マツバの家にはチャイムであるとかインターホンであるとかそういった近代的なものは存在していなかったので、いつでも訪れる人間は引き戸の縁を叩いたり家の中に向けて声をかけたり、慣れた者ならば鍵が開いているかどうか確かめるためにまず戸を開きにかかることも少なくなかった。ミナキはそのもっとも後者であった。タマムシでは考えもつかないことだが、エンジュでは家人が居るのならば大抵鍵はかけないということはよく知っていたし、自分が玄関を開けたくらいで怒るような者はこの家にはひとりも居ないのだと、ずっと前から承知している。むしろ面倒だから勝手に上がってくれとまで言われたこともあったから、この日も遠慮などせずガラリと戸を引いた。
「やあ、ミナキ」
そうして開いた先の光景に多少なりとも面食らったのは、これが初めてであったかもしれない。マツバ、と反射的に呼びながら瞬きをすれば一段高いところからこちらを見下ろしていた水色の双眸がふっと穏やかに細められ、なに驚いてるんだよと笑ってちょっと肩を竦めた。薄暗い屋内であっても目に鮮やかな金糸がさらりと揺れた。
彼は、マツバであってマツバではない。いわゆるエンジュジムリーダーとして認知されているあのマツバよりも髪が長く、目は明るい水色をしている。顔は瓜二つと言っても差支えないが、長年見比べてきたミナキからするとこちらのマツバのほうがいくらか若いように見受けられた。
この水色の瞳をしたマツバは、いつの間にかマツバの家で当たり前のように暮らしていた。食事もするし眠りもする、だけどたぶん僕は人間じゃあないよと言って笑った彼の顔は、今でもミナキの脳裏に鮮明に残っている。しかし当の本人も、また本物のマツバもそんな一般的に見ればおかしな状況にひとつも違和感など覚えていない様子で暮らしていた。こいつがいると退屈しないんだよ、とやはり柔らかく軽い調子で笑ったマツバの紫色の目と、もうひとりの水色の目を見比べて、そんなものかといつしかミナキも順応していったのだった。慣れることに関しては自信がある。ただ水色のマツバがやはり普通とは違うと実感させられるのは、彼がマツバの家からは一歩も外へ出ることができないのだと思い出す時だった。おそらく結界か何かなのだろうとミナキは考えていたが、本人たちに詳しく尋ねたことはない。
「入ってくれよ、」
呆けた顔で見つめていたところにそう声をかけられて、戸を開けたきりつっ立っていたことを思い出し慌てて足を踏み入れた。
「こんなところまで出てもいいのか」
「え?」
「…開けたのが私じゃなかったらことだぞ」
「はは、ミナキだから出てきたんだよ」
お前が来ればすぐに分かるよ、と言ってマツバはちらりと奥に視線を向けた。廊下の突き当たりでふわふわと漂ってから壁のあちらへとすり抜けていったムウマが、こちらを見て笑ったのが一寸だけ見えた。どうやらあの子がミナキの来訪を教えたらしい。ならばいいがと息をついて、荷物を置いてから靴を脱ぎ、一歩上がればようやく同じ目線になった。それにしても君がこんなところにいるなんて驚いたぜ、今度はミナキが肩を竦めるとどこか得意そうな顔をして、マツバは顎を引いてくすくすと笑う。
「僕が奥から出てこられないと思ってたのか?」
「いや、そうではないが」
「嬉しかったんだ」
顎を引いたまま上目がちに見られて、心臓が煩くなった。なにが、と尋ねる前にどこかを見やるような目をしてから、だってまだ日が高いのに真っ直ぐここに来ただろとマツバは笑いながら言う。喜色の滲む眼差しを受けて、ああそういえばそうだとミナキは自らの行動を自覚した。以前ならば、この時間というとマツバはまだジムから戻っていないはずだから焼けた塔にでも行くか、となるのが常であったように思う。それが今こうして何処にも寄らずマツバの家に直行したのは、目の前に居るこのマツバが家に居ることを、知らず知らず意識してのことだったのかもしれない。
「ミナキ、」
「…玄関だぞ?」
「いいじゃないか、ちょっとだけだよ」
それまでポケットに突っこんでいた両手を外へ出し、腕を緩やかに開いて見せたマツバが何を言いたいのかは、生憎とすぐに分かってしまった。あいつならまだ帰ってこないよ、と涼しげに笑うさまが少しばかり苛立たしい。まあこれくらいは挨拶のうちだと自らに言い聞かせながら息をつき、ミナキは踏み出してマツバの腕の中に体を収めた。
抱きしめる力に応えるまま背中に腕を回すと、すぐ傍でおかえりと囁く声がして耳朶が熱くなる。擦り寄ってくるような動きが可愛く思えて、やはりこちらのマツバのほうが子どもっぽいような気がするな、とミナキは重みを預けながら目元を緩めた。








ガラ、


「………!マッ、!?」
「やあ、ずいぶんお楽しみのようだね」
前触れなく、そして勢いよく開いた戸の音に飛びのいたミナキが見たのは、逆光によって表情の見えないこの家の主のシルエットであった。正真正銘のマツバである。ばくばくと胸を叩いている心臓を宥めながら口を開こうとするより早く、靴を脱いで上がってきたマツバのいつになく毒々しい笑顔に頬が引きつった。ちなみに一見にこやかに映るマツバの笑顔であるが、こういうときが一番恐ろしいのだということをミナキは経験上知っているのだった。勿論そんなことはミナキよりも分かっているであろうに、「あれもう帰ってきちゃったのかあ」とか何とか言って頭を掻いている水色が恨めしい。
「抜け駆けはなしだって言ったよね」
「分かってるよ…でもさ、いくらふたりのだからってミナキもふたりと一度にしたりとか、大変だろ」
「ミナキくんなら大丈夫だと思うけどな」
「…なんの話をしているんだっ」
あああ、と頭を抱えたくなったミナキがふたりのマツバを挙動不審がちに見比べると、険悪ムードであるにも関わらず同じ笑顔でべつに、とマツバ達はいっそ爽やかに答えた。
「うわ、マツバ」
「なんでジムに来てくれなかったのさ、ミナキ君」
「いや仕事中に押しかけたらまずいだろうと…」
「…はー、」
背中から抱きついてきたマツバが肩に頭を押しつけて、じとりとした声を出した。至極まっとうな返事をしたはずなのだが、それを聞いてから腹に回る腕にはいっそう力が籠り、深く溜息をついたきりマツバは動かなくなってしまった。おそらくマツバも本気で怒っているわけではないのだろうが、帰って来ていきなりあんなものを見てしまっては苛立つのも仕方ないかとミナキはいまだ熱い顔を持て余しつつ考えて、ぴったりくっついている手の甲をゆるゆると撫でた。「ごめんなマツバ、」できるだけ甘く言ってみると、ぴくりと背後の体が反応する。
少し離れたところでその様子を眺めていた水色のマツバは、からかうような眼差しで、しかし面白くなさそうに再びポケットに手を突っ込んだ。謝られたり気落ちされると弱いのだと、感覚で分かっている。煮えそうだった腹の内がするすると治まっていくのを感じているのだろう、見えないはずのオーラがずいぶんと無害なものに変わったのが手に取るように感じられて、案外あっさり終わったなあと口には出さずごちた。
「ほら、機嫌を直してくれ…君達にしたい話もたくさんあるんだぜ」
「そうそう許してやってよ、男の嫉妬は見苦しいって言うだろ」
「…君が全部いけないんだけどね」
ミナキを挟んで半目で見つめ合った、というより睨み合ったマツバ達であったが、やがてどちらともなく息交じりの笑いをこぼして視線を外した。背中からようやっと離れてくれたマツバにほっとしたように苦笑して、こちらのマツバも子どもっぽいところはあるのだった、とミナキは内心で呟いた。愛されていることが分かって嬉しいのは確かだけれども、普段あまり感情を出さないマツバがこうも拗ねてくるのは肝が冷えるというか、まだ慣れない。大人げなかったと思ったのか顔を赤くしてヘアバンドをずりりと下ろしたマツバが横目でミナキを捉え、その視線にぎくりとして目を逸らすと今度はもう片方のマツバと目が合ってしまって、またしても心音は煩くなってしまった。どちらも一対一の時はいっそ淡白だというのに、ふたり揃うといつもこうだ。日ごろ隠されている正直な気持ちを見せつけられるようで、柄にもなく気恥ずかしくなる。

「っまったく、君たちは仕方ないな!」
じっとしていると何かが爆発してしまいそうな心地だったので、半ば勢いでミナキは両腕を広げるとそれぞれの手でマツバを捉え、ぎゅっと自分のほうに引き寄せた。ミナキ、ミナキくん、と意表を突かれて驚いたような声が聞こえる。三人で抱き合うような格好になり、自然とマツバ同士もくっつきあうかたちになった。こうすれば文句はないだろう、開き直った翡翠の眼差しがそう言って代わる代わるにふたりを見つめる。眉を下げて赤い顔をしているくせに、なんともミナキらしい発想だ。ふたりは目配せをして笑い、今しがたまでの苛立ちを変換させるように腕に力を込め、両側からミナキをめいっぱい抱きしめたのだった。





/愛しい君のいうことなので

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