ポケギアを片手に穏やかな顔をして相槌を打っているマツバを眺めながら、急須に茶葉とお湯を注いでしばらく蒸らす。勝手知ったる家とは申せ、こちらは来訪者という立場なのではじめは勝手に戸棚を開けることも許されなかったのだが、しばらく一緒に過ごすうちにあちらも絆された、というよりはどうでもよくなってしまったらしい。襖に寄り掛かって通話を続けているマツバはいつもより饒舌になっているようで、取り留めのない話題を繋げてはなかなかポケギアを切ろうとはしない。久しぶりに声が聞けたからって、そんなに嬉しいものだろうか。やや鼻白みそうになっていると、不意にむらさきの視線がぶつかってきてぎくりとした。ちょいちょい、と空いているほうの指をこっちに向かって指示してくる。なんだと訝りながら卓袱台の上を見ると茶筒の中蓋を閉め忘れていたようで、はは、と乾いた笑いをこぼしながら半透明のそれを閉めた。マツバの声は柔らかく他愛なくあちらがわへ流れているが、目だけがしっかりとこちらの様子を捉えているのが流石だなと思う。あいつはぼーっとしているようで、大抵のものはちゃんと見ているのだ。
「うん、それじゃあ気をつけておいでよ」
ああそろそろ切りそうだ、と耳に入ってきたその言葉に思考を中断させて、急須のお茶をふたつの湯飲みに注ぐ。いくらか出すぎてしまったようで緑色が濃い。湯気の立ちのぼるマツバの湯飲みを覗きこみ、しまったなあと口には出さずに呟いた。だけどそのうちに白くぼんやり煙っているなかに珍しいものを見つけて、あっと今度は音に出して眉をもちあげた。
「なんだ、随分濃くなってるね」
「蒸らしすぎてさ……それよりほら、見てよ」
「ん?」
「茶柱」
ポケギアをポケットに仕舞いこんで座ったマツバにずいと湯飲みを近づけると、覗きこんでマツバも驚いたように眉をあげた。今しがた僕もきっと似たような顔をしたんだろうな、とひとりでに頬を緩ませていると、マツバもやっぱり気の抜けた笑みを浮かべて「へえ珍しい、」としげしげお茶を見つめている。僕はやけに満足しながらずずずと熱いお茶を飲み、きっとあいつが来るからだろうねえとひとり言っぽく呟いた。それじゃあ順番が逆じゃないかと呆れたようにマツバは返してきたものの、あながち間違っている訳でもないと思っているに違いない。久しぶりにこっちに来れるということでただでさえ楽しみにしていたのに、もうすぐ着くという電話をあれだけ長引かせていたのだ。茶柱が立つほどに良いことなんて、マツバにとってはいくつもない。お前がよっぽど嬉しそうだったから、茶柱も気を利かせてくれたのさ。そう頬杖をついて笑えば、眠たそうな目でやれやれとこどもを見るように僕を眺め、それからマツバは肩を竦めてお茶をゆっくりと啜った。
「お前が羨ましいよ」
「どうして」
「だって僕は――あいつみたいな友人はいなかったから」



初めて僕らがこの世界で出会ったとき、正直僕はなぜここに居るのかよく分からなかった。記憶がひどくぼやけていた。同じ顔をした男が僕を驚いたように見つめていて、きみはなんだ、と短く聞いたのがはじめの会話だった。そいつは名前も声も喋り方もほとんど僕と同じだったけれど、瞳の色が違っていた。僕のものより暗いのに、どこか温かい色をしていた。
目が痛くなるほどの紅い並木の真ん中でマフラーをなびかせたそいつの話を聞いていて、だんだんと僕は昔のことを思い出した。僕はこの世界の人間ではない。ちょうどそいつがこの世界で立っているところに、あちらの世界の僕が立っていた。僕の世界に帰らなければならない、そう言った僕にそいつはちょっと辛そうに眉をひそめて、いいやきみはもう帰れない、ごらん、とゆっくり僕の胸のあたりを指差した。僕は自分の足元へ向かって目線を下げ、そしてあっと目を見開いた。ぼくのからだは――うすぼんやりと、透けていたのだ。
『きみがどうしてこっちに来てしまったのかは分からないけど……そのままではいけないね、僕のところへ来るといい』
マツバは何かを悟ったのか、それとも考えることをやめてしまったのか、思考の読めない垂れがちな目でじっと僕を見ながら手をとった。半透明なのにちゃんと掴めるんだなあ、と間の抜けた感動をしてしまってから、僕はやっぱりまたぼんやりとしてきて、まあそれでいいのだろうと思いながらマツバのあとを大人しくついていった。はらはら落ちてくる紅葉を見上げ、ここへ来るすぐ前のことを思い出そうとしたものの、そのあたりはやっぱり思い出せなかった。マツバが語った夢と、まったく同じ夢を僕も持っていた。だけどそれがどうなったのか…はたまたどうもなっていないのか、近くなればなるほど記憶はぽっかりと白くなって、考えることをやめるように僕に優しくするのだった。
『ミナキ君、』
マツバが、ひときわ親しげに名前を呼ぶ男がいる。僕はそいつを初めて目にしたときになんて快活でなんて派手な格好をしているんだ、と呆気にとられたものだったが、すぐにひどく羨ましくなってしまった。ミナキがではない、マツバが。僕とおまえは同じであるはずなのに、マツバにとってのあのミナキという男だけが僕にはないものだった。スイクンを追っているのだというミナキは風のようにエンジュにやって来ては風のように去っていき、またあるときは数週間も滞在して資料を読み漁ったり、たまにマツバとどこかへ出掛けては楽しげに過ごしたりしていた。僕はマツバの屋敷に住んでいたけれど、あいつが来ている間は姿を見せないように隠れていた。他の誰かに見られてはいけない、というのが、マツバと僕の間で交わされた暗黙の約束だった。
『マツバ』
あいつがマツバを呼ぶたびに、胸が焼けるように熱かった。僕だってマツバなのに、どうして僕にはお前がいなかったんだ。重責も不安もなんだって笑顔で受け容れてくれる、お前のような存在がもしも、居てくれたなら、
――居てくれたなら、


「おういマツバ、どうかした?」
「……なんでもない」
「ふふ…君には茶柱が立たなかったから拗ねてるんだろう」
「違うよ、子どもじゃないんだから……」
すっかりぬるくなってしまったお茶を飲みほして、にやにやと僕を見ているマツバを睨む。こいつが僕をマツバと呼ぶときにはわざとイントネーションを逆にしているけれど、ミナキが呼ぶのは僕ではなくこいつのほうのイントネーションだから、あまり面白くないのが正直なところだった。さてもう少しで来るはずだから、ミナキ君の湯飲みを用意しないとな。のんびりした口調で膝をたてて立つマツバの仕草を目で追いながら、僕はまた胸の奥がちりちりと痛むような感覚に顔をしかめた。ずるい、僕だってミナキに名前を呼んでほしい。そう一言言ってみたらこいつはどんな返答をしてくるのかと考えはすれど、この煮えるような気持ちを知られたくなくて何も口に出すことはできない。
「ねえ、マツバ」
「……ん?」
「ミナキ君になら、知られてもいいんじゃないかと思うんだ」
ばっ! と顔を上げる。その勢いがあまりのものだったのか、首だけを回してこちらを見下ろしていたマツバは可笑しそうに噴き出した。やっぱりきみも同じことを考えていたのか、と紫のまなざしを和らげながら言うマツバをどんな風に見ていいのか分からないまま黙って凝視していると、僕の胸のうちを読んだように深くマツバは頷いて、それから戸棚からひとつ湯飲みを取り出すと、ゆっくり元の場所へ腰を下ろした。
「ミナキ君なら、大丈夫さ」
「……マツバ」
「だけど、ミナキ君は僕の友人だから」
それだけは、よく覚えておいてくれ。マツバはいつものぼんやりとした面持ちからバトルの時のような鋭さを滲ませて、僕の両目を射抜くようにそう告げた。高揚感にも似た震えに背筋を伸ばし、僕もまた顔を引き締めて笑んで見せる。「いいよ、でも…僕だってマツバだ」瞳を逸らさないまま返せばマツバはそっくり同じように笑って、それから遠くを見るように、日差しの差し込む障子のあちら側へと視線を投げた。
もうすぐミナキがやって来る。