残暑厳しい今年の夏はいつまでたってもお空の彼方に飛んでいく気配などなく、テッカニンの鳴き声にコロボーシの涼やかな声など影を潜めて森はしゅわしゅわ耳を麻痺させる音が氾濫している。山あいのエンジュシティはそんな時が止まってしまったかのようなぎらぎら光る炎天からの日差しと断続的な音のセッションの格好の餌食であって、昔ながらの街並みにも住民の姿はほとんどなく、古めかしい色合いで統一された家屋の屋根には陽炎こそできないが熱さによってどことなくぼやけているように見えた。
あーあこんなときに申し込むんじゃなかったかな、ぼやくと同時に手にしていたサイコソーダの缶に指を引っかける。プシュ、と小気味よい音が少しだけ気持ちを涼しくする。本当はジムに着いてから開けようと思っていたのに、あまりに攻撃的な日差しに照らされては帽子の中まで熱せられて頭もうまく動かなくなってどうでもよくなってしまった。
「歩きながらとは感心しないぞ」
「いーじゃないですか、暑いんだし」
隣を歩くミナキさんがこちらを見ていかにも大人らしい注意を口にしたが、そのじつ声色はこの暑さに参っている様子で、僕の歩き飲みをやめさせようという気もないようだった。ごく、と一度に飲めるだけ喉に流し込んで音をたてるとぱちぱち弾ける感覚がして、やっぱり夏は炭酸だよなあと思って大きく息を吐きだした。ぷはー、やめろヒビキおやじくさいぞ、ええーだってミナキさんもお酒飲めばこうなるんでしょ、私は大人だからいいんだ。
見上げれば額にうっすらと汗を滲ませたミナキさんが、ちょっと眉をひそませて視線を下げている。その色だけは涼しげなアクアマリンの瞳に、干からびそうな顔をした僕を映している。僕がパーカーを脱いで片腕にひっかけているように、ミナキさんもマントを外して鞄とひとまとめにして持っていた。それでもこんなかっちりした服装でよく平気でいられるなあと僕は思うのだが、ミナキさんに常識を求めるのは間違っているので尋ねることもしなかった。

「うっひゃー涼しー!」
そうこうしているうちにエンジュジムに着いた僕たちは、エントランスに満ちているひんやりした空気に生き返った心地でひと息ついた。暑い空気というのは吸うことさえ息苦しいのだ。ミナキさんも襟首を緩めてやっぱり涼しそうにしている。それにしても、今日エンジュの入り口あたりでばったり出会ってここまで一緒に来たわけだけど、ミナキさんがジムに用があるなんてちょっと意外だったなあと内心で首を傾げた。
「ミナキさんはマツバさんに用があるんですか?」
「ん?いや、特にそういうわけではないよ」
「え、じゃあなんでジムに来たんですか?」
「まあ……涼しいからだな」
「…………」
「はは、冗談だぜ!君とマツバがバトルするというのでな、ぜひ観戦したいと思ったのさ」
そういえば、そんな話をはじめにしたっけ。つい先刻のことなのに茹だりそうな頭では留めておくことも億劫だったようで、ミナキさんに話した内容も大半が蒸発してしまっていたらしいことにちょと引きつった笑いをこぼした。
「おや、なんだミナキ君も一緒なのか」
「マツバさん!」
いつの間に奥からやって来ていたのか、現れたマツバさんは僕たちを見て少し驚いたような顔をしたけれど、すぐにいつもの眠たそうな目に戻って片手を上げた。電話くれればよかったのに、とこっちに歩いて来ながらマツバさんがミナキさんに言うと、ミナキさんは呆れたような顔をして、ポケギアを見ろと短く息交じりに返した。するとぎくりとしたように苦笑して、ごめんごめんと慣れた調子で頭を掻く。マツバさんでもそういうことがあるのか、と漠然とした物珍しさを感じた僕だったものの、なんとなく相手がミナキさんだからなんだろうなと思った。
近くに来てまじまじ見てみると、マフラーが薄手のストールに変わっているだけでそのほかはほとんど冬と変わらない居出立ちなのが、地味に異様だった。この人たちはどっかおかしいと思っていたけれど、やっぱりおかしい。
「いらっしゃいヒビキ君、エンジュは暑いだろう」
「まったくだな……今年の夏はちょっと異常だ」
「君には聞いてないんだけどね…エンジュの夏なんて慣れてるだろ」
「いつでも涼しいジムに居る君と一緒にしてもらっては困るぜ」
「失礼な、僕は鍛えているんだよ」
長袖ふたりがどうでもいい言い合いを始めたのでできるだけ見ないようにしながら、僕は今日のバトルでどう戦おうかとシュミレートしてきた内容を頭の中で繰り返した。外では暑くて使いものにならなかった脳みそだったけど、だいぶん冷えてきてこれならマツバさんともいいバトルができそうな気がする。
「あ、いいなあヒビキ君」
「え?」
顔を上げると、マツバさんがこちらを見て微笑んでいた。ミナキさんもつられてこちらを見る。それ、と僕の片手を指差してちょっと苦笑すると、ジムには自販機がないんだよねえおいしい水を買い溜めしておきたいのに、と肩を竦めたマツバさんの視線にああなるほど、とようやく納得した。ジムに入ってから存在すら忘れかけていたサイコソーダの缶が、水滴をたっぷりくっつけて僕の手に納まっていた。マツバさんは炭酸が苦手だって前に言っていたから、缶の飲み物が羨ましいということなんだろう。言われてみればどこにも自販機は見当たらなくて、今さら知った事実に目を瞬かせた。
「エンジュにはもう少し自販機があってもいいと私も思うんだがな、古都というのは難しいね」
ミナキさんがやれやれといった調子で笑った。確かミナキさんの地元はタマムシのはずだから、そりゃああんな大都会に比べればこの街はずいぶんと不便も多いんだろうなとぼんやり思う。
「……ミナキさん、よかったら飲みますか?」
「お、いいのか?」
そういやずっと一緒に歩いてきたのに自分だけ飲んでいたなんて、相手が大人とはいえ悪かったなあと今さら思って僕はサイコソーダをミナキさんに差し出した。明るい色の目が嬉しそうに輝いたので、やっぱりこの人も喉は乾くんだなあなんて当たり前のことを考えて僕も笑う。ちょっとぬるくなっちゃったけど、と頷いて、差し出されたミナキさんの白い手袋に缶を収めようとする。
「だめだよ、ヒビキ君に悪いだろう」
しかし、不意にその声と同時に距離が開いて、缶は僕の手に握られたままになってしまった。きょとんとしたのは僕だけではなく、マツバさんに手首あたりをぐいと引かれてちょっとバランスを崩したミナキさんも間の抜けた双眸をぱちぱちとさせている。こどもを窘めるような台詞のわりには静かにあまり抑揚なく告げたマツバさんは、いつもの笑みを崩さずにミナキさんと目を合わせている。ひくり、とミナキさんの口端が一瞬だけ引きつったように見えたものの、すぐに「それもそうだな」と僕のほうにウインクをしてきたので見間違いかもしれなかった。
「あ、いや僕はべつにいいですけど」
「いいんだよ、ミナキ君に渡したら空っぽになって返ってくるかもしれないし、それはヒビキ君が飲みなって」
あくまで爽やかにそう言ったマツバさんは、じゃあそろそろバトルの準備をしようかな、とのんびり呟いて僕に向き直った。心なしかさっきまでよりも雰囲気が引き締まっている。僕も自然と力が入ってサイコソーダの缶を微妙にへこませながら、久しぶりのバトルに胸が高揚してくるのをありありと感じた。なんだか話題が急に飛んだけれど、マツバさんがやる気になってくれているのは嬉しいことなのだ。そんなやり取りを見ていたミナキさんは小さく息をつき、君は私をなんだと思っているんだ、とマツバさんをじと目で睨んだけれども、なんとなく諦めているような顔ですぐに眉を下げてしまった。マツバさんはハハハ、と笑っただけで何も言わない。これといって会話をしていないのにふたりの間では何かがやり取りされたようで、僕はちょっと羨ましいようなわけがわからないような不思議な気分になりながらそんな様子を眺めていた。
頑張るんだぜふたりとも、と気を取り直したらしいミナキさんが僕たちを交互に見ながら言ったので、マツバさんと目を合わせてから頷く。気づけばすっかりバトルモードに突入している僕とマツバさんだった。
ミナキさんには悪いけどと思いながらも残っていた中身を一気飲みして缶を捨て、じゃあ行ってきます!と拳を握って声をかけるとミナキさんは笑顔で頷いてくれた。久しぶりにヒビキのバトルが見られて嬉しいぜ、と言って手を振り、踵を返そうとするミナキさん。だけど完全に後ろを向く前に何かを思い出したらしく、足を止めて首を回し、もう一度僕のほうを見た。笑っているけれどその瞳にはなんとなく僅かの気まずさが含まれているような気がして、どうしたんですかと首を傾げる。あまり見たことのないたぐいの表情だった。
「あー、ヒビキ」
「はい?」
「その……今日のマツバは強いと思うから、気をつけるんだぜ」
それではな、と言い捨ててあっという間に観客席のほうへと向かってしまったミナキさんの背中に手を伸ばしたものの、声をかけるタイミングを失って僕はひとりでぽつんと残されてしまった。飴色の後ろ髪が揺れている。今しがたのミナキさんの忠告めいた言葉を頭の中に浮かべて、なんとなくさっきのマツバさんの笑顔が思い出されて、知らず知らずに気が引き締まった。マツバさんが強いことはもちろん知っているけれど、ミナキさんがそう言うなら今日は特別強いのだろうなと生唾を飲み込む。
頑張ります!と声をあげたと同時に、ワカバタウンのヒビキさんバトルフィールドまでお越しください、というアナウンスが流れて心臓が鳴った。慌ててジムの奥へと走りだす。脳裏にミナキさんの気まずそうな、だけど照れているような笑みがちらついたけれども、その意味について考える暇なんて僕にはなかった。




/着火剤