たなびく雲が夕闇に溶け込もうとしている時分、がやがやと人でごった返した賑やかな石畳に立ち尽くす女の子を、佐隈は困ったように眉を下げてそっと見つめていた。ふわりとしたワンピースを身にまとい、髪をふたつ結びにしているまだ幼稚園かそこらくらいに見えるその子はどうやら迷子のようで、人込みから外れて行き交う人々を見上げている様はとても所在なさげに映る。町内会で開催する夏祭りの縁日とあって、普段はひっそりと静まっているこの参道もたくさんの出店や提灯によって明るく照らされているのだが、そんな中にあっても誰ひとりこの心細そうな少女に手を差し伸べようとも、目を向けようとすらしないのだからどうなっているのだろう。ぽつんと街路樹に寄り添うようにして立ち尽くしていたその子に駆け寄ったときに佐隈は思わず辺りを見回してそう色を成してしまったものの、すぐに見上げてきた幼いまなざしがうるりと水気を帯びたので、慌ててしゃがみ込んで頭を撫でたのだった。祭りのざわめきが、少しそこだけ遠く聞こえるような気がした。 「なあねーちゃん、その子どっか案内所とかに連れてった方がいいんじゃないの?」 少し遅れてやってきて傍らで様子を窺っていた光太郎が、頭の後ろで手を組みながら大して心配もしていないふうに声をかける。そのぶっきらぼうにも見える上からの視線にびくりと肩を揺らした少女は、ふええ、と心細そうに顔をゆがめた。ちょっと光太郎君!しゃがんだまま首を回して諌めると、佐隈はよしよしと頭をゆっくり何度も撫でて安心させるために笑って見せる。浴衣に合わせて髪につけていた、水色の髪飾りが揺れた。花をあしらったそれに気を取られたのか、泣きそうな面差しを引っ込めた女の子はじっと佐隈の髪飾りを見つめて、やがてふうわりと寂しげに笑った。それがどことなく少女の浮かべるものにはふさわしくないように思えて、佐隈と光太郎は知らず知らず表情を曇らせる。おいおいオレのせいなのかよ、内心で光太郎はあたふたとしていたが、何を喋ったらいいのか彼には分からなかった。迷子を見つけたのがさくまさんでよかったと、密かに安堵さえしていたのだった。普段情け容赦のない顔ものぞかせる佐隈ではあれど、こういう時にはやっぱり優しいお姉さんになるものだ。しゃがんで少女と目線を合わせる後ろ姿は、なんというか絵になっているように思えた。 「もしよかったら、お姉ちゃんにお名前教えてくれるかな」 「……おさるさん」 「「えっ?」」 頓狂な声があがった。返ってきた単語に揃って目を丸くして、それからすぐに二人はひとつの方向を見つめたのちに顔を見合わせる。どうやら間違いない。佐隈のななめ後ろ、光太郎の背中にくっついているそれを指差した少女は、きらきらと目を輝かせてもう一度おさるさん、と見上げながら呼んだ。ウキッ、戸惑いと驚きを混ぜ合わせた鳴き声が落ちる。光太郎におぶさるかたちでついて来ていたグシオンが、少女のまっすぐな眼差しにうろうろと目を彷徨わせて羽や尾をぱたつかせた。おいコータロー、あいつオレのこと見えてるぞ! 「わんちゃん」 「ぬわっ!」 「ぺん……ぺんちゃん」 「ぺんちゃん!?」 光太郎が反応するよりも速く、次々と移り変った少女の視線の先には、いずれも小動物じみたシルエットをぎくっと固まらせた生き物がいた。佐隈は驚きに目を瞬かせ、少女なりの呼び方でそれぞれ呼ばれた二匹を代わる代わる見やる。傍らで呑気に成り行きを見ていたアザゼルと、その上のほうで気のない目をしていたベルゼブブ。まさか彼らのことが見えるなんて思ってもいなかったから、まじまじと女の子を見つめて言葉を詰まらせた。今までの不安そうな様子から一変して、その外見だけは可愛らしい生き物たちに目を奪われているらしい彼女。とても悪魔に関わる素質があるようには見えないのに、と、あどけない顔つきに疑問符を浮かべて表情を潜ませる。 「さくまさん、」 「は、はい?」 「ええとですね……幼い子にはこういうことは、よくあるのですよ」 「えっ、そうなんですか!」 ひそひそと耳打ちをしてきたベルゼブブの言葉に、陰りをほどいて眉を上げる。改めて目を戻そうとすれば、それとほとんど同じタイミングでわしゃ、とアザゼルの髪がいじられ掴まれ、ぎゃああと情けない声をあげながら彼は少女にひっぱられておもちゃにされ始めていた。あまり背丈の変わらない少女とアザゼル。やめんかいジャリがあ!とは叫んでいるもののどうやら手加減をしているらしく、抵抗もほとんど見せないアザゼルを眺めていたらなんだか可笑しくなってきて、佐隈はゆっくりと浴衣の裾を直しながら立ち上がって光太郎と目を見合わせた。光太郎もびっくりした顔をそのままにアザゼルと女の子を見下ろしていたものの、先程までのいつ泣きだすかという雰囲気から脱したことにはほっとしているらしい。そういうことなら心配ないとひとつ頷いて、じゃあ案内所に連れていこっか、とどちらともなく提案する。せっかく仲良さげになったのに可哀そうだが、このまま一緒に居るわけにもいかない。きっとどこかでこの子の保護者が困っているのに違いないのだ。 「もしもし、お嬢さん」 しかし、提案はふたりの間だけに納まってやがて消えてしまい、実行に移されることはなかった。少女の手を引こうと向き直るより先に、低く飛んだベルゼブブが少女と目線を合わせ、どこから来たのですか、と優しげな声色で尋ねたのだ。それならもう何度もききましたよと佐隈が囁こうとする。だがやはり一足早く口を開いた少女は、ベルゼブブをぷにぷにとつつきながら少し笑って、それからまたあの寂しげな顔をして、鈴のようにこう答えた。 「――あっち」 指差した先を皆が見る。参道をはずれたあまり人影のない小道が目に入り、えっ、と無意識に佐隈が訝しみを込めて声をもらした。あっちは出店はほとんどないし、灯りも少なく民家もない。暗がりではっきりとは分からないが、人通りもほとんど見られなかった。お祭りの日にこんな小さい子があちらから来たというのは、ちょっとおかしいような気がする。ねえそれほんと?思わず尋ね返してしまえば、ちょっと唇を噛みしめて女の子は俯いて、だけどもう一度しっかり指を差して頷いた。おじいちゃんとはぐれたのだと、それから彼女はぽつりぽつりと話してくれた。幼さゆえかあまり要領を得ないものであったけれども、その頑なさにはどうにも嘘ではないのだろうという雰囲気だけが濃く滲んでいて、佐隈と光太郎はまたしても困り顔で視線を合わせた。どうすんだよさくまさん、と無言で問われているような気がして佐隈は眉をひそめる。 「おじょーちゃんがこう言うてるんやから、そうなんとちゃうの」 「で、でもアザゼルさん……」 どこまでも呑気な口調のアザゼルを見下ろして声を落とし、だってやっぱりおかしいですよとちらちら暗い道を見やりながらいぶかしむ佐隈。出店の明かりと人波を見慣れていただけに、あの寂然とした一帯には不安を感じざるを得なかった。しかしそんな彼女の内心など知らぬように、またしても穏やかかつ軽い調子の声がかかる。聞き慣れているはずのその声音が、やたらとこの状況では浮かび上がって耳に届いた。 「大丈夫ですよ、さくまさん」 「え……ベルゼブブさん?」 「この子は私が送ってさしあげましょう」 「えっ?」 佐隈がぱちぱちと瞬きをしたときには、もうベルゼブブと少女は手を握り合ってこちらを見上げていた。眠そうな瞳がひとつの心配もなさそうな様子でわずかに笑い、あーそれがええねとアザゼルが軽い調子でうなづく。少女もすっかりその気になったようで、寂しげな顔など知らなかったというようににこにこと笑っていた。「ちょ、ちょっとベルゼブブさん!そんなのだめですよ私も行きます!」膝丈くらいまでしかない生き物たちに見上げられてますます不安を煽られた佐隈は腰を折ってそう口早に言ったが、それに今度は少女がびくりと怯えて肩をすくめると、ベルゼブブとアザゼルに隠れるように後ろへ下がってしまった。 ほうら見なさいさくまさん、もう私達になついてしまったようですよ。そーやさくちゃん顔怖いでえ!やいやい言われて少なからずショックを受ける佐隈であったが、見かねた光太郎に肩を叩かれて、やがてがっくりとうなだれることになる。なんでこんな悪魔どもに、と悔しい思いが寄せてきたものの、結局無垢な女の子の眼差しには敵わなかった。 「気を付けてくださいよー!」 トテトテ歩いてゆく小さな後ろ姿に声をかけながら、アザゼルを抱き上げて息をつく。本当にベルゼブブさんだけで大丈夫だったんですか、そう唇を尖らせてまだ気遣わしげに視線を向けている佐隈をちょいと見上げてから、大丈夫やて!とアザゼルはゆるく笑って答えた。ベルゼブブの暗い色の上着がゆっくりと闇に溶けてゆく。少女の明るい色のワンピースだけがぼんやりと浮かび上がって、それに目を細めてやれやれと気取られないように体の力を抜いてみた。慣れないことはしないものだ。なんだかやけにくたびれたような気がする。 (こういうんは、べーやんが一番得意なんや) 口には出さずにごちたアザゼルは、ふたりの小さくなってゆく影を見送りながら、そっとグシオンと目配せをして丸い瞳を捉え、ごく小さく頷いて見せた。光太郎の背中でやはりふたりを見送っていたグシオンも、その笑っているような無表情のまま、黙ってアザゼルに向けて瞬きをする。それからそっと大きく口を開けると、彼は悪魔使いふたりのごく新しい記憶だけをごくりと飲み込んで、そうしてまずい、とつまらなそうに呟いた。ころんころん、小さな球がグシオンの空っぽの腹の底に転がって、すぐに消えた。 → |