寝返りを打とうとしたさくまさんの片腕がだらん、とまったくの力を失って投げ出されたので、落ちますよとため息交じりに声をかけてやる。指先はぎりぎりのところで床にぶつかることはなく、振り子のように少し揺れてから空中で止まった。うーん、とかなんとか意味のない唸り声を出して眉をひそめた彼女はまだ眠りの縁と現実世界とをうろうろしている様子で、それでもこちらの呼び掛けに反応しただけマシかと息をついて浮かしかけた体をソファに埋めた。この女が床に熱いベーゼをしようが知ったことではなかったけれども、お守りを任されてしまったのであまりないがしろにするわけにもいかない。起きるまで見ていてやれ、と言い捨てて出ていったのは他でもないアクタベ氏であった。雇い主のくせにバイトの面倒も見ずにどこへかと出掛けてしまうのだからふざけた話だ、横暴だ、職権乱用だ。酔いつぶれたガキの面倒なんざあの猿あたりにみさせやがれ!数分前までさくまさんを起こさない程度の音量でしばらくそうやって貶し続けていたけれども、いい加減に疲れてきたためにやがて虚しくなり、現状について考えるのをやめた。最小限まで蛍光灯を消してある室内は暗い。今日に限ってアザゼルくんがいないというのもつまらなかった。彼が居ればまだ過ごし方はいくらでもあるものを。
仕方がないので菓子でも開けるか、そうひとりごちでガサガサと引き出しを漁っていると、むにゃむにゃと何事かを口にしたさくまさんがまたごろりと寝返りをうった。今度こそ落ちるかと思ったが、上手いこと先程とは逆向きに転がったので、ちょうど仰向けになって阿呆面を浮かべている。どれだけ飲んだんだと呆れてしまうが、それよりも何故ここに戻ってくるのかという苛立ちが勝っていた。自宅まで帰る気力が残らないほどに飲むとはとんだ馬鹿女だ、セーヤのときもこれでチョンボしたことを忘れてしまったのだろうか、ああ嘆かわしいビチグソ女!こんな小娘に文句のひとつも言えない自分がいっそ惨めである。
チッと舌打ちをしながら適当な菓子を持ってソファへ飛んでいると、むにゃむにゃの中にかろうじて聞きとれる単語が混じっていた。ふたたび視線を向ける。開いているのか閉じているのかいまいち判別できないとろんとした目つきであったが、天井を向いたままさくまさんは確かに私の名を呼んだ。べるぜぶぶさーん、呂律が回らない阿呆っぽい口振りで何度も呼ぶので、うるせえな聞こえてますよと定位置に戻って返してやるとへらりと彼女は笑った。どうやら意識はそこらへんにふわふわと漂っているらしい。今つついてやれば起きるかとも思ったが、舌足らずにまた何事かを言い始めたので黙ってやると、ぐてんと首だけをこちらに向けてさくまさんは呟いた。
「ベルゼブブさんはァ、わたしのこと好きれすか?」
「はあ?」
「むにゃ、……ちゃんが、私はお金に煩いからァ、男に好かれないっていうんですよー…ひろくないれすか!?お金にずぼらなひとらって好かれませんよねえ……ううーん……」
「……ちょっと、もっと分かりやすくお喋りなさい」
どうやら友達と飲んでいて癪に障ることを言われたらしい。それでこの有様なのだとしたら、顔も知らないその女を呪ってやりたい。金に関する話などどうでもよいが、それに振り回される人間の浅ましさにはいつの時代も反吐が出るというものだった。ぐでんぐでんと蛸のように力の入らない腕を酔っ払いそのものの動きで揺らしながら、さくまさんは質問を投げかけておいてそのくせ、こちらの言うことには耳を貸さずにぐだぐだとくだを巻き続けている。好きか嫌いかと言われてもそういった感情とは切り離されたところに彼女は居るもので返答に困ったが、それを告げたところで聞き取れるとは思わなかった。理解能力は抜けきってしまうくせに、口だけはべらべらと動くのだから酔った人間というのは始末に負えない。あなたが治すべきなのはまず金癖ではなく酒癖ですよ、彼女が正気に戻ったらまず言ってやらねばならないのはこれだと胸に誓った。
ごろんとまたしても不安定に転がろうとするので、今度こそ彼女のほうへ飛んで近づきながら名前を呼んでやる。言いたいことを言いまくったせいか、先程よりまどろみは深いようである。さくまさん、ちょっとさくまさん。落ちるな落ちるなでもうっかり落ちてしまえ、矛盾するそれらを内心念じながら繰り返すも、うーんむにゃむにゃへらへらと腹の立つことこの上ない醜態を晒しつつ、さくまさんは呑気にそして不安定極まりなくソファに寝そべっている。
「……!おや、」
もはや聞き取り不可能となった寝言レベルの呟きに、びしりと顔を歪ませて「クソが」と罵ったところだった。がちゃりと幾分抑えられた音をたてて開かれたドアを見やれば、コンビニの袋を片手にアクタベ氏が姿を現した。帰っていたのですか、目を瞬かせて尋ねれば無言の一瞥のみが寄越されて、すぐに彼の足は冷蔵庫のほうへと向かってしまう。そうしてペットボトルであるとかヨーグルトであるとかをがらんとしたそこへ突っ込んで、また戻ってくるとアクタベ氏は黙ってさくまさんの顔を覗きこみ、よく眠っているなと至ってつまらない感想を述べて上着を脱ぎ、彼女にばさりとかけた。「おやまあお優しいことで」「煩い」ガサガサとまだ中身の残っているらしいレジ袋をぶら下げたアクタベ氏はそう冷たげに吐き捨てると、来いとだけ告げて歩を進め、窓際のデスクに落ち着いた。見ればそこだけ電灯が点いているので、彼なりの気遣いなのだろうと思えばまた目を細めて皮肉を込めて笑うしかない。彼はいつだってさくまさんにだけは優しいのだ。
「アクタベ氏、金に煩い女性はお嫌いですかな」
「あ?」
「さくまさんがうわ言でそう嘆いておりましてねえ…しかし貴方はそうでもありますまい?似た者同士と申しましょうか」
「何言ってんだテメエは」
「ですから……へぶッ!?」
「くだらねえこと喋ってねえでそれでも食ってろ」
顔に熱いものが命中してもんどり打ったが、反射的に両手で抱えることに成功したのはそれが放つ魅力的な香りのお陰であった。紛れもないカレーまんである。ア、アクタベ氏これは!知らずうちにぷるぷると震えながら尋ねれば、イケニエだと気のない様子で呟いて彼はちらと私を見た。仄暗い灯りの下では彼の面差しはどこまでも鋭い眼光に彩られているばかりであったものの、予想よりも苛立ちは込められていないようだと密かに安堵する。イケニエを前にしては、こちらの八つ当たり同然の皮肉などなかったことにしていただいたほうが都合がよいというものだった。
アクタベ氏はふんとつまらなそうに視線を外すと、どうやら彼の夕食であるらしいサラダとおにぎりを取り出して感慨なくそれらのパッケージを開け始めた。普段さくまさんが居る時にしか食事を共にすることはないもので、彼ひとりの食事風景というのは目に新鮮であった。生活感のない男だとは思っていたがやはりこんなものかと、落胆というわけではなく息をつく。それでもしっかり食事を摂っているだけましといえば、そうに違いなかった。「座って食え」「あ、はい」ぽてりとデスクに正座をする。殴られるかと一寸身構えたが、何事もなく彼はサラダにドレッシングをかけ始めたのでほっと力を抜き、私もカレーまんを咀嚼しにかかった。
「死肉と汚物しか愛せねえ奴が下世話なことを口にするな。アザゼルじゃあるまいし」
「……はいはい、悪うございましたな」
「妬くなんざ千年早いんだよ、クソ虫が」
箸の先のあたりで頭を突かれ、その容赦のない強さにごろんと転がる。ピギャ、思わず声をあげればまた煩いと罵られて理不尽さに顔をしかめたものの、流血沙汰にならないということは加減されたのだとすぐに分かって居た堪れない気分になった。妬くわけがないでしょう、自惚れないでいただきたい。起き上がりつつじとりと見やればひどく嫌な笑みを浮かべたアクタベ氏がおにぎり片手にこちらを見ていたので、意味もなく翅をばたつかせて顔を背け、残りのカレーまんを頬張ってやった。顔が熱いのは、カレーまんが熱いからだ。そうに決まっている。





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