差し出された薔薇を受け取ってしまったのは、そうしない限りいつまでも彼の鬱陶しいナルシシズムが垂れ流されて留まらぬことを、よく知っているためである。指に棘が刺さったので顔をしかめようとしたが、元より歪んでいた口角はさして形を変えることはなかった。毒々しいまでの赤色、それは彼の傲慢さをよく投影しているように思われて、数ある中でもこの花を最もよく選んでくる理由はなんとなく察しがついてしまった。彼にとっては無意識であろうが、自己主張の激しい赤に目を惹かれずにはいられないのだろう。そうでなくとも中世からずっと、薔薇はそこらの金持ちの庭にならば必ずと言ってよいほど植えられていた。自分がまだグリモアを持たなかった頃からそうだったのだから、薔薇というのは相当人間から愛されているのだと、幾重にも重なる花弁を見下ろして鼻白んだ。こちらとしてはこんな花、すき好んで手にするようなものではないというのに。
思い出したくもない記憶が、灰色がかった雪のようにちらついて積もってゆく。この花弁は腐敗すると存外いやな臭いがするのだと知ってしまった時からずっと、ベルゼブブは薔薇というものを極力近くに寄せないようにしてきた。今となっては消してしまいたい過去だというのに、トラウマにも近いかたちで深いところに残っている出来事を、それは色濃く縁取っているからだった。
まだ父親が一族を取り仕切っていた時代のこと。
力をうまく抑えられなかった当時の幼いベルゼブブは、契約主である富豪が懇ろに育てていた薔薇の垣根を腐らせ、枯らしてしまったことがあった。しおしおと溶けるように色を失ってゆくその植物を目の当たりにして、少年は魔界に逃げ帰って震えながら泣いた。花は好きだった。魔界には決して咲かないような綺麗な花は、とてもいい香りがする。欲を掻き立て自我を捨て去らせるような自分たちの好物への衝動とは異なり、ふわりと吸い寄せられるような、やわらかく不思議な魅力に満ちている。それを自らの力のせいでぐしゃぐしゃにしてしまったということが、幼いベルゼブブにはショックだった。
そんな折であったから。
膝を抱えた彼の前にひとりの少年が立った時、それはまるで、一筋の光のように見えたのだ。


「……馬鹿のひとつ覚えか」
「んんー何か言ったかー?嬉しくてまた泣いたりすんなよ」
「ふ ざ け た ま え」
花は、嫌いではない。しかしあくまで捕食対象としての好意であると認識してからは、必要以上に執着することも少なくなった。それでも関わることをやめられないのは、ひとえに目の前の男ルシファーが、暇を持て余すたびに人間界から何らかの花を持ってくるためである。それはご親切にも時を歪める彼の力によって、半永久的に枯れないような術がかけられているのが常であった。もっとも人間界でしか機能しない力であるから、誰かと契約関係にない限りはこのままベルゼブブの部屋に置かれ、魔界の穢れた空気を吸って枯れてゆくのを待つだけだ。ここに持って来なければ世にも珍しい花として咲き続けることができたろう、と思えばいっそ哀れになってくるが、そんなことは考えもしないであろうルシファーはただ、自らの力を鼓舞しながら笑っているばかりだった。もう放っておいたってベルゼブブの近くで花は枯れないというのに、それを知ってもなおこの行為をやめようとしないのだから、やはり馬鹿のすることだ。翳りなどさらさらない、感謝されてしかるべきだと告げている笑顔を細めた双眸で見上げながら、ベルゼブブはもどかしさを嚥下しつつ口を噤んだ。
『オレ様が何とかしてやるよ!』
『ほんと?ルシファーくん、』
『おう!このオレ様にできないことなんてねーからな!』
ルシファーが垣根一面の薔薇を蘇らせたあの日から何百年が過ぎたのか、もうはっきりとは憶えていない。ただ鮮やかな色どりに瞳を輝かせ、あの時ばかりは本気でルシファーに頭が上がらなかったことだけがまざまざと蘇る。今となっては嫌な過去でしかないそれも、しかしベルゼブブの根底に息づくものには変わりなかった。あれから何を思ったのか花を持ってくるようになったルシファーによって、何本の花々が摘まれていったのか、あるいはベルゼブブによって運良く人間界に移されて永遠の命を手に入れたのか、やはりひとつも覚えていない。ただ確かなことは、ベルゼブブがこれまで一度たりとも差し出された花を受け取らないことはなかったという、それだけであった。
花は嫌いではない、ルシファーの自分語りは聞きたくない、だから受け取ってやっているのだ。自らにそう言い聞かせながらも、本当はどこかにもっと別の理由が根ざしているように思われて忌々しげにかぶりを振るのは、なにもこれが初めてではない。繰り返されるたびに疑念と可能性は噎せ返るほどに濃くなって、ベルゼブブの思考を鈍らせていくようだった。何百年過ぎようとも、あの日のルシファーの笑顔が頭から離れない。自分の涙を止めたあの自信に溢れた顔が、紛れもなく当時のベルゼブブを救ったのだということ、そこからすべてはおかしくなってしまったに違いない。
「キミはずるい」
赤い花弁をひとくち食むと、苦く、瑞々しく、甘い香りが体を満たした。何もかも分かっていると言わんばかりに笑って乱雑に頭を撫でてきたルシファーの指、それに目元を歪ませながらも、どういう風の吹き回しかと自らを嘲りたい気分のまま、今だけは振り払わないでやろうと目を伏せる。そうしてベルゼブブは舌よりも鮮やかな色を噛みちぎり、咀嚼して、永遠の命をためらうことなく飲み込んだ。もう二度と、薔薇が枯れるところを見るのは御免だった。






/Un cauchemar doux supreme