振袖が着たいというので舞妓に頼んで用意してもらうと、それはそれは嬉しそうに彼女は笑った。
薄紅と菖蒲色を合わせた小花柄の春めかしい袖をひらひらと遊ばせて、袖口をつまみながら、少し腰を反らせながらくるり回って見せるそのさまは瞳の色彩をにわかに明るくする。飴色の髪は、彼女のまとう気の柔らかさにひどく似合っている。大きめに結んだ帯はさながら一輪の花のようだ。歌舞練場に居ても少しだっておかしくはないだろう、といかにも慣れ親しんだ身のこなしに思わず見とれながら、タマオの審美眼にマツバは嘆息した。
きっとお似合いになりますえ、白く装ったかんばせが常の笑みをどこかへ潜ませて告げた、あの言葉がリフレインする。ここまで似合わなくたってよかった、というのが素直な気持ちだった。彼女はつまりマツバが与えさえすれば何だって喜んでくれるはずであったから、こんなに馴染んでしまう必要どなかった。陽光を受けた春空、あるいはきらきらと輝く初夏のような翡翠の眼差しと、撫でつけられた淡い色のすべらかな髪。それらすべての彩りを引き立てる小花柄。きっと彼女の本来の姿にもよく似合っているのだろう、と根拠などないのに確信して、マツバはようやっと放棄していた瞬きをする。マツバさま。腹の底をふるわせるような、優しい響きに息を飲む。
「似合うでしょうか」
「……ああ、とても可愛いよ」
ふふふ、と袖を口元にあてて笑う。
また舞いを踊るように、くるりと回る。
たおやかにしてしなやか。
とてもそれが、ミナキの体とは思えないほど。
(――眩暈がする)
彼女の名はミズナという。
確かめようもないが、ミナキの意識を隠してしまったときに彼女自身がそう述べたのだから、そうなのだろう。少し響きが似ているところがいやだ、とマツバは思う。すすす、と最小限の動きでこちらへ寄ってきたミナキのすらりとした肢体が少女じみた着物に彩られていることに居た堪れくなって視線を目前のみに集めれば、綻んだ目元がいっそう嬉しげにほんのりと染まって、彼女はほんとうに綺麗に笑った。
かのじょ、と称することをやめることができないのは、どうあってもそこに居るのがミナキだとマツバには思えないためである。彼ほどの容姿であっても中性的なそれとは違う目鼻立ちや体つきを有しているのだから、本来ならばこんなことになってしまえば気色悪くて仕方がないし、今だっていくら色合いが似合っていようとも単なる奇抜な女装にしか見えなくてしかるべきだ。それなのに、目を瞑りたくなるほどにミズナはミナキの肉体を我が物にしている。幼少から鍛えられた女形であってもこうはならない、そうマツバはしばらく彼女と共に過ごして愕然とした。表情、口調、仕草からなにひとつとっても、それはもはやミナキではなかった。ミナキ君の声帯はこんな音を出せるのか、ミナキ君の顔はこんな表情ができるのか、ミナキ君の手足はこんなに柔らかく動くのか。一刻ごとに彼のすべてが男であったころの面影を失っていることに言葉をなくしても、ミナキの顔でミズナはただしとやかに、愛おしげに微笑んで首を傾げるばかりだった。
『どうしてミナキ君に憑いた』
鋭く問いかけたマツバに、彼女はこう答えた。
『あなた様がいっとう愛しているのは…この御人ですもの』
ぐわんと意識が揺さぶられた。薄闇のふところで、まだミナキのままの装いのまま、影をはらんだ白い顔が滲むように笑っていた。手袋に包まれた掌が、そっとミナキ自身の胸に触れる。あたたかい。飲み込むような吐息がこぼれ、その時にはもう、ミナキを取り巻く雰囲気はすっかりかたちを変えてしまっていた。秋めいた、肌を冷やすひゅうひゅうとした風が吹き抜ける。月の冴え冴えとした夜のことだった。
「これでマツバ様は、私を好いてくださるでしょうか……」
気づけばふたりして座り込み、マツバの膝にそっと手を置いて彼女は瞳を揺らめかせている。知らず知らず息を飲み、マツバは投げ出した足先に力をいれてずりりと座ったまま後ずさった。それを追うようにして膝を寄せる彼女の前髪が、はらりと流れる。その前髪のかたちがミナキであったころとは僅かに違うのが、マツバの心臓をいっそうぐらつかせる。より色っぽく見せようと、彼女がそうしたのだ。四つん這いになってかすかに腰をくぼませ、上目遣いに見上げてくる翡翠のまなこ。飴色の睫毛がいやに際立って見えるのも、彼女がそうしようとしてやっているのだとしたら――なんておそろしいことなのだろう。
「ミズナ……綺麗だよ、でも」
壊れものに触れるように薄紅をさした頬に触れ、その指にうっとりと細められた双眸に呼吸を忘れる。凛としていたはずの眉が、八のかたちを描いてどこか切なげに映る。そんな顔をしないでほしい、ミナキ君の器を借りて…そんな、恋に溺れるような顔を。マツバは渇ききっているはずの口内に溜まったなにかをごくり、と嚥下して、ゆっくり手を反転させながら髪の生え際までを撫でた。言葉の続きを紡がなければならないのに、喉がまったく動いてくれない。ぼくは、ぼくは、と言いだそうとしたまま下手な呼吸ばかり繰り返して、時を忘れたかのごとくそうやって、いつまでも美しいミナキの体と向き合っていることを、心のどこかで望んでいたのかもしれない。
(僕は、何よりミナキ君の心を…愛しているんだ)
そう一言で済むはずのいらえを、ミナキの顔をした娘が泣くところを見たくないがために、告げることができない――、マツバは眦を持ち上げながら、自らの愚かしさに瞑目した。














曰く、彼女はマツバがジムリーダーになるよりも昔から、ずっとマツバを慕っていたのだという。
彼女の存在にずっと気づかずにいたお前にも、責任はある。先代が着物の袖を筒にして腕組みしながらそう言ったので、マツバは流石にむっとした顔を隠せずに目を逸らした。大きな木目の長机には、菓子鉢が飾り物のように置いてある。ここに来るのは久しぶりであるのに、和やかな話ひとつできない、と考えるだけ詮無いひとりごとを霧散させてかぶりを振ると、それとおなじタイミングでぱりっ、と何とも気の抜けた音がした。空気が動く。イタコのスズコが硬焼きのせんべいを齧っていた。思わず視線を向けてしまえば、にいと何事かを含んだように笑って、彼女は湯飲み煎茶をすすった。湯気はもう、とっくに消えてしまっている。
「そんな顔をするでないよ、マツバ」
「分かってるよ、でも」
「お前さんに見えんものが、わしらに見えるもんかね」
押し黙る。マツバはエンジュでも群を抜いた力を持っている、そのことは誰よりもマツバ自身が知っているだけに、今しがたの先代の言いようにも確かに頷くしかないのだった。ずっとマツバを慕っていたのだというあの娘の霊に、もっと早く気づいていれば。こんなことにはならなかっただろうに。ミナキがとり憑かれてからこちら、ずっと胸のうちで蟠っていた後悔がいよいよ大きくなる。よりによってどうして、どうしてミナキ君に憑いたんだ。訳などすでに分かり切っているのに、その念がぐるぐると渦巻いて、脳裏に浮かぶミナキの快活な面差しを塗り潰してゆく。
「ほらマツバはん……あんまり自分を責めたらあきまへん」
とん、と控えめにマツバの腕に触れた細い指。机を囲んでいた最後のひとり、タマオは気遣わしげに黒い瞳を向けながら、それでも口元にはひとひらの笑みを絶やさない。こういう時に女性は強いものだ、と何とはなしに内証してからマツバも幾分か気持ちを落ち着かせ、タマオに頷いて見せた。
「マツバはん、これ……昨日渡せなかったんやけど、ミナキはん……やないね、ミズナはんに」
「……でも、こんなものまで」
「きっとお洒落もあんまりできなかったんよ……マツバはんの気持ちも分かりますけど、今はもうしばらく、楽しい思いをさせてあげたいんどす」
タマオは憂いを帯びた表情でそう言うと、懐からそっと出した花飾りをマツバに手渡した。先日用意してくれた着物とよく合っているそれに複雑な思いを抱きながらも、少し笑って受け取る。ほんのわずかな諦念。おんなごころなど分からないはずのマツバではあれど、タマオの気持ちが汲みとれないほど鈍いわけではなかった。きみにはお世話になりっぱなしだね。息をつきながら呟けば、眉を下げてタマオはほほ笑んだ。
「そう……とにかく今は、ミズナとやらを大事にしてやることじゃ、マツバ」
花飾りを見つめながら重く呟いた先代の言葉が、いやに沁みる。今度はすぐに頷いた。
この場に居るような面々ならばともかく、常人であるミナキの体を守るためには。そうするのが最善であったのだ。


ジムの仕事があるからと家を出たはずのマツバがずいぶんと早く帰ってきたので、彼女は嬉しそうに出迎えた。とはいえ玄関ではない。イタコさん達に札を作ってもらって結界を貼っているから、彼女はその内側でしか動くことはできないのだ。マツバが襖を開けるとすぐに飛んできたゴーストが、なんだか泣きそうな様子で背後に隠れる。彼には事情を説明して監視役になってもらっているのだが、さぞ切ないことだろう…、マツバはかたちのないゴーストの黒いガスを撫でるようにしながらありがとうと目で告げて、預かっていたモンスターボールに戻してやった。
「おかえりなさい」
「ただいま。ほらこれ、君にだよ」
「……わあ、きれい」
座ったままこちらを見上げていた彼女に花飾りを見せると、やっぱり顔をほころばせた。笑みを浮かべてそれを髪につけてやる。ミナキの髪型はもともとすっきりとしているので、大振りの花飾りはとてもよく映えた。
照れたように破顔している彼女を見つめながら、微笑ましさと後ろめたさが鬩ぎ合う内心を握り潰したい衝動に駆られ、マツバは表情を消した。今日もミナキの器を借りた、彼女はとても美しい。されど美しくあればあるほどに、マツバの胸には痛みとも苦しさともつかないものがこみ上げる。
ミズナ。呼びかけるとすぐに視線を上向かせた彼女の澄んだ瞳に、口を一文字に引き結んだ自分が映っているのをマツバは捉えた。
「ミナキ君の器に入ろうと――僕はきみを愛することはできないよ」
伝え終えるより前に、みるみる彼女の笑みは消えていく。零れ落ちそうなほど丸く潤んだ翡翠から、今にも滴が落ちそうでマツバは心痛をおぼえた。本当に辛そうな顔をしている。ヒトの体に入っていても、やはりこれはあちら側へいくことの出来なかった霊魂なのだ。血の通った人間と同じこころを抱けはしないのだろう。きっと僕らにとっては当たり前のことなのに、きみには分からないんだね。マツバはわずかに哀れみを込めて目を伏せると、そっと彼女の前に膝をついた。ひゅう、とひきつった呼吸が聞こえる。
「っそれなら……ミナキになる、私がこうやって喋って、今までみたいにすれば……それならいいだろう!?」
「だめだよ、きみはミナキ君じゃない」
「なぜ、どうしてだ!君は私を愛しているんだろう……っ」
ぎゅう、とマフラーを掴んできた手に寒気がした。眉根を寄せ、詰めかかってくる相手が一瞬、ほんとうのミナキに見えたのだ。またしてもがらりと纏う気を変えたミズナは、声も喋り方も仕草もまるきりミナキそのものとなって、マツバに真摯な眼差しを向けてくる。おそろしい、と思った。もしもあの夜、こうしてすっかり彼のままでミズナがミナキに憑いてしまっていたら――、果たして僕はすぐにそれと気づけていただろうか。
「ミズナ、」
「っ……わたしはミナキだ! マツバッ」
「違う……そんな風に、自分を失くしてはいけないよ、ミズナ」
手を握り、瞳の奥へ語りかける。
すると、
(――――っ)
取り巻く空気がひやり、冷たいものへと変わった。
「……それならば、殺してしまいましょうか」
しゃらん、髪飾りが鳴る。
狂気よりも淀みを色濃くした彼女は瞳をまっすぐ向けたまま、すっとマツバから離れた。心音が騒いでいる。かたちの良いすらりとした両手の指が振袖から生えるように現れて、そしてミナキの喉へと食い込んだ。ぐっ、と生理的な呻きがあがる。ミナキの体は悲鳴をあげているというのに、その顔はいびつに笑みを浮かべたままマツバを見ている。やめろ、と弾かれるままにマツバはその手を掴み、強く自分の側へと引き寄せた。
げほげほと咳込み、体の苦痛に冷や汗を流しながら彼女はそれでも笑っている。しかしその眼差しはもう、マツバと絡んではいなかった。胸に頬を預けたまま、どこか遠くを見るようにうつろな目が揺らめいている。
「っ二度とそんなことをするな……もしミナキ君を死なせたら、僕はきみを死んでも許さないよ」
手首を握ったまま押し殺すように告げると、荒い呼吸のまま目を閉じて、ふふっと彼女は笑い声をこぼした。それから、ぼろりと涙を流した。わずかに逡巡したものの、それでもマツバは険しい顔を崩さなかった。確かにミズナを大事にしなければ、こういうことが起こることは分かっていた。しかしそれが彼女のためになるわけでは、決してないのだ。彼女の募り募った想いとは、そんな上辺のみの愛情で満たされるようなものではない。僕はきみを愛してやれない、マツバは眉根を寄せながら噛みしめるように囁いて、飴色の後ろ髪をゆっくりと梳いた。
「……うらやまし、なあ」
あたしもこんなふうに、愛されてみたかった。消え入りそうな涙声。それがおそらく、はじめて彼女が見せた本心なのだと、マツバは静かに指先を止めた。彼女の眼は遥か遥か、千里眼でさえ見通せないところを見つめている。そこからこぼれる涙はまるで少女の鼓動のように、マツバの服にじわり、じわりと吸い込まれていった。













彼女がミナキの体を傷つけようとしてからというもの、せめて家に居る間は片時も離れていたくないので結界を張り、マツバは彼女を隣で眠らせるようにしている。布団は別だ。例えミナキと睦み合うほどの仲であったとしても、否それだからこそ、今の状態では容易に触れ合うべきではなかった。手を繋いでほしい、というので布団に引き込んだ指を握ってはいるものの、それさえ胸の落ち着かない心地がしてなかなかマツバは寝付けなかった。すっかり明かりを消した部屋の底で、頭を傾けて隣を見やる。暗闇には慣れている。すうすうとあどけない寝顔はマツバのほうへ向いており、ぎくりとしてすぐに鼻先を天井へと戻した。
あんなことがあったのに、それでも彼女はミナキの体から去ろうとはしない。マツバがミナキを大事に想っている以上、ミナキの器は彼女にとってどうあっても居心地の良いものなのだろう。殺してしまおうと言ったのも、自分の反応を見るためにしたことだったのだろうか、とマツバは考えて息をついた。堂々巡りが続いている。あの後、わたしを愛してくれなくてもいい、とまで彼女は言った。それでもここに居たいと言った。マツバは、そこでなりふり構わず出ていけと怒鳴りつけるほどの勢いを有していなかった。どうしても、どうしてもという頑なさに、今は折れるしかない。だが決して許したわけではない。ミナキ君を守るためだと自らに言い聞かせながら、今夜もこうして少女の魂を宿したミナキの手を握って…闇を睨みつけている。
(……ん?)
だけどこんなままごとみたいなこと、続けるわけにはいかないのに。そう眉をひそめていたときだった。握った指がぴくりと動いたような気がして、マツバは何気なしに彼女のほうへ視線を向けた。
「…マツバ」
闇の中で、つやりと翡翠がまたたいた。
「っ……ミナキくん?」
はっとして身を起こすと、疲れたような、ぼんやりとしたまなざしがマツバを捉えた。手を強く握ると、応えるように握り返してくる。横たわったままの顔を覗きこむと、寝不足か、と軽く笑って空いたほうの手がマツバの髪を撫でた。体が急に熱くなる。ほんとうにきみかい、殆ど音を出さずに尋ねれば、ゆっくりと頷いてミナキはもう一度ぎゅっとマツバの手を握った。
どうやら浮かび上がってこられた、と息交じりに告げて起き上がった体は、ひどく気だるげな気を纏っている。「ずっと意識はあったの」「いや、ときどき浮上する程度だった…そうだな、彼女が穏やかなときや、眠っているときには」髪をかき上げ、ふるふると頭を振る。その喋り方も表情も、なにもかもがミナキであった。彼女が真似ようとも真似きれない、こまかなひとつひとつが目の前の人間をミナキであると物語っている。まったくえらい格好をさせられたもんだぜ、そう苦笑してマツバを見たミナキを、マツバはきつく抱きすくめた。
「よかった……ミナキ君、」
「ああ……だがひどく眠い、泥に沈むようだ……きっとすぐに彼女が戻ってくるだろうな」
あやすように背を撫でる手も、どこかいつものような確かさがない。霊をその身に入れるというのはひどく精神を削ることなのだと、以前イタコさん達が話してくれたことがある。修行もなにもしていないミナキなのだから、こうして話せただけでも僥倖だ。ぎゅうぎゅうとミナキを抱きしめながら、マツバはきつく目を瞑って奥歯を噛んだ。ごめん、ごめんよミナキくん。僕のせいで君を苦しめている。
「……それは違うぞ、マツバ。……これはふたりの問題だぜ」
抱きしめ返してははは、と困ったように笑ったミナキは、しかし今のわたしには何も出来そうにないなあと、わざとのんびりとした口調で話しているようだった。腕に力を込める。飲まれそうな意識に、不安を抱かないわけはないというのに。こんな時でも自分を気に掛けた物言いをするミナキに、マツバは体の芯が締めつけられるような苦しさに呻いた。そんな様子に眉を下げ、頼んだぞマツバ、とミナキは背を撫でた。声が、さらに確かさを薄らがせる。
「私は君のためにもスイクンのためにも……このまま消えるわけにはいかない」
「消させるもんか、きっと僕がなんとかするからっ」
抱きしめたまま、しばらく言葉を途切れさせる。
うまく声が出せなかった。
ミナキが消えてしまうなど、考えただけで叫びだしたくなるほどに…恐ろしい。
そうしているうちに、やがてミナキの纏う空気がしとりと質を変えた。息を止める。抱きしめる体がくにゃりと柔らかくなったような気がして、背筋がぞくりと冷たくなった。頬に触れる息遣いまでもが、あるひとときを境にしてまったく別のものへと変わっていた。マツバの着物の背をぎゅう、と掴む指にハッとする。
呼びかける必要はもう――なかった。
抱きしめていた腕を弱め、真綿を包むようにそっとその肩に触れる。闇の中でかすかな光を拾った艶めきが、どこか遠くを見つめて、そうして幕を下ろすように見えなくなった。
きれえなお人ですこと、
闇にひとしずくの波紋を生んだ声は、悲しげに、少しだけ愛おしげに、いつまでもマツバの耳に残った。


















数日が瞬く間に過ぎ去っていた。
ジムの仕事もそこそこに彼女を成仏させる手立てを探し回ったものの、地方を越えて情報を求めてもこれという案は浮上しなかった。無理やりに引き剥がすことはできないではないが、ミナキに影響が出かねないというイタコさん達に肩を落として首を振り、マツバは家路につく。
憔悴はじわじわと胸を蝕んでいた。
会えない期間がたとえ一年続いたとしてもこうはならないだろう、と内心で自虐的な呟きをもらし、マツバは寝不足のためにうっすらと隈のできてしまった目元を道行く人々に心配されながら速足に進んだ。マツバの友人が憑かれたらしい、ということは、すでに住民達にも伝わっていた。尤もその霊がどういったたぐいのもので、どういった経緯でミナキを選んでしまったのかということは、マツバに身近い人間しか知らない。


彼女は今日も可愛らしい振袖を纏って、マツバの屋敷に住むポケモンやミナキのポケモンと戯れている。ミナキを昔からよく知るだけに皆初めは戸惑っていたが、別の人だと思って接してあげてほしいとマツバが頼んでおいたので、どうにかそれを受け容れてくれている。彼女はやはりと言おうか、ゴーストタイプが好きなようだった。ムウマやヤミラミ、ジュぺッタ、フワンテなどに花のような笑みを浮かべているさまを見ていると、マツバでさえそれが本当にミナキという男の体であるのか、疑わしくなることがあった。もちろん紛れもない男性体であるのに、雰囲気やあらゆるものが幾重ものヴェールとなって彼の体をやわらかな少女に組上げてしまっている。
もはやマツバの傍にいられるだけで幸せだとでも言いたげに過ごす彼女に、マツバはなんと声をかけてよいのか分からなかった。ミナキの意識が現れた夜から、彼女はあまりマツバに近づかない。ポケモン達と戯れ、ときどきふうわりとした笑みをよこすばかりだ。それだから、余計に何も言えなかった。一刻も早くミナキに会いたいのに、ミナキの顔がささやかな幸福をすくうように笑うから、何も言うことができなかった。ここまで当事者になることはなかったが、もとよりこういった現象には慣れていることが災いしているかもしれない。日を過ごすことに、彼女が部屋に居ることが――普通になってゆく。
「ゲン……ゲンゲン?」
「……マツバさま、って呼ばれることに慣れ始めてしまったんだ……いやになるよね」
影から出てきたゲンガーは心配そうにマツバを見上げてから、ミナキの器で笑う少女を見つめている。ゲン、と短く鳴いたその声に、ぐっと何かがこみ上げてきてマツバは静かに部屋を出て、閉じた襖に背をつけた。俯く。襖を隔てたあちらがわでは、いっそ無邪気な笑い声が咲いている。その響きが少しだけミナキのそれと似ていて、マツバはきつく拳を握った。
彼女に慣れ始めた心と、ミナキを求める心が、ひどい不協和音を鳴らしている。
「………くっ…、」
耐えられない、と思った。
ミナキくん、
ミナキくん、
ミナキくん、
ミナキくん、
ミナキくん、
数えきれないくらい胸の内で呼びかけながら、ずるずると襖伝いに座り込む。ゲンガーが大丈夫かというように鳴いている。お前もミナキ君が心配なんだな、仲が良かったものね。もう泣いてしまおうかと思いながらゲンガ―を撫でてやると、いたずらっぽい笑みも今日はどこかへ潜ませて、相棒はじっとおとなしく撫でられていてくれた。
きっとこのままでは、長くは持たない。
マツバは言い知れぬ息苦しさに目を瞑り、自らのつま先を睨みつけた。


数日後、思いがけないことが起こった。
先に眠っているよう彼女に告げ、ポケモン達に監視を任せて、マツバは先代の屋敷で今後について話し合っていた。このままミズナが出ていく気配を見せないならば、イタコ達による強制的な除霊もやむなしというところまできていたのだ。しかしその結論が出るより先に、屋敷にミナキのゴーストが飛び込んできた。その焦りように皆はまさかと顔を強張らせたが、事態はそれよりもおかしなほうへと転がっていた。
通れるはずのない結界を抜けて、彼女がマツバの家から姿を消したのだ。





                   










真夜中の鈴音の小道はしん、と静まりかえって、彩りに溢れているはずの木々も宵闇にひっそりと浸りこんでいる。春色の小花柄もまた、同じように沈みこんでひどく小さく見えた。どうやってここに来たのか、振袖に着替えて彼女は夜の紅葉並木をじいと眺めていた。息を切らして走ってきたマツバにはらりと視線を傾けた彼女の涼やかなはずの瞳は、暗い色をいっぱいに溜めこんで元の色が分からないほどになっていた。今夜は、月のない夜だった。
「私が、あなた様を初めて見つけたのは……ここでした」
ずっと、ずっと見ていました。
真剣な眼差しで鈴の塔を見上げているのも、
修行がうまくいかずに落ち込んでいるのも、
ポケモン達と楽しそうに遊んでいるのも、
訪れる友人に焦がれるような想いを抱いていたのも、
そしてその手を握った日のことも、
ずっと、ずっと見ていました。
マツバさまをずうっと、見つめておりました。
「……ごめん、気づいてあげられなくて」
切々と語るミズナの声に胸が詰まり、見つけたらまず言わなければならなかった言葉も飲み込んで、マツバは今さらながらの謝罪とともに俯いた。しゃらん、花飾りが夜風に吹かれている。沈黙はとめどなく続いてしまうように思われて、一歩距離を詰めながらマツバは彼女へと顔を上げた。ミナキの横顔とは到底思えないほどに静かに、そして色を湛えたかんばせに、心臓がざわざわと落ち着きをなくす。そんな顔もできるのか、と吃驚すると同時に、そんな顔をさせているのは他ならぬ自分であるのだということに罪悪感が湧き上がった。
ミズナ。夜に波紋をたてるように静かに呼びかけると、しとやかに瞬きをしてから彼女はくるりとこちらを向いた。袖がひらりと舞い踊る。ミナキとは違うかたちで垂らされている前髪が、その柔らかく潤んだほほ笑みを美しく見せている。予感がした。もうなにも考えなくてもいいのだという、ひとつの予感が胸を埋めた。
私がここに来られたのは、ミナキさんのおかげだと彼女は言った。ミズナが眠り、ミナキの意識が浮上している間は結界が効かなかったのだ。ポケモン達の目をくらませてマツバの家から逃げ出して…あとはどうやってここまで来たのか、彼女自身よく分からないという。
「私の頼みを、このお人は聞いてくれたんです」
はじめて会った日のようにほほ笑みを浮かべ、胸にたなごころを押しあてた彼女の仕草に、マツバはどうにも泣きたくなって奥歯を噛みしめた。あの時よりもずっと遥かに穏やかな口元が、ミナキの顔を使ってミナキへの感情を露わにしていた。
ここへ来たいと言った私の願いに、このひとはただ頷いてくれたんです。
ああ、そうだろうね…ミナキ君はお人好しで、頼まれたら断れない性格なんだよ。
おかしなことにふたりして、泣きそうな声で笑いあっている。マツバはひと踏みずつゆっくりと彼女に近づいていって、少しだけ寄った眉根をじっと見つめた。双眸に星空を映しこんではにかむ少女の面差しが、自分を愛おしそうに見つめるミナキの照れた顔と重なった。
「私はとこしえの紅に消えます……この体に入っても、貴方の心は変わらなかった」
だけど貴方のこの人への気持ちを、たくさん受け取ることができました。そうして貴方を想う、この人の気持ちも。ミズナは胸に手を当てながら囁くようにそう言うと、最後にもう一度だけ、袖をつまんでくるりと回った。闇夜の淵に花が咲く。あるはずのない眩しさに目を細め、きれいだよ、と心の芯からほほ笑んだマツバに、彼女はこれまでに見せたことのないにっこりとした笑顔を滲ませた。
「お別れに、どうか口づけを」
縋るような眼差しに、マツバはただ頷いて彼女を引き寄せた。そっと顎を捉える。触れたかどうかすら分からないそれは、冷たいのに、ひどく温かい唇だった。今まで何度も重ねているのに、そのどれよりもあまやかな味がした。
しゃらんと髪飾りが鳴り、翡翠のまなこが月明かりに潤んだ。マツバの心音が少しずつ落ちつきを取り戻し、その代わりになにか、舞い落ちる花びらかもみじのように捉えられない感情が、際限なく胸のうちに生まれるのを感じていた。ああ、そんなに、幸せそうな顔をしないでほしい。ずっと君を傷つけてきた、僕なんかのために。君を見つけることのできなかった、未熟な僕なんかのために。
(ごめんなさい、)
交わした呼吸を、ふたりで飲み込む。
(ありがとう)
頬を染めた彼女の、自らの唇を撫でる指先が白い。
そして滲むようにほほえんで、ふつりと崩れ落ちた。


















音を失くした道の上で、マツバは倒れたミナキの肩に腕を回し、上体を横抱きに支えていた。ミナキは静かに瞼を閉じている。着物の襟から覗く首筋がいやに白く見えてぎくりとしてから、早く帰らなければと目元を引き締めた。抱えて帰ろうかヨノワールに手伝ってもらおうか、と思案していたところで、かすかな唸り声が耳に届く。はたとして見下ろせば、ミナキが目を覚ましてゆるく首を振っているところだった。
ミナキ君、とそろり呼びかけてみる。確信はあったのにおぼつかなくなってしまったのは、今しがたまでの様々な応酬がいまだにはらはらとマツバの胸の中で降りそそいでいたからだった。そうしてぱちぱちと数回瞬きをしてから見上げてきた双眸に、ほっと息をつく。あの伏し目がちな眼差しではなく、ぱちりと瞑目した質量のあるそれ。マツバ、と驚きでも喜びでもなくただ名前を呼んだミナキの頭をひしと抱き寄せると、くるしいぞ、とくぐもった聞き慣れた声がマツバに染み入った。
どこも変わりはないかい、痛いところは。
尋ねるとミナキはしばらく押し黙ってから、俯いて自らの胸に手を当てた。その仕草にどきりとする。こまかに震えるまつ毛には、ひどく見覚えがあった。
「…いなくなってしまったんだな」
ほとんど無表情に近い面差しを、ひとすじ涙が流れ落ちた。どうしたの、焦って顔を覗きこんだマツバに、はは…と掠れた笑いをこぼしてミナキは目を細め、そのためにまた涙がほろほろと溢れてくる。体を捻り、背を支えていたマツバの腕をぎゅっと掴んでミナキはどこか苦しげな笑みを浮かべると、マツバの肩に顔を埋めた。
どうしたんだい、ねえ、どこか辛いのかい。ただならぬ様子に声をかけ続けるマツバにかぶりを振る。ミナキの胸にはあの少女のたましいが最後に残した、とても苦しくもどかしく、そして尊い感情が溢れかえって押し寄せていた。「ほんとうに…君のことが、好きだったんだなあ、マツバ」しゃくりあげてしまいそうなくらい掠れた声でそう呟いたミナキに、瞳を揺らしてマツバは口を噤んだ。そうしてひとつ、閃いたことがある。胸のなかに降りそそぐ、あれは、彼女の。
「……僕らの心は、通じたんだよ」
だから、お願いだから泣かないでくれよ。
ぼくはきみの笑顔が見たかった。
ずっと、ずっと見たかったんだ。
「っどうしたら、いい……マツバ、」
君が好きで好きで、たまらなく胸が痛い。
顔をゆるゆると上げ、困ったなあとうまく声にならないまま呟くミナキの口を、マツバは塞いだ。触れ合った頬を涙が溶け合わせてゆく。ミナキの中におしよせた波と、マツバの中に降りそそいだ花びらがひとつになって飽和する。あれは彼女が抱いていた、大切に大切に育て続けたマツバへの気持ちだった。初恋にも似たその儚くてとめどない情の渦に、きっとミナキはマツバよりも疎い。募らせるよりも注いでゆく愛を持つミナキにとって、この行き場のないあいくるしさは初めてのものだったのかもしれない。
「大丈夫、大丈夫だから」
ふたりしてみっともなく鈴音の小道に座り込んで唇を合わせることを、どうか今だけは許してほしいと願いながら、マツバはミナキと感情をひとつにしてゆくように強く抱きしめた。春色の振り袖は、きっと今のきみの心には、よく似合っていることだろう。

「僕だってずっと……そんな気持ちだったんだ」