柔らかな光に瞼をくすぐられて、未だまどろみから浮上できないままサトシは目尻をむずむずと動かした。寝返りを打つと、いつものような寝袋の硬い感触もなければその下の草や土のにおいもまったくせず、代わりにほのかなソープの香りとふかふかとした枕の感触が頬を撫でた。きもちいいなあ、ぼやけた頭で考えてへらりと笑う。ドンバトルのためにライモンタウンで借りたホテルの一室は、久しぶりに温かいベッドでの安らかな眠りを与えてくれていた。野宿ならばここまで意識がはっきりしてくれば飛び起きてしまうところなのに、ふんわりした寝心地の布団がそれを引き留めて、サトシを再び夢の中へ連れて行こうとする。カーテンによってちょうど良く差し込んでくる朝陽もまた、とろとろとした眠りを誘っているような気がした。
「ピカピ!」
そこへ弾むような鳴き声が飛び込んできて、反射的にんんっ、と眉を寄せた。同じタイミングで肩のあたりに重みがかかり、ぺしりとおでこを叩かれてようやくサトシは半目を開けた。視界いっぱいにこちらを覗きこむ黄色と黒のコントラストに、知らず知らず目が覚めてゆく。赤いほっぺをむにりと撫でてから、おはよーピカチュウ、と寝ぼけた声で言うと相棒は元気にピッカ!と応えて耳を揺らした。
「……あれ、デントは?」
「チャア」
「んー?」
「ふふ、こっちだよサトシ」
起き上がって見ると、もうひとつのベッドはすでに綺麗に整えられていた。そこで眠っていたはずのデントはどこだろう、とまだ眠たげな顔できょろきょろとしたサトシに、ふたつの声が可笑しげに届く。首を回せば、備え付けの小さなテーブルに何やら料理道具を広げたデントがサトシに視線を向けながら、にこりと笑って首を傾げていた。「おはようサトシ、」「おはよ、デント」ふああと欠伸をしてからベッドを降りる。ヤナップがナップ!と手を上げてどうやらおはようと言ったので、もう一度おはようを言ってからテーブルの傍へ寄ってみると嗅ぎ慣れたにおいがして、ああこれはポケモンフーズかとすぐに気がついた。ホテルに泊っているから俺たちの食事は作らなくていいもんな、ようやく覚醒してきた頭でそう呟いたものの、デントの料理が食べられないのはちょっと残念でもあった。
「それ、ヤナップのフーズ?」
「そうだよ、草タイプ用特性ブレンドさ!」
「へー……あれ、それは?」
名前も知らない植物をふんだんに使っているらしいポケモンフーズのペーストを眺めていたサトシは、ふと視線を動かして目に止まったものに疑問符を浮かべた。それは紙のようだったが、綺麗な模様があしらわれていて罫線も引いてあるからどうやら便箋らしい。手紙かな、と瞬きをしながら見つめていると、ああこれはね、と笑ってデントはそれに目線を下げた。ふっと伏せられた目蓋が優しげな色を帯びたので、起きぬけの心臓がどきりとした。
「ポッドとコーンが、サンヨウを出る時に渡してくれたんだ」
美味しい紅茶の入れ方とか、ポケモンの元気がない時のためのフーズのブレンドとか、おいしい水の選び方とか絶妙な火加減とか、走り書きだからちょっと見づらいけどたくさん書いてあるんだよ。にこにことそう嬉しそうに話すデントは、手紙に所狭しと書かれた二種類の文字を眺めて懐かしそうに微笑んでいる。サンヨウで別れた兄弟たちを思い出しているのだろう、普段のくるくると変わる表情や弾んだ声ではなく、大人びた愛おしげなかんばせだった。
あまり見たことのないデントの面差しに、ろくに返事もしないままサトシは緑の双眸をじっと捉えて、そうして少しだけ口元を固くした。どうしてかよく分からないのに、デントのこういう顔は好きなはずなのに、それが俺に向けられていないことが面白くない。前に何度かデントが兄弟の話をしたときは、こんな気分にはならなかったはずだ。家族の話をする時には誰だって懐かしくてうれしそうな顔をするから、聞いているほうまで微笑ましくなる、自分もそうだったはず。だけど今こうして相好を緩めているデントを見ているのが、少し息苦しくさえ感じる、そのわけがうまく掴めなくて唇を尖らせた。
「サトシ? どうかした?」
「うーん……なあデント、」
「ん?」
「ちょっとさ、俺に好きって言ってくれよ」
へっ!?と間の抜けた声が部屋に響いた。今しがたまでの穏やかな顔色はもう影を潜め、丸い瞳を見開いてデントがサトシを見つめる。白い頬にはうっすらと桜色が浮かび上がっていて、ああ俺こういうデントのほうがもっと好きだな、と見つめ返してサトシは自然と相好を明るくした。「どうしたのサトシ、」「いいから」身を乗り出すと一層驚きと戸惑いに眉を下げながら、デントは少しだけ肩を竦めてちらと視線を逸らす。その先にはきょとんとした様子でこちらの様子を窺っている、ヤナップとピカチュウのつぶらな眼差しがある。それは分かっているのになお笑顔でじっと見つめるサトシに、やがて根負けしたふうに息を吐きだすとデントははにかむように笑った。やきもちかい?と小声で囁いてから、そっとサトシの耳に顔を寄せる。
(好きだよ、)
口元に手を添えてひそりと告げたデントの柔らかな声が、耳から全身に染み渡って、ゆるゆると頬が上がっていくのが分かった。そのままデントの手をぎゅっと掴んで掠めるだけのキスをすると、そうだよ焼きもち!と悪戯っぽく笑ってサトシは席を立った。そっかそっか、やきもちか。俺ってこんなにデントが好きなんだな。分かってしまえば可笑しいくらいに簡単で、心が躍り出すようなくすぐったいような気分になった。
ピカチュウ顔洗おうぜ!やたらと元気よく声をかけたサトシに、嬉しそうに跳ねるピカチュウ、ふたりの背中にひとことふたこと慌て気味に何かを言おうとして、結局じわじわと顔を熱くさせていくだけのデント。その賑やかな光景を眺めていたヤナップがしっぽを揺らすと、しばらく胸のあたりを押さえていたデントが相棒に視線を向けて、ふにゃりと力が抜けたふうに笑みを浮かべた。もう、しょうがないねサトシは。ひとりごとのように呟いたその声がとても嬉しそうなことくらい、ヤナップにはお見通しだった。