(ほものゆりっぽい)








玄関の框に足をかけるよりも早くしなだれかかってきた体を、たたらを踏んで受け止める。耳元でただいま、と芯のない声が熱い息と混じりあって蕩け、そのすぐ後にアルコール臭がつんと鼻を突いた。肩に頭を預けるようにして抱きついてくるマツバの柔らかい髪が、ふわふわとじゃれつくように揺れて頬をくすぐる。ヘアバンドをしていない金糸から覗く耳も、目元も、地の白さを彩ってほんのりと赤く染まっていた。物静かでいて底にしたたかな強さを秘めているはずの紫の双眸はいつも以上にとろんとしていて、普段の面影はどこかへ鳴りをひそめてしまっている。
(これはまた、随分と飲まされたな)
片眉を下げながらおかえりマツバ、と背中に手を回して数度ぽんぽんと撫でてやると、薄いシャツの上から熱い体温が掌に伝わってきた。着慣れないであろうスーツは、不思議とマツバにはよく似合っている。だがもう涼しくなっているのだから、外を歩くのにこんな恰好では肌寒いだろう。ミナキは内心そう呟いたものの、酔っ払いにはそういうことは関係ないとすぐに諦めの息をついた。
ジムリーダーというのは基本的に自分の街から出ることはないものだと、ミナキはマツバがエンジュジムのリーダーになるまで思っていた。しかし実際は年に何度かセキエイへ呼び出されたり、トレーナーとの再戦に赴いたりとジムを開けることも多く、常にジムに常駐しているものではないのだと知って目から鱗が落ちた。ジムを巡ってバッジを集めるということをしてこなかったから、ミナキは当時そういった事情には疎かったのだ。旅のトレーナー達がジムにバトルの予約を入れるのは単に早くバトルをしたいからというだけではなく、リーダーのスケジュールをあらかじめ確認しておくという目的もあったのだなあ、と改まってマツバに言ったら呆れたように笑われてしまったのは、今では懐かしい思い出だった。
昔話はともあれ、そういうわけで今日ジムを午前中で閉めたマツバは定例会という名目でセキエイへと向かい、そして会議の後にはお約束の飲み会になだれこんで、こうしてとっぷり日が暮れてから帰還した。すでに月は高い位置にある。酒の飲める年齢に達した四天王やらジムリーダーやらが羽目を外して騒ぐのは本当に凄まじいものがある、と以前マツバは真顔で語っていたから、今回も相当なお祭り騒ぎであったのかもしれない。もともと大勢で飲んだり騒いだりということには慣れていないマツバは、しかし持ち前の事なかれ主義も手伝って大抵遅くまで付き合ってしまい、こうして赤い顔をして帰ってくるのが常のようだった。居合わせるのは初めてのことであったので、少なからず驚きつつミナキはマツバの顔を覗きこむ。大丈夫か、と問いかければうーんと眠たそうな声を出しながら、それでもミナキと目を合わせてマツバはゆったりと頷いた。
「いつきたの?」
「夕方だよ。ああ、食事は外でとったからな」
「そっか……ふふ、」
おぼつかない足取りで靴を脱ぎ、寄りかかったまま一段上がってまたマツバはぎゅうと抱きついた。なにがおかしいのか知らないが、やけに幸せそうに笑っているのでまあいいかとミナキも軽く笑む。頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。ミナキがこの日エンジュを訪れると告げておいたからマツバは合鍵をイタコのおばあちゃんに預けて行ったのだったが、私がここに居てよかった、とミナキはしみじみと思っていた。こんな状態では、玄関でそのまま眠りこんで朝を迎える、ということも大いにあり得た。
「ほら、歩けるか?」
「ん……ごめん」
「いいさ、転ばないようにするんだぞ」
肩を貸しつつ廊下を進みだすと、見た目よりはしっかりとした歩調で歩くのでほっとする。ミナキも上着を脱いだシャツのみの格好でいたので、やけに互いの距離が近いように思われて落ち着かなかった。ひとまず居間に連れていって水でも飲ませるかと考えながら隣を窺い、そして思いがけず絡んでしまった視線にどきりとする。気をつけろと言ったのに、足がもつれても知らないぞ。薄く開いた唇はしかし出かかっていた台詞を紡ぐことはせず、ただ黙ってアメジストから目を逸らすと明かりの漏れる襖へと意識をやった。それでも感じるマツバの視線にじんわり上った熱を自覚して、酔った者は実に手がかかる、と自らに言い訳をしながら少し俯く。どうにも顔が火照っていた。熱が、伝染したのだろうか。

(そんなに、嬉しそうに笑うな……)






卓袱台にのせた腕に上体を預けて座っているマツバにコップを差し出すと、ありがとうとしっかり礼は述べながらもろくに水を飲まないまま、マツバはぐいぐいとネクタイを緩めてシャツの釦をいくつか外した。窮屈なのだろう。やっぱりスーツは好きじゃないなあ、と疲れを含んだ口調で呟きながらしゅるりとついにネクタイを抜き去ってしまったマツバに苦笑してやると、じいっと見つめられてまた胸が騒ぐ。
「……どうした?もう寝るか」
「いや……まだ寝ないよ……」
「ふふ、そんな顔で言われてもな」
駄々をこねる子どもを思わせるまなこが数度瞬きをするさまは、マツバには悪いが可愛らしかった。ミナキはやけにうるさくなっていた自身の鼓動を誤魔化すように首を傾げ、ほら部屋まで連れて行ってやるから、と手を伸ばしてマツバを促す。居間で眠られてはこちらも大変だったし、明日に疲れを残してしまう。そういえば明日はジムの定休日だったかと記憶を掠めたが、まあそれはいいとすぐにマツバの背に腕を回した。
と、
「うわっ!」
腕を掴み、そのまま立ちあがるかと思われたマツバの手はしかし、まったく逆の方向へと力を込めた。ミナキをぐいと自分の側に引っぱると体を捻り、膝に跨らせるようにしてぎゅうっと強く抱きしめたのだ。不意をつかれたためにバランスをとれず引かれるままにマツバに乗っかってしまったミナキは、目を白黒とさせてからどうにか畳に膝をついてマツバにかかる重みを和らげる。しかし腰に回った腕は、立ち上がることを拒むようにぐっと力を増してしまった。
「こら、ふざけるのはよせ」
マツバの肩に手を置き、ぐぐぐと押して距離をとろうとする。だがなかなかどうして酔っ払いというのは力が強く、そして加減を知らない。シャツを握ってまで膝の上に留めようとするうえにミナキくん、といやに熱っぽく呼ばれてしまい、その眼差しに狼狽えていると前触れもなく顔が近くなった。唇が合わさり、信じられないくらい熱い舌が信じられないくらい自然に口腔へ入ってくる。酒気がむわりと鼻に抜けた。んッ、と唸りながら咎めを込めて肩を押したものの、本気で拒むことはミナキにはできなかった。マツバがこんなふうにキスをしてくるのは至極珍しいことだったので、驚きよりもそれを求めたいという本能が勝ってしまっていた。こちらは素面だというのに、酔いが移ってしまいそうだ…、そうあらぬことを考えながら唾液を嚥下すると、粘膜が密着して互いのくぐもった息遣いと鼻にかかった声が耳朶に内側から響き、ミナキの芯をふやかせる。
「ッふ……だめだ、マツバ」
「ん……どうして」
「どうもこうも君、飲みすぎだぜ」
「……ふふ、だってミナキ君が、優しいからね」
唾液でてらりと光る唇をゆるやかに上げて微笑むマツバの表情は、熱っぽくはあれども目が据わっているわけでもなく、確実にミナキの瞳を捉えてくるだけの確かさを湛えている。ああ厄介だ、と弱った色を浮かべて呼吸を整えながら、ミナキは知らず知らずマツバにまた重みを預けつつあることを自覚した。意識を散らしてみれば、居間の電灯は明るく室内を照らしている。背に回された腕には相変わらず固まってしまったのかというほどの力が籠っており、まだミナキを解放するつもりは見られなかった。自分たちはこんなところで何をしているのか……という呆れと、くすぶる熱が混ざってなかなか息が落ち着かない。
そういえば、こうして抱き合うのは久しぶりだった。ちょくちょく電話はしていたものの、マツバと顔を合わせること自体ひと月ほど空いているのだ。それだからこんなに胸がうるさく、本気で咎めることができないでいるのだろうとミナキは浮かされつつある頭で思案して、改めてマツバを見つめた。抱きしめていることそれだけを噛みしめているような面差しに、みぞおちの奥がざわりと疼く。
「……ま、つば」
「ん……なんだい、」
囁くように穏やかな声で視線を向けられ、またざわざわと胸が騒いだ。今しがた私を優しいと言ったけれど、そちらのほうがよほど優しいじゃないか。
「どう……したいんだ……?」
尋ねかける音色に、それとわかる感情がちらちらと混じりこんでいる。我ながらずるい質問だと熱い顔をくしゃりとしかめたミナキは、僅かに驚いて目をしばたかせたマツバがそれは嬉しげに笑うよりも先に首を捩り、それ以上面を向けることを避けた。ぐっとマツバの腕に力が入る。まだそんな力が残っていたのかと息を飲んだときには、湿った熱い呼吸の波が頬から耳にかけてをなぞっていた。ぞくり、肩が勝手に竦んでしまう。
「ぼくの部屋、いこうか」