つんと鼻を刺激する臭いに眉間を皺立てて目を開けると、ベッドランプのさほど明度の高くない光がそれでもちかちかと瞳の奥を刺激した。手を翳そうとしてそれを阻まれ、仕方なくもう一度瞼を閉じればあれ起きちゃったんですか、と迷惑そうな声色が傍らから降って来る。指先を何かが撫でる感触がくすぐったい。迷惑なのはこちらのほうだと内心悪態をついたけれども、返事をするのも癪だったので黙って空いているほうの手を眉間に乗せて緩慢に視界を広げた。目尻がまだ覚醒を渋るように脱力している。天井の明かりは落ちている。仮眠を取り始めてからどれほど過ぎたのかさっぱり分からなかったものの、今触れられているのが薬指であるからさほど眠ってはいないはずだ、とコーダイは掠れがちに唸りながら思案した。ちらと目線をずらすと、オレンジがかったライトに照らされた深い緑がじっと同じ場所から動かずそこにあるのが見える。コーダイの手に注がれている眼差しは、声に似合わず真剣味を帯びている。ほとんど無表情に近いくせに、楽しんでいるのは手に取るように分かった。こんな薄暗い中でよくそんな細かい作業ができるものだ。そこについてだけは感心を抱かざるを得ないが、おそらく部屋中に充満してしまっているであろう独特の臭いを前にしてはやはり顔をしかめてしまう。女というのは日常的にこんなものを爪に塗っているのかと思うと、頭が痛い。理解しがたい。僕も同感だなあなんて気の籠らない調子で笑ったくせにこうして人様の爪を遊び道具にしているこのガキも、やはり同じように理解に苦しむ。 「わあ、こらだめだって、こっち来るなよ」 どこかに潜んでいたらしいムウマージが真冬の針葉樹のような髪をもふもふいじり始め、それに眉をひそめて首を振って追い払おうとするクルトはどこか小動物のようで滑稽に映る。かつて敵対していたくせに、と歯噛みをする資格は生憎コーダイにはない。猶予を与えられて再び社会に身を投じることとなった途端、ことあるごとに取材だと言っては後をついてくる忌々しい若造が鬱陶しくて仕方がなかった。仕方がなかったのでいっそうちに住めと投げやりな言葉が口をつき、それが実現してしまった。それはいい考えだねコーダイさん、いやに爽やかに笑った丸い瞳が今でも忘れられない。後悔は先に立たない、学びきったはずなのにまだ重くのしかかってくるこの教訓にきっと終わりなどないのだろう。そうしてつまり同居人になったからには、こいつはとりあえず敵ではなくなったのだと手持ち達に教えてやらねばならなかった。案外ポケモンには優しいらしいクルトは、ムウマージやカゲボウズに対してはあの事件などなかったかのように接するので奴らもすぐに慣れてしまい、こうやって主を差し置いてちょっかいを出したりしている。もっともコーダイにはポケモンと戯れるという習慣がなかったので、人間にじゃれつく彼らを見るのは新鮮だった。 「ほらはみ出しちゃうだろ…あっちでドーミラーと遊んでろよ」 「ムゥ、ムゥ?」 「……ムウマージ」 ふよふよ飛び回っている黒と紫の影をしばらく眺めていたコーダイであったが、本当にマニキュアがはみ出したら困ると溜息をついて手招きをしてやる。すぐに嬉しそうに鳴いて寄って来たムウマージを撫でてやると、シルクに触れているような柔らかい手触りが心地よかった。 「よし、終わった!」 「気が済んだならすぐ落とせ」 「ええーいやですよ、せっかく塗ったのに」 ようやっと解放された手を持ち上げて見やる。五つの爪にご丁寧に塗られたホーリーグリーンのマニキュアはまだ乾き切っていないようで、潤いを含んでてらてらと光っている。この色は嫌いだと知っているくせに買ってきやがったクルトは実に性格が悪い。しかもこうして遊ぶためだけに買ったのだ。僕の髪とそっくりですよねえと笑いながら小鬢を取りだした時から思っていたが、やはりこいつはどこか頭の螺子が抜けているのかもしれない。こと仕事以外のあらゆるものに対してクルトはコーダイ以上に淡白なきらいがあり、またどうでもいいことに異様な関心を抱く。この子供じみた好奇心が自分の野望を打ち砕いたのだからいやになる、馬鹿には勝てないとはきっとこういうことなのだ。何馬鹿であるのか上手い言葉が見つからないが、とにかくクルトにはパラノイアじみた偏りがあるようにコーダイには思われた。 「……私は寝る」 「ええ?」 「寝ている間に落とせ……いいな」 今しがたのようにだらりと片手をクルトに差し出し、ムウマージをひと撫でして深く息をつく。再び瞼を閉じる。こいつについて考えることはひどく骨が折れる心地がするのだが、まなこの深淵に輝くビジョンがもはや過去のものとなった今では唯一ぶれない予感を自らに与える男であるというのもまた事実だった。お先真っ暗の代名詞だなどと騒がれている身の上で、それでも目覚めた朝にクルトが近くに居るということだけは知っている。嫌でも分かる。分かっている以上は慣れるしかないのだ、ムウマージやカゲボウズのように、こいつのいびつな無邪気さを日常にしていくしかない。 まどろみの上辺でムウマージとクルトが何かを楽しげに喋っている音が聞こえたが、積極的に思考を投げ捨てようとしているコーダイには届かなかった。真っ暗なまぶたの裏側で、一寸だけホーリーグリーンがちらついた。深い森が湛える色、離れるすべを知らぬ色だ。 |