一定の間隔で大きな波紋を広げては消し、広げては消しを繰り返している透き通った水を覗きこみ、そこに映った自らのいびつになった面立ちをさほどの感慨もなく見つめてから、男はゆっくりと息を吸い込んだ。轟々と滝の落水音が腹の底まで響いてくるここには湿った空気が立ちこめており、冷たく清涼感のある空気が喉から肺までを満たす。そういえばひどく喉が渇いていたのだった、とにわかに思い起こしたが、無限とも見える水を目の前にしてもそれを口に含んでみようなどということは、爪の先ほども考えなかった。そんな必要もまた、男にはなかった。これからまさに眼下の水へと飛び込もうというのだから、渇きを癒すなどということはまるで意味がない。
ふふ、と自身でもよく由縁の分からないままに笑みを浮かべ、モンスターボールを無造作に足元へ置く。どうせ見つかるまでにそう時間はかからないだろうし、このままにしておいても構わないだろうと男は判断した。自分がこの世界からいなくなったら野生へ返されるもよし、新たなトレーナーに育ててもらうもよし、少なくとも悪事を働いてきたこれまでよりは、まともな生活もできるだろう。何か言葉でも掛けてみようかと膝をついてボールに触れてみたものの、これといって思いつかなかったのでまた笑って息をつく。まあいいか、と男はひとりごちた。それから忘れそうになっていたポケギアを取り出して、モンスターボールと並べて置いた。身元確認なんてできそうな情報は名前くらいしか入っていないだろうが、水没させるのもなにか悪いような気がしたのだ。わるい、という感情には我ながら可笑しさがあったけれども、その対象はおそらくポケギアではなくこれを自分に与えた人に向かっているのだろう。組織用に配られたものだったから余計なアプリなどはひとつも付いていない、シンプルな古めの機種だ。どうせ電話くらいしかしないのですから、と文句を垂れる同僚をあしらいながら男にこれを渡してきたあの人は、今ごろどこでどうしているのだろうか。いずれにせよ、もう男には関わりのないことだった。
勢いよく落ちる滝の水が白く飛沫をあげてもうもうと水煙をつくりだしているあたりに目を向けて、あの辺がいいだろうかと男はひとり頷いた。ばしゃり、と無造作に水へ入れば膝辺りまでが浸かり、これは見た目よりも深いなと思ってまた笑みを浮かべた。本当に、どういうわけか笑えてくるのだ。あの滝の裏で壊れた古いラジオを見つけて、跡形もなく壊してしまったときからずっと、自分がやけに可笑しくて、こうしてここで終わろうとしていることが楽しくて仕方がない。気が狂ってしまったと、人が見ればただそう捉えるだけであろうが、こんな気分で幕引きできる人生ならば上等ではないか、と男は思った。


「こら、待たないか」
だからその微笑ましい心地をぶち壊した遠慮などさらさらない声を、男は一生忘れるものかと即座に誓った。もしかしたらあと少しで終わるかもしれない一生であるので、むしろあの世まで持っていくべきかもしれない。ぎしりと奥歯が軋んだのを感じながら振り返ってやれば、奇妙な格好をした男が腰に片手を当てて立っていた。前髪を撫でつけ、紫のスーツに赤い蝶ネクタイ、白いマントを纏っている。ジャグラーのような出で立ちであったが、紫というのは珍しかった。これはいよいよ忘れられないと頬を引きつらせ、何か用ですかと尋ねる男にそいつはひどく呆れたように眉を上げて、あろうことかこう言った。
「死ぬなら別の場所にしてくれ」
「――は?」
「私も今からあのへんに飛び込もうと思っていたんだ、先客がいては具合が良くない」
「ふざけないでください」
私が先にここで死のうと思ったんです。男が憤慨を露わにして剣呑な眼差しを向けると、ふむそれは困ったなあ、と前髪をいじりながらそいつはイラッとくる仕草で溜息をついた。あんなに心穏やかに終わろうと思っていたというのに、空気の読めないこいつのせいで台無しだ。男は内心もうこのまま死ぬのは嫌だなと思っていたけれども、すごすごと岸へ上がれば言うことを聞いたようで面白くなかったためにその場を動かなかった。背後からゆっくりやってくる波紋を堰き止めているので、男の周りの水だけが同心円のかたちを成していない。膝から下はすっかり冷えていた。ふと水ポケモンでもいたら襲われやしないかということまで考えてしまい、もはや心はすっかりあの白いしぶきから離れてしまっていることに男は絶望した。
「ふむ、ランスというのか」
「ちょっと。何を勝手に見ているんですか」
「だってここに置いていこうとしたのだから、誰が見ようと文句は言えないだろう」
「あなたはイレギュラーでした、それを返せ」
「しかし何の機能も付いていないポケギアだなあ、このご時世にラジオもないのか」
「おいこら」
「ほう……履歴はひとりきりじゃないか、」

アポロ。

その名を口にされた途端に水を蹴っていたランスは、何も考えずに男に殴りかかった。頬骨を罅入らせるくらいには力一杯抉りこんだ拳であったが、すんでのところでひらりとかわされて勢いをそのままに宙を切り、バランスを崩してつんのめる。おっと危ないな、と余裕を見せる声色で呟いた男を睨みつけてやれば、どこかやれやれといった様子で軽く笑ってポケギアをこちらへ放ってきた。ぎょっとして受け取る。画面を見ればそれは発信履歴であって、上から下までずらっと並んでいるのはただひたすらにアポロさんという文字であった。
ちくしょう、とランスは思わず口汚く呟いた。幾度かけようとも受信することのないコールはそれでも電話番号が使われていないことを告げはしなかったので、今朝も性懲りなく発信ボタンを押したばかりだった。それが繋がったらどうなっていただろうか、と考えるのはやめようと思っていたのに、なにもかもこいつのせいだと目の前で笑っている男を憤りを込めて見つめる。しかしそれを受けてもなお微笑ましげにランスを見返した男は、君は羨ましいなあと腕を組んでどこか遠くに視線を投げた。
「大事な人なのだろう」
「……あなたには関係ありません」
「その人に会ったら、君はどうするつもりだったんだ?」
「は……いや、考えたこともありませんでしたが」
「私はずっとある男からの着信に出ないままでいるんだがな、きっと会ったら思い切り殴られると思う」
今の君なんて目じゃないくらいにな。ふふっと可笑しげに笑ったそいつは口元に手を当てて、誰かを思い出しているように穏やかな眼差しで滝のほうを見やった。ランスは苛立ちのほかに少しの気持ち悪さと、それから認めたくはないが確かな羨望をおぼえて唇を引き結んだ。そんな瞳をするくらいなら、死にたがらずにすぐ誰かさんのところへ行けばいいじゃないか。告げてやろうと思ったが、視線を戻した男に先を越されてしまい、舌はもぞりと動いただけになってしまった。驚くほど口がよく回る男だ。
「君もその人を見つけたら、殴ってやればいいさ」
「馬鹿な、そんなこと出来るわけがない」
「そうなのか?しかし君にならできるように思うがな……ランス、」
誰かを追いかけていられるというのは、このうえなく幸せなことなんだと私は思うよ。
その瞬間、男の翡翠色の眼差しにふっとなにもかもを諦めたような淀みが見えたような気がした。しかし瞬きをする間にそれは消え、眉をひそめたランスの前で男はポケギアを取り出すと、しばらくじっと画面を見つめてからまた、今しがたのように穏やかに笑んだ。ランスはその画面に並んでいるであろう人物に同情めいた感慨をおぼえてしまい、舌打ちしながら一度かぶりを振った。あなたは一刻も早く殴られるべきです、そう言ってやると些か驚いたように男は目をしばたかせ、ははっと肩を竦めながらただ頷いた。私も君を見ていたらそう思えてきたよ、と付け足された台詞には含みがあったものの、あの穏やかな笑みのままで見つめられては黙って目を逸らすしかなかった。
「何を伝えたい」
「え?」
「アポロという人に、何を伝えたい?」
「――なにも、」
何ひとつだって、伝えられることなどない。コガネから姿を消した後に自分が何をして何を見て何を壊して、誰と言葉を交わしたかなんて、あの人にこれっぽっちも伝えたくはない。ただ会えさえすればよかった。会ってその生きていることを確認さえできれば、もう何も要らなかった。
ああしかし、ただ言ってやりたいことがあるとすれば、
「……やっぱり、殴るかもしれません」
どうしてこれまで行方を眩ませていたのかと、ぶつけてしまわない自信など今のランスにはなかった。すべてはもしも会えたらという幻想のもとに成り立っている話であるというのに、驚くほどこの男は希望を抱かせるのが上手いのかもしれない。ランスは自らの口から飛び出した言葉に苦い面立ちを浮かべながら、男の目を捉えた。ぱちりと丸くなった瞳の色は、そういえば自分のものとよく似ている。
「っふふ、ははは……そうだ、それがいい!」
笑いだした男は、ひとしきりそうやってランスに向かって無遠慮な哄笑を寄越してから、やがて目尻に溜まった涙を手袋で覆われた指先で拭うと、マントを翻して背を向けた。それじゃあな、健闘を祈るぜ。ひらひらと手を振る後ろ姿は最初にその声を聞いたときのように苛つくものであったが、この短い間にいくらか耐性がついたらしいことにランスは深く息をついた。
ちらと視線を下ろせば、ふたつのモンスターボールがそこに置いたままの角度で静かに転がっており、ああ生きているのだ、と改めて思ってランスは呆けた顔を浮かべた。ぐっしょりと濡れたブーツが気持ち悪い。死のうとしていたときのあの楽しい気分だけ、すっかり水の中に捨ててきたように感じられた。
「――――ん?」
そういえば、あの男は死のうとしていたのではなかったのか。