眺めていた。大きな石灯篭に背を預けているとひやりとした感触が伸びてきて、どこか後ろへ引き込まれるような心地がする。小さな社のある高台の公園はずいぶんと古いもののようで、だけれども古いままでずっと昔から変わらないところが、ミナキは好きだった。ここはずうっと同じままであり続けているのに、私達はなんて変わってしまったんだろうなあ。腕組みをゆるく解きながらそう思ってふふっと笑い、再びゆっくり瞼を閉じながら、ミナキは石灯篭から背を離した。
『君には、関係ないことだよ』
 あんなこと、昔はそれこそ毎日のように言われていた。
 何もかも覆い隠してしまう、底のない、輪郭のおぼろなマツバのほほ笑みと共に向けられる拒絶を実に疎ましく思いながらも、ミナキは放っておくことができなかった。お節介だの場を読めないだのと幾度となく言われて、そのたびにエンジュ民とはなんてまどろっこしい生き方をしているんだと顔をしかめ、それでも諦めなかった自分を、今では褒めてやりたいと思っている。自分と同じ、いや自分よりも重いものをいくつも背負いながら、だけどマツバが見ている夢は、自分ととても近かった。分かり合えないはずがないと信じていた。伝説を見つめるまなざしに熱いものが赫灼としているのを、確かにこの目は映していたから。
 そうやって、あの夜があって、少しずつマツバとの関係は変わってきた。今では驚くくらい、時に戸惑うことすらあるほどに感情をぶつけてくるマツバに、だからどうにも安心しすぎていたのかもしれないな。ミナキは自らの髪を撫でつけるようにいじりながらそう苦笑して、遅れてやってきた気まずさを逃がすべく息をついた。
(あんなに辛くなるとは、思わなかった)
 本来ならばどこまでも食い下がって、マツバが無理をするのをやめさせるのが自分のやり方なのだろうに…笑顔でああ言われた途端にやけに苦しくなってしまい、捨て台詞を吐いて家を飛び出してきてしまった。それでこんなところに居るのだから、まったく女々しくなったものだと思う。マツバに柔らかく拒絶されることになど慣れきっていたはずの自分が、いつの間にかこんなにもマツバに甘えていた。拒絶などもうされないだろうという甘えがあった。いくら親しい仲になれど、ここまでショックを受けるようなことではいけなかった――反省しなくてはなるまい。


「ん?」
 いつまでもこうしていては、それこそ女々しさに拍車をかける…そうかぶりを振って、来た道を戻らなければと石段を見やった時だった。ひらひらと薄闇が踊ったのが目に映り、一瞬なにか見間違いかと目を擦ったものの、それはどうやらしっかりと形を成して宙に浮かんでいる。むう、となんとなく嬉しそうな声をあげたムウマージはミナキを見つけるなり速度をあげて、瞬く間にすぐそこまで飛んできた。ひゅるりら、と不思議な響きで鳴く魔法使いのようなシルエットに、曇りがちだった顔がふっと和らぐ。ムウマージはさまざまな呪文を唱えるというが、きっと今のはよい呪文なんだろう。そう思いながら帽子をかたどった頭部をそっと撫でてやる。
「なあ、ムウマージ。マツバは、」
「ムゥムゥ、マージ」
 流し目のような眼差しがついっと示したので、そちらに向き直る。すると地面から生えてくるようにして金色と、紫色が石段の下からやってきたので、一寸呆けてからミナキは今度こそ破顔した。長い段を駆け上がってきたらしいマツバの顔は、ここ最近見たことがないくらい険しいものだったからだ。マツバの背を押してきたらしいヨノワールが、こちらを見てどことなくほっとしたように赤い目をぱちぱちとさせる。君まで来てくれたのか、と可笑しいようなすまないような気分で片手を振ってから、ミナキはムウマージと一緒にマツバの元へと走り寄った。
「っミナキ、くん……やっぱり、ここにいたね、」
「ああ……それより、大丈夫か?」
 肩で息をしているマツバの背をさするヨノワールの大きい手を眺めつつ顔を覗きこむと、どうやら見られたくないようで、顔を背けながら呼吸のついでのようにマツバは頷いた。体力がないわけではないが、走ったり跳んだりというのは苦手らしい。思いがけず走らせてしまったことには申し訳ないと思いながらも、ここまで全力で急いでくれたのだと思うと幾分か喜ばしくもあるな、と内心そんなことを考えてしまい、ミナキは複雑な笑みを浮かべた。
「すまなかったな、マツバ」
 マツバの息が落ち着いたところでそう告げると、しまった、というような目をしてマツバは眉根を寄せた。僕が謝ろうと思っていたのに、と拗ねたように呟いてから大きく息をつく。それが分かっていたから先手を打ったのだ…とは言わずにただその様子を見ていると、もどかしそうに何事かを思案する顔立ちになり、それから一歩距離を詰めて、マツバはミナキのマントの左右を握ってぐい、と自らのほうへと引き寄せた。「っわ、」思いがけない行動にぎょっとしつつ倒れこまないように足を動かしたものの、引っ張られたのか押されたのか分からないような勢いにはどうしようもない。正面からぶつかるかたちでマツバと密着してから、ぐっと肩を押してわずかな隙間を作り、顔を後ろへ引く。これはあの時の速度感に似ているな、と思って少し懐かしくなった。
「ありがとう」
「なに?」
「僕を心配してくれて」
 喋りながら抱きしめてきたマツバは、片手をミナキの後頭部に添えた。ああもしかしなくとも、と熱を感じながらされるままになってやり、ミナキは今しがたの言葉を脳内で反芻してくすぐったい心地になった。世話を焼き、心配をして感謝されるなど、あの時は到底考えられなかったことだ。なにやら感動らしきものが押し寄せて鼻の奥が湿っぽくなり、すん、と鳴らすとマツバの手がぎくりとしたように強張る。もしかして泣いてるの、と恐る恐るといった様子で尋ねられて、ふふふっと堪え切れずにミナキはマツバのマフラーに顔を埋めて笑ってしまった。
「っふ……マツバがそんな、ことを言うとはっ……はは!」
「ちょっと、笑うところじゃないだろ」
「いや、マツバが男前になったので…ふふ、嬉しいんだ」
「……きみは昔よりお茶目になったよね」
 まあいいや…と拍子抜けしたようにミナキの髪を撫でながら、きみが元気そうで安心したよ、とマツバは肩の力を逃がした。そのトーンに、あの夜言われたことを思い起こす。当時はいまいちピンとこなかったのだが、ようやっとマツバが自分を気にかけているというニュアンスが分かったように思われて、また腹を震わせながらミナキは笑った。拍子抜けしてしまったのは、こちらも同じだ。
「ねえミナキ君…ごめん、お言葉に甘えて僕は…やっぱり、勝手にさせてもらうけど、」
「……ああ、」
「また僕の帰りを、待っていてくれるかい」
 小さくも芯のある声と、甘えを込めて耳に擦り寄ってきた柔らかい髪が、ミナキの耳をくすぐる。こんな風に言われては、待たないわけにはいくまいよ。そんな想いを込めて背をぽんと叩きながら、ああ、と頷いて顔をあげた。頑張ってこい。短く告げると、はにかんだようにマツバは笑みをこぼした。
「ミナキ君、もう一回言って」
「ん? しかたないな……頑張ってくるんだぜ、マツバ」
 自分の声でこんなにも嬉しそうに笑う相手がいるというのは、なんと幸せなことだろうか。ミナキは胸に湧くじわじわとしたぬくみに頬を緩め、マツバが現れるまでに渦巻いていた自嘲などどこかへ吹き飛んでしまったらしい、と我が身の切り替えの速さにまたしても笑いだしたい気分になった。
 いいだろう、待っていてあげようじゃないか。どんなにぼろぼろに薄汚れて帰ってきても、必ず真っ先に抱きしめてやるから――安心して修行にいってくるといい。