足元をちらと見ることすらなく氷の上をすいすいと進んでくるダイゴの眼差しが、明るいオレンジ色の可憐な花の合間を縫って真っ直ぐミクリに届く。コツコツと靴底が氷面を鳴らすたび、ベルのように下向いて咲いている丸みを帯びた花はまるで音でも鳴りそうなほどに、可愛らしく揺れた。
片腕に植木鉢を抱えてジムを訪れる人間はこれまでに居ただろうか、さまざまの挑戦者を脳裏で思い起こしながらそう考えてみたけれども、流石にいなかったはずだとすぐに緩く首を振った。ここが神聖なジムであるということ以前に、あんな不安定な足場を歩くのに花を持ってきて万が一でもしくじってしまったらそれこそ格好がつかない、ゆえに花ならば自宅かコンテスト会場へというのがおそらくは一般的な思考であろう、とミクリは思った。実際ジムの外でならば記憶に留めおけないくらいの花々を頂いている身であるので、その憶測にはそれなりの自信がある。だから余計、ぶれない歩調でこちらに歩いてくるダイゴの姿は、いつになく印象的にエメラルドの瞳に映っていた。オレンジの花が揺れている。いつも見慣れているスカーフのせいか赤系統は似合うと思っていたのだが、あの色はあまり合わないような気がするな。内心でそんなことを呟いているうちに、お固いスーツは目の前まで辿りついてぴたりと靴音を仕舞いこんだ。花は静かに佇んでいる。アイスブルーの双眸と目を合わせ、「いらっしゃい」と告げてお決まりのポーズをとって見せるとダイゴは薄くほほ笑んでから、ああ、と質量のある声とともに頷いた。
「サイユウに挨拶は済ませたのかい?」
「うん、すっかりね。みんな別にいつも通りだったけど」
「ダイゴがどこかへ行くなんて、慣れているんだろう」
「ははは……今度はちょっと長いのになあ」
鉢植えを渡しながら少し苦笑がちに破顔したのち、ミクリの手に移った花を見て満足そうにダイゴは目元を細めた。やっぱりミクリには、そういう色も似合うね。確信していたように贈られた言葉に、日頃ブルー系ばかり好んで身につけているミクリはちょいと首を傾げると、補色になるからかもしれないね、と至極現実的なことを言ってからそれでも嬉しげに笑った。視線を下ろせば、オレンジ色の可憐な花が釣鐘状に浮かんでいる。指先でそっとつついてみると、ころろんと弾むように何度か揺れて、すぐにまたおとなしくなった。サンダーソニアだね。顔を上げてつぶやくミクリにまた首肯して、ダイゴはひと息置いてからお祝いだと告げた。その物言いに思わず噴き出しそうになり、ふ、と息を漏らしてミクリはゆるく丸めた右手口元に当てた。キミが皮肉を寄越すなんて、珍しいじゃないか。こらえきれずに声を揺らして言ってやると、分かりやすく拗ねた顔を見せてダイゴはふらりと視線を遠ざけ、そんなつもりはないけど、と返すあいだにまた目線をミクリに戻した。そうして「僕が一番じゃないと嫌だったんだ」と肩を竦めたので、今度は声を出してふふふっとミクリは笑った。
「一番もなにも、まだおおやけにもされていないのに」
「いいじゃないか……とにかく、チャンピオン就任おめでとう」
「ありがとう。まあ今日が終わるまでは、ルネジムリーダーでいるつもりだけれどね」
メディアは大騒ぎだろうなあ、いきなりミクリがチャンピオンになるんだから。誰のせいだと思ってるんだ……取材がいやでバトルも引き継ぎも秘密裏にしようって言ったのは、ダイゴじゃないか。うん、そういうのはミクリに任せるよ。まあ私だって全部は受けきれないから、四天王に適当に割り振るけれどね。ははは…皆怒るだろうなあ。
ひとしきり軽口を叩きあってからどこかあらぬ方向を見やり、遠い目をしながら乾いた笑いを零したダイゴであったものの、チャンピオン交代に関して表に出る気はやはりさらさらないようだった。これはもう幾日も前から告げられていた彼の意志であったので、ミクリも今さら呆れを見せることはなかったけれども、それでも明日から怒涛の勢いで押し寄せるであろう各種取材の嵐を思うと、いささか気が滅入る。方向性は違えども、ダイゴとミクリの影響力というのはそれだけ大きいということなのだ。しかも前任が行方をくらませた後に交代の事実を公表するのだから、世間の関心を集めるのはやむかたない。今でこそこんなに穏やかに言葉を交わしているが、これまで手続きやら挨拶やらであちこち走り回らなければならないのは実に大変だった。そうして明日からはまた忙しくなる。こうやって二人きりで対峙していられるのはまさに嵐の前そして後、あるいは台風の目のような静けさの賜物ともいうべきひと時に違いなかった。
『君は、強くなったね』
ミクリのミロカロスがダイゴのメタグロスを下したのは、幾度となく繰り返してきたバトルの中でも数えるばかりであった。正直を言って、運が味方してくれたようなものだと思っている。それも実力のうちだと一笑に伏してしまうところはダイゴの魅力であって、またどうしても許せないところだと、昔からミクリは胸の奥をかき混ぜられるような心地を抱いてきた。僕と本気のバトルをしてくれと申し込んできたダイゴに、ミクリは勝利した。それでもどこか嬉しそうに、眩しそうに笑うからどうしようもなく苦しくなって、ミクリはフィールドの端からダイゴの名を呼んだ。すると囁き程度のものだったのにしっかりと拾い上げて、ひとつ顎を引いてから、君は強くなったね、とダイゴは噛みしめるように告げたのだ。それはこれまでに彼が口にしたどんな台詞よりも真摯に、そして幾ばくかの憧憬を孕んで、押し寄せる波のごとく冴え冴えとミクリに届いた。

「思い出すよ、ダイゴがいつだったか私に言ったこと」
「なんだ、まだ根に持ってるんだ」
「違うったら……感謝しているんだよ、あのときダイゴが私を焚きつけてくれたから、私は今こうしてこの場所で、君に花を贈ってもらえたんだからね」
雷の名をたずさえた可愛らしい花をいとおしむように見つめてから、本当だよ、と笑ったミクリにダイゴは少しはにかむようにして息をつき、そうして数歩距離を詰めた。明るくも奥深いアイスブルーが炎のように揺らいだのを確かに捉えて、ミクリはそっと胸の内で安堵している。
『君のポケモンが僕のポケモンに、勝てるわけないよ』
ずっと昔、まだ出会って間もないころにまったく同じ強い眼差しで告げられた、忘れることのできないダイゴの台詞。あれは長いことタイプの話をしていたのだと思い続けてきたけれど、そればかりではないと気がついたのはかなり後になってからだった。だけれども結果論として、ダイゴはミクリに火をつけた。美しさばかりを求めていたミクリのバトルスタイルに勝利への渇望を抱かせたのは他でもない、そして後にも先にも、ダイゴただひとりだけだった。
「だけど、次は分からないよ」
「ああ……もちろん」
木の実のように咲くサンダーソニアの花々を避けてひょいと体を捻りながら、ダイゴはミクリの頬に触れるばかりのキスをした。親愛と祝福と、それから何が籠っているのだろうかとくすくす笑うと、今日はやけに機嫌がいいねとダイゴは顔を覗き込むようにして眉根を開いた。ああダイゴもダイゴなりに私の胸中を気遣っていたのかと思えば、それだけで愛おしさも増してくるというものだった。
明日からどこへ行くつもりなのか、ミクリは尋ねることをしなかった。どうせダイゴのことだから一所に長いこと留まってなどいないだろうし、ホウエンから出てしまうことだって多分にあり得るから、訊くだけ無駄だということはよく分かっていた。「だけどたまには帰っておいでよ、」からかう口振りでそう言えばダイゴは素直に頷くので、それでいいとミクリは思ってしまうのだ。ずっとそうやって、ダイゴがミクリを尋ねることで続いてきた関係だったから、これからもそうあれよかし、と、祈りにも似たこころでミクリは唇を緩ませる。君が戻ってくるまで、きっとチャンピオンの座は守ってみせよう。オレンジの花を視界に抱きながらそっと誓った。







氷上のプラネタリウム