風が震える音を聞いた。

亀裂の入ったレンガに顔料を塗り込める手は休めずに、視線を上げ、その拍子にこめかみを流れ落ちた汗を片手でぐいと拭って息を吐く。体中に籠っていた熱が逃げていく。代わりに吸い込んだ空気には、かすかに潮の香りが混じっているのが分かった。まだずいぶんと、自分にとっては新鮮なにおいだ。
見上げた先の高窓からは、白んだ日差しが降り注いでいる。もう陽も大分登り切ってしまったのだ、と目を細めて立ち上がると、ドレッドは丸めっぱなしだった背をぐっと伸ばした。背骨が少し軋む。朝早くから城の下層に入り込んであちこちの補修をしていると、時間の感覚が薄れてしまっていけない。薄闇に慣れていた目は眩しい青空に焼かれたように、瞼を閉じてもなお、光を宿して少しだけ痛んだ。
「ん?」
窓によって切り取られた晴天を、白い影がふっと横切る。瞬いて目を凝らすと美しい流線がくるりと弧を描き、それと同時にまた、風を揺らすあの鳴き声が響いた。白の軌道に、透き通った青色を捉える。レシラムが呼んでいるのだとようやく思い至ったドレッドは、しまった、と呟いて手鍬を置くと慌てて部屋を飛び出した。
細い梯子を登り、廊下を幾度も曲がってから、いくつかの階段を駆け上がる。潮のにおいは深くなり、視界の明るさが増してくる。エントランスで、と約束をしていた時間などとっくに過ぎているのだろう、本当に体内時計が狂っているのだと思い知る。すっかり体に染み付いてしまった城の構造も、あの子にとってはまだまだ未知の迷路だ。しびれをきらして迷い込んでしまってはいけないと、知らず知らず足は速度を増していた。
しばらく走っていくと、見慣れた赤が揺れた。「あっ!」と声を上げてこちらを見止めた少女に息を切らしながら笑みを向ければ、すぐに走り寄って来た彼女は分かりやすく拗ねた様子で腰に両手を当てると、肩で呼吸をしているドレッドをじっと見上げてきた。への字に曲がった口が、その不機嫌を物語っている。
「もう兄さん、探したのよ!」
「ごめんごめん、約束を忘れてたわけじゃないんだ」
「また地下に居たのね?上の階を探してもちっとも見つからないんだもの」
「ああ……下のほうが壊れ方がひどいから」
「はー、レシラムにお礼を言わなきゃ」
カリータは口を尖らせてから少し笑って、外に向けて大きく手を振った。細いシルエットが空に縁取られて、影絵のように浮かび上がった。フォオ、と応えるようによく通る鳴き声があがる。しかし滲むほどに濃い青空のどこを辿ってみても、あの白い姿を見つけることはもうできなかった。きいん、と高みをゆく飛行機の音に似た残響がふたりの耳に届いて、あとはすっかり静かになってしまった。
やれやれというような顔をして、ドレッドとカリータは再び視線を合わせて笑う。二匹の竜は、いつでもこんな調子だった。こちらが求めたときにはどこからともなく溶けだすように現れて、役目を終えれば消えてゆく。アイントオークにぽっかりと空いた穴を整備するために力を貸してくれたときだって、レシラムとゼクロムはいつの間にかいなくなってしまってお礼を言うこともできなかった、と、カリータやジャンタは嘆いたものだった。あとで兄さんからちゃんとお礼しておいてね!そう二人からものすごい勢いで言われたのを思い出し、ドレッドは妹に気取られないよう苦笑を滲ませる。あの後城に降りてきたゼクロムとレシラムに家族の言葉を伝えたところ、きょとんとした様子で大きな首を傾げられてしまったことは、きっと言わないままのほうがよいのだろう。感謝は数えきれないほど伝えてきたけれど、結局あの二匹にとって、この町を守ることは息をするように自然なことなのだと、ドレッドは日を重ねるごとに実感している。そしてそれだけに、こんな些細な(妹にとってはそうではないだろうが)ことまで助けてくれるのには幾分申し訳ない気もしたし、伝えきれないほど嬉しいことでもあった。いつでも近くで見てくれているのだと、こういう何気ないことで気がついては安堵する。

「そうそう、ほら兄さん見て!これっ」

いつの間に取りに行ったのか、小箱を抱えたカリータがきらきらと目を輝かせて兄の顔を覗きこんでいだ。疑問符を浮かべたドレッドの目の前で蓋がぱかっと開くと、現れた鮮やかな色彩に瞬く。それはついこの間目にした光景とよく似たものであったのに、とても懐かしいような気がして、ほうと思わず感嘆のため息を漏らした。
「すごいじゃないか……これをお前が?」
「母さんと作ったの! デント君みたいにうまくはできなかったけど……」
「いや、十分だよ。すごく美味しそうだ」
箱いっぱいに詰められた色とりどりのマカロンが、ふんわりと甘い香りを伴って、体中の疲れを連れ去っていくような心地。その柔らかさに笑みをいっそう穏やかにして帽子の上から頭を撫でれば、カリータは照れくさそうに、それでも嬉しそうにはにかんだ。あれからこっそり練習していたのだろうかと思うと、少し目の奥が熱くなる。このメレンゲ菓子は自分たち家族にとってとても大事なものになっていたのだと今さらながらに気がついて、いとおしむ様にマカロンをひとつ手に取った。少し力を入れれば壊れてしまいそうな感触がはじめは怖かったが、慣れればこの独特の感触も癖になる。
(あの子に似ているな)
柔らかくて脆い、
それでいて鮮やかに胸に残る。
不意に脳裏に浮かんだ無邪気な笑顔、それから軽やかな鳴き声に目を細める。瞳の奥がちかちかと眩しくなったような気がした。すると何かを察したらしいカリータがちょっと眉を上げたのち、今度は兄の手をぎゅっと握って、大きな瞳を穏やかに瞬かせてほほ笑んだ。はたとしてその表情を見つめると、大丈夫よ兄さん、とそれだけ告げて返事も待たずに箱ごとマカロンを押しつけ、カリータは帽子の飾りを揺らして踵をかえした。突然のことに目をしばたかせたドレッドに、ちらっと振り向いて彼女は何かを含んだ笑みを浮かべる。にっ、と音のしそうなその面差しは彼女らしくないくらいいたずらっぽいものであったから、一瞬ぽかんとして立ち尽くしてしまった。
「……お、おいカリータっ!」
我に返り、焦った声で背中を追いかけようとしたドレッドだったものの、マカロンを壊してはいけないと気取られているうちにあっという間に妹の姿は小さくなっていく。そうしているうちにやがてトントントン、と石段を降りる音が聞こえ出してしまい、もう追いつくのは無理かと足を止め、呆け気味のまま眉根を開いてたじたじと笑った。きっと、何を考えていたのかなんて筒抜けだったのだろう。妹にも母親にも、昔からまるで敵わない。まあ今に始まったことではないけれども。
ゆっくりバルコニーに歩み寄ると、思った通り、城とアイントオークを結ぶ唯一の道に繋がる石畳に立って、パートナーであるサザンドラを撫でるカリータの後ろ姿が見えた。城から町まではだいぶ離れてしまったから、サザンドラには感謝をしないといけない。妹といえども、あの道のりを歩かせるのは流石に気が咎めた。

「ティニ!」
「……!」
気をつけて帰れよ、と声をあげようとしたとき、すぐ後ろで弾む声があがって目を見開いた。すぐに振り返ると、目線と同じ高さでふわふわと浮かんでいたビクティニがつぶらな瞳を輝かせて、ティニティニ、となにやら機嫌良さげに鳴いている。どうやら、辺りに広がる甘いにおいに惹かれてやって来たようだった。ひょっとしてカリータは知っていたのだろうか。あの笑顔が蘇ってふたたび城下を見下ろしたが、もう飛び立ってしまったあとらしく、彼女もサザンドラの姿もどこにも見えはしなかった。
ティニ、と呼びかける響きに視線を戻す。丸い双眸がじっとドレッドを見つめ、どうしたのかと言いたそうに瞬いた。
「……はは、」
今しがた、少しの懺悔とともに頭に浮かべた存在があまりにこともなげにそこに居るので、ドレッドは気の抜けた笑いをこぼしてしまった。ほとんど無意識に手を伸ばそうとして、しかしそっと引っ込める。こちらから触れるには、まだ、少しだけ時間が要るような気がした。憶病になっているつもりはないが、以前より慎重になっているのかもしれない。こうして傍に居てくれるアイントオークの守護神を、もう二度と傷つけないために。怖がらせることのないように。とにかく焦ることはないのだと自分に言い聞かせながら、そっと笑んで見せて視線をずらす。ドレッドの逡巡を知ってか知らずか、不思議そうにビクティニは首を傾げて、その目線の先を一緒に追った。
「ティニ?」
「ほらビクティニ、その箱には何が入ってると思う?」
「ティ?ティニ〜ティニティニッ!」
「そうそう、お前の大好きなマカロンだよ」
ぱたぱた動く羽を微笑ましく見やり、それから箱に手をかければ、待ちきれないとばかりにビクティニも一緒に蓋を持ち上げた。ほんの僅かに手が触れる。温かい、小さな手だ。この小さな手と体に計り知れないエネルギーが秘められていることを、ドレッドは身を持って知った。闇を割いた大きく目映い光を、今でも鮮明に覚えている。
「ティニ〜!!」
姿を現した色とりどりのマカロンにきらきら瞳を輝かせたビクティ二は、ぴょんぴょんと空中で跳び跳ねるようにしてドレッドの周りを回ってから、小さな歯を覗かせてそれは嬉しそうに笑った。自然と目元が綻ぶ。カリータと母さんが作ったんだ、話してやりながらひとつ、ビクティニによく似たオレンジ色のマカロンを手にとって差し出すと、小さなふたつの手でそれを抱えてサクサクと食べ始める。カリータがこの様子を見たら、さぞ喜ぶだろうなと思った。
「そうだ……ゼクロム達は食べないかな」
「ティニ?」
「食べてくれれば、二人ともとび上がって嬉しがると思うんだけど」
「ティニニ〜……ティッ!」
ちょい、とビクティニが小さな手を空へ差し向ける。ん?とつられて見上げた先に目を凝らすと、真夏の空にふたつの影が浮かび上がるのが見えた。バルコニーまで駆けて身を乗り出して手を翳せば、大気を震わすふたつの声が空高くからドレッドの耳に届く。まさか本当に来てくれるとは、そう相好を明るませて振り返った先では、相変わらず嬉しそうにマカロンを食べるビクティニの無邪気な姿があった。