いかにも量産型といったぐあいの安っぽい調度に埋め尽くされた部屋の中、ベッドランプに照らされた白いシーツがぼんやりと溶けたマシュマロのように悪目立ちしている。その端に無造作に放られた黒地のスーツはさながらぽっかりと空いた穴のようで、触れたら吸い込まれてどこか永遠に帰ってこれない場所へ運ばれていきそうな、そんな馬鹿げた戸惑いを植えつけてこちらが手を伸ばすことを拒んでいるようである。彼が纏うあらゆるものは、例えば空気ひとつにしても、そういった畏れじみたものを与えるのが常であった。不用意に触れてはいけない気がした。だけど今この状況では、それもきっとままならないのだと。自身に背を向けて携帯電話を片手に低く喋る男の、やけに目に沁みる白いシャツを見つめながらベルゼブブは内心で呟いて、自らが押し込まれているこの手狭な部屋をひっそりと呪った。見渡すまでもない、低めの天井とすぐそこに迫る壁、ガラス窓のあちら側は大して面白くもない夜景、そしてこれがメインであると言わんばかりに鎮座ましますダブルベッド。その両端に腰かけている自分と、芥辺。
「ああ、念のため8時には外で張り込んでいてくれ…一人ずつ出てくる可能性が高いが、両方抑えれば撮影時間でれっきとした証拠になるはずだから」
電話の相手はさくまさんだ、ということには、彼の口調を聞いていればすぐに気がついた。この男は悪魔に対してはすこぶる鬼畜であるが、彼女にはなかなかどうして甘く優しい一面を見せる。その言葉遣いはどことなく幼びているようにも聞こえるし、あるいはそちらが芥辺の本来の喋り方なのだと言われたらそうなのかもしれない。うん、とひとつ頷いて何かを承諾、あるいは確認したらしい仕草を後ろから眺めながら、まるで別人のようだとぼんやり考えて目を細めた。こうして聞いていると恋人か、あるいは家族と他愛もないことを話しているビジネスマンであるとか、そういったカテゴリに彼を当て嵌めることだって難しくはないように思えてくる。実際のところ彼は佐隈に対してそういった、女性性であるとか、母性であるとか、を求めているのかもしれないと、ベルゼブブはこれまでも幾度か省察してきたことはあった。だがそれでもやはり考えるのみに留まって、口に出ることは勿論なかった。決定的なものは見えなかったし、何より悪魔と関わらせるという行為そのものがひどく歪んだ行いである以上、やはり裏があってのことなのかもしれないという疑念をもたらしているのだ。大切にしているのは分かり切っているのに、それがどういった感情に帰属するのか、というところが一向に明るくならない。人の本質を見抜くことには長けているはずのベルゼブブにとってこのもどかしさは、あまり好ましくないものだった。
そこまでつらつらと思案していると、不意に耳が沈黙を拾いあげた。知らぬうちに息を飲む。ぱたんと携帯を折りたたんだ芥辺が首だけを回して振り返り、なに見てるんだ、と感情の籠らない声を寄越した。いいえなんでもありません。かすかに冷や汗を滲ませつつ気のない音色を作ってゆるくかぶりを振ると、それを一瞥した芥辺は体の向きを変え、ヘッドボードに背を預けて片膝を立てた。ベッドのちょうど半分ほどが埋まる。おそらくこれが今夜のパーソナルスペースなのだと見て取って、改めて眉根を寄せたベルゼブブは肩を落とした。どうしてこの部屋はツインではなく、ダブルなのだろうか。
「隣がダブルだからに決まってるだろう」
「ああすみません口に出ていましたか……分かってますとも、ええ……ただ何というか所在ないというやつでしてね……」
ゆっくりゆっくり息をつく。こうして芥辺とビジネスホテルのよりによってダブルに泊るという冗談みたいな展開に陥ってしまったのは、元を正せば佐隈とアザゼルがヘマをしたからに他ならない。浮気の証拠を取るために尾行していたターゲット二人が、駅で一度別れてからこの寂れたホテルに別々にチェックインして落ち合うという小細工を演じてみせ、あの阿呆どもはそれにまんまとしてやられたというわけである。浮気にビジホってどないやねんラブホ行けやラブホォ!証拠写真の一枚も撮れないまま帰って来たくせに憤慨してそんなことを叫んだアザゼルは見事に飛び散ったが、しおらしく頭を下げる佐隈にはやはりお咎めもなく、芥辺は黙って携帯を手に取るとどこへかを電話をかけ始めた。すぐにそれはホテルへの予約だったのだと知れることになるのだが、あの時はまさか自分が芥辺と同行する羽目になるなど、ベルゼブブは夢にも思っていなかった。アザゼルは信用ならんし、さくまさんを男とダブルに泊らせるわけにもいかないからな。ソロモンリングを解かれて引きずられながら聞いた彼の言葉に、ああやっぱりさくまさんには甘いのだなあ、などと遠い目になったのはもう数時間前のことである。男ふたりがダブルに入っていくあの気まずさといったらなかったのだが、芥辺はそのところはどうとも思っていないのだろうか。思っていないのだろうな。これではどちらが悪魔でどちらが人間なのか、分かったものではない。非常に損をしている心地がする。
「やることやっておいて気まずいも何もあるか」
「……あなたは読心術でも身につけているんですか」
「お前の考えてることぐらい分かる」
「ああ……そうですか」
いいからとっととシャワー浴びろ生臭えんだよ、深い影を落とした双眸がぎろりと睨んでくるので、反射的にベルゼブブはベッドから腰を上げた。全身がひどくだるい。思えばほとんど何も身につけないままぼけっと背中を眺めていたのだと、ますますやるせなくなって手近にあったシャツを肩にかけて芥辺を睨み返した。半分は貴方のせいで生臭いんだがね。捨て台詞のごとく呟いてもこれといって反応を示すはずもなく、芥辺はただ濡れたままの髪を鬱陶しそうに掻き上げるだけだった。やることやってさっさとシャワーを浴びてきたと思ったら貴方がさくまさんと電話をし始めるから、なんとなく離れるタイミングを失ったのだとは口が裂けても言えまい。勘違いされて嗤われるか蔑まれるか、いずれにせよ好ましい結果など見えないのだ。自分でもこのもどかしさが何なのか分からないのだから、彼に告げたところで正しく伝わるわけはないのだった。
「ん?」
そうこうしながらタオルを抱えて、ユニットバスへ向かおうとした時だった。どこかで振動音が鳴っていることに気づき視線を巡らせれば、芥辺と目が合って不機嫌そうに顎でどこかを示された。彼の携帯ではないということは、すなわち。我ながらみっともない格好のままベッドへ戻り携帯をぱかりと開ければ、示されていたのは今ごろ魔界の自宅でだらけているであろう、自分をここへ連れてきた張本人である友人の名前。すぐさま半目をつくり、それでもとりあえず通話ボタンを押してやる。聞こえてきたのはやはりあの、間抜けで呑気極まりないアザゼルの声であった。
『ああべーやん?なんやあアクタベはんが出るかと思ったのにつまらんわあ』
「切るぞ」
『待って待って!なーもうヤったん?これからなん?最中狙ってかけたんやけどなあやっぱアクタベはんのことは分からんっちゅーか…あっもしかして今』ブツッ
「………………」
「……あ、アクタベ氏…?」
「ぎゃあぎゃあ聞こえんだよあの淫魔が…」
奪われた携帯がそのまま電源を切られるさまを見つめながら、ベルゼブブは頬を引きつらせてどうにか笑った。この場合笑うしかなかった。明日またバラされるぞアザゼルくん。黒いオーラを滲ませた芥辺から目を逸らしつつ胸の中で友人に手を合わせ、だがまあ自業自得だ、と大して同情もせずに踵をかえすことにした。ともあれ今はシャワーを浴びるのが先決なのである。視界の端で、携帯がベッドに放られるのを捉えた。自分もあれくらいできたらよかったのかと鈍い思考を巡らせてはみたものの、そもそも前提やら基準がまるきり違うのだから無理な話だ。アクタベ氏のことを考えたくない、自分の居心地の悪さはすべて、それに起因しているのだから。

「おい、ベルゼブブ」
「……は」
「念入りに歯を磨いてこい」
顔を見ないまま、瞠目してユニットバスのドアを閉めた。そうしてずるずるとしゃがみ込む。鬼のような男だ、本当にひどいことこの上ない。全部分かっているのだ、自分の彼に対する思い倣しも忖度も、それを放棄してしまいたい願望も、それが叶わないこともなにもかも。こうして逃げ込んだはずのバスルームで、まんまと芥辺のことばかり考えながら丹念に歯を磨いて口を清めてベッドへ戻ることの意味を思う羽目になったベルゼブブは、これまでになくアクタベ氏よどうか今すぐ死んでくれと繰り返し念じて膝に頭を押しつけていた。胸がざわついて止まらない。冗談でも何でもなく、このまま芥辺のことばかり考えていたら間違いなく、自分がどうにかなってしまいそうだった。





/始まりません終わるまでは