エンジュジムではその仕様により、トレーナーを振り出しに戻すための空間転送装置がほとんど終日作動している。とはいっても高いところから落ちて万が一何かあってはいけないし、イタコさん達もその実力に関わらず高齢であることに変わりはないので、念のため下の方にはネットが張ってあったり、通路から落ちた人数はしっかりカウントしてリーダーまで伝わるようになっていたりする。どんな内装にするかはセキエイの本部に申請して許可さえ出ればジムリーダーの自由であるため、大抵ジムというのは扱うポケモンのタイプをイメージしたものとなることが多いのだが、此処エンジュはいかにもゴースト使いらしいとジョウトでも評判であった。
 そんな闇に包まれたジムの最奥部で今日も今日とて挑戦者を待っていたマツバのもとに、誰かが転送されたらしいというセンサーによる通知が届いた。どうも一人目のトレーナーに当たる前に落ちたらしい。慌て者もいたものだなあ、と思って微笑んでしまったマツバであったが、間を置かずに名前を呼ばれて疑問符を浮かべた。見れば暗闇の中から頭にろうそくを差したイタコのヨネコさんがゆっくりと歩いてきたところで、マツバや、と孫を呼ぶような口調でなにやら薄く笑っている。どうしたんですかと珍しく思って歩み寄れば、やはり楽しそうににやにやした様子でろうそくを揺らして彼女は告げた。
 お前さんのお友達が、もうすぐ来なさるよ。




「マツバ! 生まれたぞ!」
 どうやら一度下に落ちて転送されたのはミナキであったと知って呆れたマツバであったが、顔に出すよりも先にミナキが気色ばんでそう叫んだために面食らい、そして暗い道だというのにほとんど走るようにしてやって来た彼が勢いのまま抱きついてきたところで、表情は驚きへと変わっていた。うわっ、と受け止めながら足を踏みしめ、そのままキスでもしてきそうなほど高揚しているらしいミナキの背を抑える。
「ちょっとミナキ君、」
「見てくれマツバ、生まれたんだ! 可愛いだろう?」
 首に腕を回していたと思ったら突然がばり、と顔を上げてそう言うテノールはいつになく弾んでおり、しかしスイクンを相手にしたときの興奮ぶりとはまた違ったものを含んでいる。きみは自分がなんて台詞を連発しているのか分かっているのかい、マツバは照れとも気まずさとも言い切れぬじんわりした心持ちに頬を引きつらせたものの、あまりに嬉しそうなオーラが包みこんでくるので口にすることはできなかった。きらきらと輝く翡翠色がいやに目について少し見つめ合ってしまってから、いけないいけないとかぶりを振る。そうしてミナキが示したものへと視線を下げて、あ、とマツバはなんとも形容しがたい感嘆めいた声を漏らした。
ぷわ、ぷわわ
 あまりの不意打ちにこれまで気がつかなかったが、ミナキの片腕には生まれたばかりとおぼしきフワンテが抱かれていたのだ。手放すとひとりでに浮かんでしまうんだ、と笑って伏し目がちにフワンテを見つめるミナキはすっかり絆されている様子で、ぷわぷわと鳴くフワンテを両手で持ち上げてにこにこと相好を緩めている。
 たしかに卵を育ててほしいとは頼んだけれど、本当は僕のところで孵化させるつもりだったんだけどな。マツバは内心でそっと苦笑をしながら、だけどまあいいかと緩く首を傾げてフワンテをちょいとつついてみた。風船のようなボディがぷにっと弾力を返してきて、ぷわ、と反射的になのか分からないが鳴き声があがる。可愛いなあ、と素直に目元を綻ばせた。ここジョウトではあまり手に入らない珍しいポケモンであり、シンオウの知人から貰った卵ということもあって、これはバトル用に育ててみたいな、と思いミナキに依頼をしたのが数週間前のこと。生まれそうになったら戻ってきてほしい、というちょっと我ながら図々しいかなという頼みに快く頷いてくれたのだったが、こうして彼のもとで誕生してしまったらしい。
「その、すまないな。思っていたよりも早くて」
「ははは、いいよ……こうして元気に生まれたのはミナキ君のおかげだし。でもそうだな、出来れば僕に育てさせてほしいんだけど……ほら、タマゴ技も使いたいし」
「ああ! もちろん、そのためにこうして来たんだからな」
 ほうらフワンテ、マツバだぞー。にこやかに差し出してくるままに受け取ると、ぷわぷわと窺うように丸いつぶらな瞳に見上げられる。これはゴーストタイプにしては可愛すぎるくらいだなあ、とメロメロを食らったような気分になってへたれた笑みを浮かべると、しばらくもぞもぞとしていたフワンテはやがてマツバの腕に落ち着いた。どうやら気に入ってくれたらしい。
「ん?」
「……あ」
 そう思ったのだが、やはり赤ちゃんは赤ちゃんであった。細く紐状に伸びているうちの一本はいまだにしっかりとミナキの腕に絡んでおり、ちょっと引っ張ったくらいでは離れてくれそうもなかった。「ずいぶんと君を気に入ったようだね、」マツバは大人しく抱えられているフワンテの性格はもしかすると強情かなあ、なんてことを考えながら眉を下げて笑い、同じような面差しをたたえたミナキとしばしよく分からない間を共有した。
「ふふ。しょうがない、暫くエンジュに居ることにするか」
「! ……なんだい、嬉しそうじゃないか」
「マツバこそ、なあフワンテ」
 くすくす笑い合ってふたりしてフワンテを見下ろすと、何も分かっていないようにくりくりとした目を瞬いて、フワンテは間延びしたふうに鳴いた。いまだミナキのことは捉えたままである。ああ本当に可愛いなあ、としみじみ呟いたミナキが、腰を屈めてちゅっとフワンテにキスをする。ぷわわわ、と嬉しそうにフワンテはマツバに抱えられながら弾んだ。いいなあと柄にもなく羨ましくなってから、はたとして誤魔化しの咳払いをする。そういえばここがジムであるということを、数分といえども失念してしまっていた。
「ミナキ君、先に帰っていてくれるかい」
 再びフワンテを抱かせながら家の鍵を差し出すと、ミナキの手より先に伸びてきたフワンテの紐がくるりとそれを器用に受け取ってしまった。ああ分かった、とにこやかに頷いてフワンテを嬉しげに抱きしめたミナキは、仕事中に悪かったな、と今さらながらに謝してからその場を後にした。本音を言えばこのまま一緒に帰ってしまいたいくらいだったが、流石にそういうわけにもいかないのがジムリーダーというものだった。
 放っておくと際限なく顔が緩んでしまいそうで自らにしっかりしろとくり返し言い聞かせつつ、マツバは転送装置を切ってジム内の明かりをつけた。来た時のようなことはないと思うが、ミナキが落ちてしまわないようにと気が気でないのはやむ方なかった。イタコのおばあちゃん達はみんな微笑ましそうにミナキに何事か声をかけ、そのたびにミナキは朗らかに返答している。そんな様子をじっと見つめるマツバに、ヨネコは相変わらず笑って「よかったねえ」としみじみ言った。マツバの胸の内がどんなにうららかであるのかということは、彼女にはお見通しなのだった。