(これの続きのような)





魔法陣からゆっくりと下降したところへ腕を掴まれて、床に足をつけるより先に体が傾いだ。咄嗟に翅を羽ばたかせると浮力を得たように落下からは解放されたものの、引かれる力には逆らいきれずに舌打ちをする。褐色の肌とつり上がった口角と、蛇と林檎の刺青が目に飛び込んでくる。戻って来た途端にこれか。頬を引きつらせたと同時に招かれざる客の肩口に頭を埋めることになったベルゼブブは、内心ひどく悪態をつきながら、それでも予見できなかったわけではなかったので抵抗することはなかった。せっかく人間界で傷を癒してきたというのに、ここでまた派手にやりあってしまったら元の木阿弥だ。
「すっかり治っちまったってわけか」
「お陰様で。グリモアの力だよ」
「ハッ、それでまた野郎に抱かれたと」
「……そんな体力あるわけがなかろう」
耳元でわざと煽るように囁かれた台詞に心底呆れた声を返してやると、いくらか興を醒ましたらしくふんと鼻を鳴らしてルシファーはそのまま後ろへ重心を落とした。一寸ひやりとしたがそこにはベッドがあり、ようやっと此処が自分の寝室であったと思い至る。というか寝室に勝手に入って待っていたのかこいつ。俄かに苛立ちが沸いてきたものの、哀れな使用人の顔を脳裏に浮かべればこの男の所業などおよそ避けられるものではなかったと、もはや諦めるしかないように思われた。どさり、胸の上に倒れ込むのだけは御免だったのでどうにか腕を伸ばしてルシファーに跨る格好に留まると、明るい瞳がどこか可笑しむように細められ、それから背中に回っていた腕がベルゼブブの翅をいじり始めた。これはこの男が手持ち無沙汰のときによくしてくる、いわば無意識の範疇での手すさびである。どうやらさほど機嫌は悪くないようだと静かに息を吐き、つい先日この手によって散々痛めつけられた記憶をまざまざと蘇らせて顔を背けながら口元を歪めた。芥辺のところで一晩過ごしたことをまるで咎めるように拘束し続けてくるが、そもそもどうしてそうなったか分かっているのだろうか。分かっているわけがない。どうせこのオレがつけた傷を癒すなんてどうかしている、くらいに考えているに違いないのだ。

「せっかくいい感じに噛みついてやったのになあ」

ほうら見ろ!
思わず向き直ってじとりと睨みつけてしまえば、また尖った歯を覗かせてルシファーは笑った。そうしてしかし言葉を落とす間もなく背を引き寄せられ、あたかもこちらから求めたかのように見えるであろう角度で唇を合わせる。こいつを下に敷いてこういうことをするのは、ひどく珍しいような気がする。自然と舌が奥へと落ちてゆく。先日同じことをした際には切れた口内から血が唾液と混じり合って流れてきてそれは気持ちの悪いものであったが、今はただ歯を立てられるだけで抉り込むことはなかった。「なんだよカレー食ってきたのか?」「悪いか」「いいや別に」クソくせえよりはマシだ、嘲笑うように囁いてまた塞がれ、雑言を投げつける代わりに髪をぐしゃりと乱してやればすぐさま仕返しとばかりに蝶ネクタイを千切られた。
唇を重ねたまま、一体自分たちは何をしているのだろうか。半ば意地になってそんなことを続けているとただのガキになってしまったような錯覚に陥って、やがて互いの息が上がる頃にはもう色々と馬鹿らしくなり、この男に怯えていたことすら悪い夢だったような気分になってしまった。言い得て妙ではないか。気紛れな子どもなのだ、ルシファーという悪魔は。こちらの意など汲み方さえ知らない、自分勝手で、だけれどもすぐにこうして機嫌を戻してしまう、面倒な生き物だ。





「まぁあれは大人げなかったな。このルシファー様がお前程度に剥きになるとはどうかしてたぜ」
「後半が余計なんだよ」
「素直に非を認めるオレ……やべえな惚れる」
「勝手にやっててくれるか」
「もうあいつのとこになんざ逃げるなよ」
「……好きで逃げたわけじゃない」
再三繰り返すが、誰のせいか分かっているのだろうか。いや分かっているのか。だから殊勝にも非を認めているというわけだ、そのために人さまの寝室にまで入り込んで。まったく傍迷惑かつご苦労なことだ。アクタベ氏に面と向かって挑むのをどうやらまだ躊躇っているらしいルシファーくんは、私が彼の元へ逃げ込んでようやっと、自分が馬鹿なことをしたと気がついたというわけだ。ああなんと馬鹿な男か!そしてこの程度のことでミリ単位ででも絆されそうになった私の、なんと愚かしいことか!ベルゼブブはルシファーから視線を外す一心で、いつの間にか毛嫌いしていた筈の格好をとっていることにも気がつかずに、再びルシファーの肩口に顔を埋めて胸のうちで思いつく限りの悪態をついていた。この男がこんな台詞を吐けるなんて思わなかった。女の癇癪をなだめすかすような声色、背中を撫でる手つき、息交じりの笑い方。どれを取っても腹立たしい。それで自分をどうにかできると確信しているらしいところが、何よりも頭にくる。まさしく傲慢に踏み入ることしかしなかったくせに、敵の影がちらつくと独占欲を剥き出しにする。やはりただの子どもなのだ。
「似ているな……キミとアクタベ氏は」
「あァ!?ふざけんなどこが、」
「おや怒るなよ、また逃げてしまうぞ」
「逃がさねえよ……クソッ、誰が……」
ごろんとベルゼブブを抱き込んだまま寝返りをうち、視点を入れ替え、腕にいっそう力を込めながらルシファーは歯を噛みしめた。忌々しいと書いてあるその顔を見上げ、こちらに戻って来てから初めて浅薄な笑みを浮かべてやる。独占欲のぶつけ合いに利用されてやるのは癪だが、ルシファーがこれで自分の捉え方を改めるならばそれも面白いかもしれない。自己愛でできあがっている男がこういう顔をするのなら、それを自分だけに見せるというのなら、しばらく眺めているのも悪くはないだろう。





/幸福と不幸のトリル