あともさきも分からなくなるほどに暗くざわざわと風を鳴らす木立の中、小さいふたつの生き物が灯りも持たずに進んでいくのはおそらく傍目には異様なのだろう、とベルゼブブは考えて、すぐにどうでもよいことだと目蓋を下ろして翅を進めた。どうせこの道には誰も居ない。祭りのためのあしらいである雪洞はとうになくなっており、替わりと言えるのか心許ないが、小さな石灯篭がぽつんぽつんと忘れた頃に現れてはかろうじて砂利道を照らしている。
少女の白いワンピースのほうが、よほど目に明るいではないか。そう見もせずに考えていると、くいっと繋いでいた手を引かれた。目をしばたかせる。空中で止まってから少女に向き直ると、いつの間にか道の続く先とは別の方角にまなざしを向けていた彼女は、ぼんやりとした面持ちでそちらへ爪先を伸ばそうとしているようであった。見つめる先にはただ、真っ黒い闇がわだかまっている。差し込む月明かりもそこへは届かず、草木のシルエットはひとつも見えず、それでいて今にも動き出しそうな底のない暗闇をじっと見つめてから、ベルゼブブはつまらなそうに目を細めた。ひどく懐かしいどろどろとした纏わりつくような感触を思い出し、溜息をついて少女の手をこちらへ引き戻す。
「いけませんよ、あちらへ行っては」
くんっと腕がつっぱってから、少しよろけて白く細い体が戻ってくる。ぺんちゃん、と目を丸くして呟いたさまに再び嘆息してから視線を外し、ベルゼブブはまた道の先へと手を引きながら進み始めた。その呼び方はあまり気に入らなかったものの、名前を教えるのはもっと憚られた。なにもしらなくていいのだ、あなたは。


やがて開けた場所へ抜けるまで、少女はもう闇に惹かれることはないようだった。どうやら其処はあの夏祭りのために敷地を提供している寺の土地であるらしく、小さな社のようなものがぽつんとある他にはいくつかの道がどこかへと続いているだけであった。その道もこれまで通ってきたものよりは随分と舗装がしっかりとしていて、本当にあれは抜け道というか裏道のようなものだったのだと合点がいった。
「おじいちゃん!」
ぱっと手が離れ、少女が飛ぶように駆けてゆく。その後ろ姿はひらひらとして、両手を緩やかに上げるさまがスロウモーションのごとく浮世離れして映り、さながら蝶かなにかのようにも見えた。目で追ってゆくと、いつからかは知れないが社の近くに初老の男性が静かに佇んでいて、呼ばれたのは彼なのだとすぐに分かった。白髪を丁寧に撫でつけたすらりとした佇まいの老人は、足元までやって来た孫を認めるとにわかにかんばせを綻ばせ、ゆっくりと腕を広げて彼女をふわりと抱き上げる。彼もやはり白い服を着ており、ふたりの周りだけがぼんやりと霞のような光を帯びているように見えた。

手を振る、ふたりも振る、それを幾度か繰り返しながらゆっくりとかたちを朧にしてゆく老人と少女を遠目に眺めていたベルゼブブは、最後にあの老人が柔和なまなざしと共に静かに会釈をしたのを、薄らいだ輪郭の中にそれでもしっかりと捉えた。むずりと嘴を動かした時にはもうすっかり消えてしまった、ひょろりとした白い姿に、やれやれとかぶりを振って半目をつくる。棲む世界が違うとは、こういうことを言うのだろう。穏やかで裏がなく影もない、しかしひとふきの風に消えてしまうような、ひどく儚げなところで彼らはああして笑っているのだ。もはや人ではないものになって、それでも人のかたちでほほ笑む彼らが少しばかり分からなくて、鼻白む。悪魔たるこの私に、あんな顔をするものではありませんよ。もう二度と合わぬことをひそかに願いながらひとりごち、くるりと元来た側へと体を向けた。

「……おやおや、これは」
「こんな所で何してる」
「それはこちらの台詞ですがね…迷子を送り届けていたのですよ」
驚きよりもうんざりとしたニュアンスが色濃いのは、自らの行動があまりに存在理念から逸脱していたためというところが大きい。半分ほどを宵闇に溶け込ませるようにして立っている芥辺はやはりどこからかベルゼブブ達の様子を見ていたのだろう、返答にさして顔色も動かさずにただ「そうか」とだけ述べて、今しがたまでふたつの白い影があったあたりを見やるとつまらなそうに息をついた。
「さくまさん達はどうした」
「今ごろ記憶を食われて楽しく縁日、といったところでは」
「……殊勝なことをしたもんだな、悪魔風情が」
「心外ですなあ…ワタクシどもだってお祭りくらい楽しみたいのですよ、あんなのを放っておいたら後味が悪い」
うつつへ迷い出てしまった彼らは大抵があの子のように闇に引かれ、そうして捕らわれ、誰にも知られず黒く堕ちてゆくだけだ。それを楽しむ連中だって魔界にはごまんと存在する。そういった哀れな魂をベルゼブブは今まで何度も見てきたけれども、これといって感慨を抱いたことはなかった。引きずり込むことも追い返すこともしなかった。死肉を喰らい、残った魂を地獄へ連れてゆくことだけが役割であるベルゼブブにとって、迷い込んだ白い連中など至極どうだってよいものだったのだ。それゆえ今しがたご丁寧に手を引いてやったことは大層稀なことであったし、ああして感謝をされても胡乱気に首を振ることしかできない。殊勝とはいえやはり自らのためにしたのだし、間違っても善意などというおぞましいものに動かされたわけではなかった。人間というのは記憶を引きずる面倒な生き物だから、この場合これが一番良いのだ。なにより我々悪魔のために。
佐隈と光太郎に見つけてもらったのが彼女にとっての幸いであったのだろう、と口には出さず述懐して、ベルゼブブは芥辺に肩を竦めるような仕草をして見せた。もちろん、肩などなかったけれども。
「ところで、それは」
ちょいとペンギン型の手を差し伸ばして芥辺の小脇に抱えられているものを示してみると、ちらと視線を落としてから彼はどこか忌々しいといった様子でそれを抱え直した。小さな石塔のようだったが、ところどころ欠けていたり罅も多く見られる。彫られている文字は風化してしまってうまく読み取れない。角の取れた随分と古いものであるらしいということだけは分かったものの、いくら目を凝らしてもそれをどういった由縁で芥辺が抱えているのか、ベルゼブブには捉え兼ねた。
「これは寺の四方に置かれていた、まあ結界みたいなものだ」
「えっ、それではあの子は貴方のせいで」
「馬鹿を言え……見ろ、こんな状態じゃあまともに機能するわけないだろうが。今から住職に新しいのを作らせに行くところだ」
言い終えるより先にざくざくと草むらを割って歩きだした芥辺は、ベルゼブブの横を抜けながら「お前も来い」と呟いて歩を進めた。うっすらと青筋の浮いた相貌に冷や汗を流す。「何故でしょうか」「またああいう霊が出るかもしれんからな」振り返りもせずに告げる芥辺の言葉には、もはやこちらへの決定権など微塵も含まれてはいなかった。つまり迷子案内のためにこき使われるのですか!ふざけんなちくしょう!歯ぎしりをしつつも従わずにはいられないベルゼブブは、仕方なく芥辺の歩調に合わせて飛ぶと、眉間に皺を寄せたまま石碑を忌々しく見やった。一体いつからこの有様であったのか。結界の面倒もろくに見られないその住職とやらは、一度こっぴどく灸を据えられたほうがよいだろう。おかげで苦労している人間と悪魔がこうして、祭りの賑わいから離れた草むらをむなしく歩く羽目になっているのだから。
「……もしやアクタベ氏、さくまさん達とお祭りに行かなかったのはこのために?」
「祭りってのはああいう輩がふらふら出てくるからな…この町に来てから気になってはいたが、見にいってみれば案の定だ」
舌打ちをし、心なしか足を速めた芥辺の横顔からは何も窺い知ることはできなかったけれども、どうやらこれが仕事絡みというわけではなさそうだと知れて、ベルゼブブは些か拍子抜けした。なんだ、私もこの男も、およそ性に合わないことを勝手にしているだけではないか。そう思うと何やら笑えてきて、しかしそれをしてしまうと死活問題になるために口を結び、芥辺から顔を逸らして笑いを飲み込む。これを佐隈や光太郎に教えたらきっと驚いて目を真ん丸くして、それから少しきらきらとした眼差しが送られるのかもしれない。でもやはり教えてはやらないのだ。幽明界を異にする者たちの邂逅も、それにまつわるあらゆることも、このままなかったことにしてしまったほうが楽だったし、この事実を自分だけが知っているということは、ベルゼブブにとってさほど悪い気はしなかった。
「あれだけ賑やかで楽しそうなのですから、まあ…出ていきたくなるのも分かりますがね」
「……おい、」
「なんでしょう」
「イケニエは出店の食い物でいいな」
「! これは珍しい」
貴方がお祭りで何かを買うところを想像しただけで、何やら可笑しくなってきますな。やはり声にはせずに口元に手を当てて小さく噴き出すと、ええ仕方ありませんねと鷹揚に頷くふりをして、ベルゼブブは眠たげないつもの笑みを芥辺に向けた。遠くの明かりと賑わいがふっとこちらに届いたような気がして目を上げれば、木立の隙間を縫って橙のまろやかな灯りが闇を彩っているのが見えた。