読書の一区切りにと脚を組みかえたゴヨウが活字からちらと視線を上げると、ワインレッドのソファでごろごろしながらブースターを腹に乗せ、エーフィを構っているオーバの笑い声が唐突にクリアに耳に入って来た。文章に意識を潜り込ませているときは辺りの音など雑音ほどにも聞こえないのだが、一度目を離してしまうと水中から息継ぎに上ったように自分を取り巻く空気はがらりと変わる。ちょろちょろとオーバの周りを器用にバランスを取りながら走り回るエーフィはさすがにゴヨウの躾けによりそうそう鳴声をあげたりはしないけれども、それでも時折りこのやたらと遊んでくれる派手な人間はなんなのだろう、と大きな目をしばたかせて楽しげに喉を鳴らしているようだった。対するオーバはエーフィを構うのが相当楽しいのか、抱きかかえるでもなくさせたいようにさせながら近くに来るたびに撫でては笑い声をあげている。この部屋にこんなにも賑やかな声が響くのは珍しいことで、読書の妨げにならないといえば嘘になるものの、あれでも声を潜めているつもりなのだろうと思えば微笑ましくもある。腹の上で丸まっているブースターは少し眠い様子で、賑やかなオーバになど慣れきっていることは容易に窺われた。ふぃ、と小さくエーフィが楽しそうに鳴く。ああいうスキンシップの取り方は自分にはできないな、ゴヨウはそう内心ひとりごちて目を細め、誰にも気づかれない程度に小さく息をついた。 「うわっ、」 しばらくそんな風に傍観していると、オーバの焦った声がやや大きめに聞こえた。ああやっぱり、とゴヨウは続く音が届くより早く軽めに目を瞑った。今度は大きめの溜息をついたが、やはり彼らがそれに気取られることはない。どさどさどさ、とゴヨウにとってはある意味聞き慣れた音が空気をざわつかせ、やがてまた静かになる。しいんと沈黙を落とした一同には気まずい雰囲気が分かりやすく漂っていたもので、やれやれと本を閉じてゴヨウは立ち上がった。ぎくっとしたオーバの首がギギギとこちらに振り返り、しゅんと耳を垂れたエーフィが申し訳なさそうに色眼鏡の奥を見上げている。 「わ、悪いゴヨウ……すぐに片づけるから」 「いいですよ…そんな積み方をしている私もいけないんですから」 ソファの脇にあるローテーブルの一角に積んであった書物が雪崩を起こすことなど、なにもこれが初めてというわけではない。ここはリーグ所属の四天王にひとつずつ与えられる、所謂控室のような部屋だ。バトルルームの脇に設えてあるため大変便利ではあるのだが、いかんせん広さが十分ではない。特に書物を愛するゴヨウにとって、愛書を持ち込むにはスペース的にとてもではないが足りなかった。「それでも持ち込むんだからさすがゴヨウさんだよね」と以前リョウには呆れがちに言われたことがあったのだが、ノーブックノ―ライフであるゴヨウにとってみれば部屋に本がないことのほうがよほどナンセンスである。そういうわけで本棚には収まり切らない本類が、こうしてデスクやローテーブル、ベッド脇にまで所狭しと積み上げられることになっているのだった。勿論そこらへんに積んである本は雑誌であったり安い小説であったり、比較的ゴヨウにとって重要度の低いものである。 「おお!エーフィお前すっげーな!」 「ふぃ、ふぃー」 「どうやら私の出る幕はなさそうですね」 ゴヨウが本の雪崩を眺めている間に、エーフィがサイコキネシスによって落ちてしまった本をふわふわと空中に浮かばせはじめた。エスパー使いにとっては日常的な風景なのだが、オーバにしてみると目を輝かせるほどに魅力的らしい。エーフィと一緒に本を片づけ始めた彼に肩をすくめて見せると、おう、と笑ってオーバは手をひらひらと振った。読書に戻っていいぜということらしい。エーフィも同じように目配せをしてきたので、微笑んで見せてからゴヨウはデスクに戻ることにした。ちょっと放っておいただけであんなに仲良くなってしまうのだから、オーバ君はすごいですね。わずかに芽吹いていた苛立ちも影を潜め、笑みを保ったまま腰を下ろす。さて、どこまで読み進んでいただろうか、 「……ん?」 ぱらぱらページを捲り始めていたゴヨウであったが、足元に訪れた謎の感触に再び顔を上げた。視線を落とし、おや、と眉を上げてそれと目を合わせる。つぶらな瞳をじっと上向けて何かを訴えたそうにゴヨウを見つめていたのは、オーバのブースターであった。どうしたんですか、声をかけてからオーバ達に目を向けて、ああそうかと納得して苦笑を漏らす。ブースターが手伝うとうっかり本を焦がしたりしかねないと、オーバが離れているように言ったのだろう。まどろみかけていたところへそんな風にあしらわれてしまったので、ちょっと不貞腐れてゴヨウのところへ来たというわけらしかった。 「仕方ないですね…ほら、おいでなさい」 腕を広げてスペースを開けてやると、ぴょんと膝に飛び乗ってブースターは嬉しそうに鳴いた。確かにエーフィよりも体温は高かったが、本に影響を与えるほどではないだろう。ふわふわと真綿のような手触りをひとしきり楽しんでから本に目を戻せば、ブースターもすぐに丸まって昼寝に身を投じてしまった。遠くでオーバとエーフィの声が波紋のように波を作っていたが、また静かに水に潜るように、それらの音は次第にゴヨウの判ずるところではなくなっていった。 「おーい、ゴーヨーウ―」 はた、としてゆっくりと瞬きをする。白地に黒ばかりのページから浮かび上がった視界に飛び込んできたのが派手な赤と黄色であったので、ゴヨウの目は少しちかちかした。ああオーバくん、どうしました。尋ねると眉をちょいと下げたオーバはその場でしゃがみ、抱いていたエーフィを膝で支えて前脚を両手で持ち上げると、ちょいちょいと動かし始めた。まるでエーフィが二足歩行を始めたようで、可笑しい光景だった。 「オレ、オナカスイタナー」 「ふふ、その子はオレなんて言いませんよ」 「えー分かるのかよ」 「分かりませんけど」 裏声を出してエーフィに喋らせたオーバに呆れた笑みを見せてから、膝のブースターがすでに飛び降りていることを確認してゴヨウは立ち上がった。今日は一向に読書が進まない。オーバが自分の控室は熱いというので、ひとつ上のフロアであるここに居座りだしてからずっとこんな調子だった。普段ならば冷房をつければまあ電力の無駄遣いではあれど事足りることだったが、今年は節電にいそしまなければならないためそうもいかないらしい。それならばまずあのバトルルームの暑苦しい仕掛けをなんとかしたらどうです、ゴヨウは一応正論を言ってはみたがそこは四天王、拘りがあるのは如何ともしがたいのだった。オーバのところまで挑戦者が来ない以上は、ずっとこの少し暑苦しい夏が続くのかもしれない。 「もうお昼時ですし、食堂へ行きましょうか」 「おーよっしゃ!」 わーいと効果音がつきそうな動きでエーフィの前脚を持ち上げてから、彼を解放してオーバはにっかりと笑った。互いにブースターとエーフィをボールに戻し、今日の日替わりはどうだこうだと話しながら部屋を出る。オーバは確かに暑苦しいが、しばらく一緒に居ると慣れるのも早いのだ、とゴヨウはつくづく納得しながら穏やかに笑った。まあこんな夏も、悪くはないだろう。 |