俺も健気なもんだぜ、と笑いながら呟かれた言葉はひどく冗談めいた響きで鼓膜をつついてきたけれども、それに返すあしらいひとつも思いつかずにデンジは視線だけで隣を見やった。ただでさえ蟹股のくせにさらに腰を曲げているオーバの姿勢は一見ガラが悪く見えるが、そのくせ下界を見下ろす横顔はどこかあどけなさすら残っている。アンバランスだ、と内心でごちた。 視線を戻せば、ぎゅっと瞳孔が縮んだのが感覚で分かった。青く澄んだ空がデンジの瞳を色濃くする。潮風に吹かれてゆったりと流れる雲は、海からの反射を受けて水色の影を宿しながら眩しいコントラストを描いていた。光の強さから逃れるように顎を引いていくと、空を映しとったソーラーパネルが規則正しい直線をいくつもいくつも交わらせて、ナギサの街を深青に染めている。太陽の街。デンジが手塩にかけてきた街。あれらと引き換えに一切の熱をどこかへ置き去りにしてきてしまった自分と並んで楽しそうな顔をするオーバは今、いったい何を考えているのだろう。ジムを開けずにタワーの展望台でぼんやりしている身分でどうこう言えたものでもないが、最初にデンジの有様を見たときには声を荒げて言い募ってきたオーバがこうも穏やかな顔をしているというのは、デンジにとって些か決まりが悪かった。かつての自分たちを鑑みれば、鬱陶しく暑苦しい問い詰めを受けているほうがよほど自然に思われて、ああ変わったのは俺だけではなかったのかと目を細める。大人になった。歳をとったと言ったほうがよいのだろうか。真っ直ぐぶつかっていくだけでは時にどうしようもならないことがあるのだと、人は誰だって知らず知らずに覚えていくものなのだろう。 とにもかくにも、今日は五月蠅い説教は受けずに済みそうだと静かに息を吐きだすと、空気の流れが耳朶に音として届いてしまってぎくりとした。静かだ。放っておくといつまでもこのしんとした時間が続いてしまうのだろうという立てたくもない予測を立てたデンジは、そういや俺がシカトしているからこうなっているんだった、とはたとしてオーバに向き直った。今度は体ごとだ。 「どこの誰が健気なんだよ」 「シンオウリーグのオーバ様だよ」 屈めていた背を伸ばし、そのまま上体をちょっと反らすようにしたオーバの上向いた相貌の中で、明るい灰色がデンジを映した。眉根を寄せて笑うのが癖であることをよく知っているから、その笑みは胸の内までよく馴染んだ。冗談は頭だけにしろよ、ここでようやく鼻で笑ってやりながら、呆れたふりをしてガラスの向こうへ目線をずらす。軽口を叩いていなければ沈黙を育てるばかりであったから紡いでみたものの、デンジにはオーバの言葉の意味などまるごと分かっていた。健気だなんて表現は似合わないにもほどがあるのにオーバにすんなりと納まってしまうときがあるとすれば、他でもない自分に関わるときだ。それ以外にはないだろうと、デンジは自惚れでもなくただ自負している。そこに甘えていることも、認めたくはないが気づいていた。 「すげえよな、お前」 「……あ?」 「昔から機械いじりは好きだったけど、ナギサ全体をこんなに変えちまうなんて思いもしなかったぜ」 俺の居ない間にソーラーパネルだらけになってるんだもんなあ、と肩を竦めて苦笑したオーバの赤いアフロが、視界の端でかすかに揺れた。 「お前が居なかったからだ」 「え、」 「なんでもない。それよりお前は……今のナギサをどう思う」 「どうってそりゃあ、好きだけど」 「俺が勝手に弄ったんだぞ」 「ああ……でもそれでナギサは発展したんだろ?」 なら嬉しくないわけない、といくらか眉を下げて首を傾げながら、オーバにしては珍しく言葉を選んでいるふうに視線を移ろわせてからまた笑う。ふたつの灰色がナギサの街並みを映すと無彩色にあらゆる色が紛れこみ、デンジはどうにもそれ以上見ていられずに同じように街を見下ろした。今さら何を訊いているんだと自嘲を滲ませた眼差しは、ガラスを通り抜けたあたりで目映い日差しに溶かされて、跡形もなく消えていった。 俺は今ナギサに居る、とにわかにデンジは思った。ガキの頃、薄暗くモノトーンばかり悪目立ちしていたあの路地裏で自分の視界を彩った鮮やかさ、それと同じ色が隣にある。まったく同じ色のままだ。浮かべる表情が大人びようとも、オーバの存在はひとつの明確な意味を持っていつだってデンジの中に在り続けている。切り替えひとつで電流を流しもし、止めもする、それは例えるならスイッチのようなものかもしれない。 お前はケナゲじゃなくて暇人なだけだろ。俯き気味に笑ってみせると、お前にだけは言われたくねえよと今度はオーバが呆れたような声を出した。ふたりして短く息交じりに笑う。オーバは健気だ。俺だけに健気なのだ。これからもリーグの仕事を抜け出しては俺に会いに来るだろうと、予感よりも確かにデンジには分かっていた。それでどうこう変わるとも思えないのに、わけなどなくとも救われた気分になる。本当の意味で、ナギサで息をすることができるような、水面からようやっと顔を出すことができるような、ひとつ突き抜けた感覚。青と眩しい光にこいつの色彩が混じって、そこで俺にとってのナギサは形を成すのだ。 戻って来いと、言いたいわけではない。もう関わるなと言えるわけでもない。ただ伝えたいことがあるとすれば、 「俺も、この街が好きだ」 ゆっくりとしゃがみ込んで視線をたゆたわせるデンジのつむじを見下ろして、オーバは黙って笑みを浮かべた。そんなの知ってるって。言外に告げられたいらえはただ、二人のほかには誰も居ない展望台に転がって、やがてデンジの影と混じり合った。デンジが笑う。お前にとっての俺も同じ意味を持っていてくれたらいいと、きららかな海辺の光彩に浸りながら願った。 /二人のつくづく続く日々 |